花見川地峡の自然史と交通の記憶 26
地名を補助的に使うということで、証拠能力のランクは下げたのですが、興味は逆にますます深まっています。
というのは、地名を決め手にして物事を証明することはできないが、地名からこれまで知られていなかった事実に自分が気がついて、新たな仮説を持つことができると感じるからです。
地名検討は新たな仮説を生み出す重要な糸口になると実感しつつあります。
1 津の意味について
花見川地峡の戸地名に注目する中で、戸と津の関係について検討し、海夫注文の検討から「津」は支配層が使う一種のテクニカルタームであるとしてきました。(2013.06.27記事「14世紀文書「海夫注文」における戸と津」)
この見立ては正しく、さらに深めて理解しておくことによって、戸と津の関係をより正確に知ることができると考えられる、次の情報を得ました。
「(津は)古代律令制社会では、民部省の管掌下、国郡司による国家的管理をうけた。中世では、その伝統をひく国津(国府の外港)が重要な位置を占めつづけるとともに、≪庭訓往来≫に領地開発の際設置すべきものとして<廻船着岸之津>が上げられているように、さまざまな津が各地域の開発にともなって簇生した。」(世界大百科事典)
要するに津は古代にあっては国家が管理する港湾であり、土地を植民支配する際に義務付けられた重要施設であるということです。
つまり、津とは港湾を意味する、支配層が使うテクニカルタームそのものです。
津とはそれが地名化して後世につたわるかどうかは別として、最初に使われたときは地名ではなく、施設種類を表す公用語として理解することがよいと思います
津を、港を表す一般語として理解して、他の戸とか、泊とか、湊とか、(近世の)河岸とかと同じ平面上で考えると物事の本質が見えてこないのだと思います。
私自身もふくめて、津という言葉に対して現代人は、それが植民・支配・軍事に係る固いテクニカルタームであるということを感覚していません。逆に文学的、風景的に柔らかい用語として誤解しているのだと思います。
その誤解のために、戸と津の関係について専門家の間にさえ、混乱が生じているのだと思います。
私は、古代に付けられた地名を対象にした場合、津とでてくれば、それは植民・支配・軍事のために律令国家(とその系統の支配層)が直営でつくる港湾施設、戸とでてくればそれは(海の民・水上生活者など)民間が開発した水辺の植民施設と考えて大きなまちがいないと思っています。
同じ場所について○○津と○○戸が出てくる場合、官側から港を一種の支配施設として見た時「津」と呼んだのだと思います。民側から一般の港機能を見た時「戸」と呼んだのだと思います。そこにあるのは視点の違いであると思います。
2 花見川地峡周辺の津
さて、花見川地峡周辺には、○○津という地名はあまりないのですが、次のような例が大字レベルではあります。(まだ、小字レベルの津は本格的に探索していませんがこれまでには見つけていません。)
●高津(八千代市)
●志津(佐倉市)
●公津(成田市)
これらの津地名について1で検討した津の意味との関連について検討すると、古代交通に関する思いもかけない重大な仮説が脳裏に浮かびました。
「地名を持って物事の証明にすることはできないが、地名を持って新仮説を発想するきっかけとする」ことになりそうです。
つづく
花
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