花見川地峡の自然史と交通の記憶 21
1 東海道本道の状況
2013.06.24記事「平安時代の東海道と花見川地峡」で、東海道が市川付近から千葉付近まで通っていた頃、幕張には浮島駅があり、当時の駅は陸運路と水運路の交点に作られるので、花見川-花見川地峡-平戸川(新川)という水運路(一部陸路)で東京湾と香取の海が結ばれていたという仮説(モデル)を示しました。
水運と陸運の併用模式図(仮説)
井上駅-浮島駅-河曲駅の区間の東海道としての重要性が最も高かった時代(本道と同じ馬10匹が浮島駅に備えられるようになった時代)の東国道路体系は、中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)によれば次の通りです。
持統3年(689)から神護景雲2年(768)までの道路体系
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色
このころの東海道本道は幅員12m程度の直線道路であり、わが国の現代高速道路網以前に存在した唯一の全国計画道路網を構成していたといわれています。
2 花島観音の寺伝
花島観音の正面
花島観音の寺伝によれば、「和銅2年(709)4月、行基が東国巡錫のとき、当地へ至り、その時観音を刻み、一宇を建立し、これを安置した。これが花島観音の始まりといわれている。」としています。
この寺伝に気がつき(それが正しいか、後から創作されたものであるかの議論はさておき)、この寺伝の年号と行基が来訪したということと、花島観音と浮島駅の位置関係が頭のなかで結びつき、絡み合いました。
花見川地峡の交通に関する有力情報を見つけることが出来たと思います。
詳細にわたる検討は追ってすることとし、とりあえず、気がついたことを忘れないようにメモしておきます。
3 花島観音は交通ネットワークの中に存在していたはず
行基が東国巡錫(じゅんしゃく)したとき、東国には上図で示した幅員12mの直線幹線道路網(駅路網)が整備されていました。この幹線道路網を補助する陸路支線網(伝馬路、伝路)、水運路が整備あるいは存在していたはずです。行基はその交通ネットワークを利用して花島観音の始まりとなった場所に来たはずです。
行基が、いわばたまたま花島の地を訪れたということは、花島の地がその時すでに、交通ネットワークの中に組み込まれていたということを証明しているのではないでしょうか。
何もない、行き止まりの花島の地に、たまたま行基が来訪したということは考えにくいことです。
何もない、行き止まりの花島の地に、たまたま行基が来訪したということは考えにくいことです。
花島を巡る8世紀初頭の交通ネットワークは次図のAではなく、Bであったと思います
8世紀初頭の花島を巡る交通ネットワークモデルA
8世紀初頭の花島を巡る交通ネットワークモデルB
花見川地峡を通る交通の存在が花島観音の行基来訪伝承によって証明されるのだと思います。(仮に行基伝承が後からの創作であっても、花島観音の位置そのものが、花見川地峡の交通の存在を証明します。)
次に、この花見川の地になぜ行基が出てくるのか、その意味を考えます。深い意味が隠されているように感じます。
つづく
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