2014年12月1日月曜日

駅家と津、駅路網と水運網

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.10駅家と津、駅路網と水運網

この記事では、奈良時代前半~中期の東京湾岸の駅家と津、駅路網と水運網の関係について検討します。

次の図は5mメッシュから作成した標高8mを境とした土地分布図です。

標高8mを境とした土地分布図
図下部の白抜き模様は5mメッシュの未整備域

現在の標高8m付近より低い低地はほぼ縄文海進時の内湾分布に合致します。(2014.04.08記事「縄文海進クライマックス期の海陸分布」参照)
従って、標高8m付近より低い土地は古代(古墳時代~奈良・平安時代)においては水面であったか、低湿地であった可能性が高く、その範囲にある河川は海からの水運に支障がなかった場所であると考えて間違いありません。

つまり、上記「標高8mを境とした土地分布図」の青色部分は水運可能範囲です。

この図をGoogle earthに投影して、駅家と津、駅路網と水運網について考察します。

東京湾岸の駅家と駅路網の文献情報に「標高8mを境とした土地分布図」をオーバーレイすると次のようになります。

【文献情報】東京湾岸の駅家と駅路網

駅家の位置が、浮島駅の位置を補正すると、全て主だった河川の河口に位置しているという特徴が浮かび上がります。
駅家の位置は河口のミナト(つまり河口津=流域支配のための直轄港湾)の位置に重なると考えて間違いありません。

駅家の位置と河口津との関係を図示すると次のような図になります。

【検討】東京湾岸の駅家と津

東京湾岸の駅家は陸路網の結節拠点であると同時に、その場所に津(官の流域支配拠点としての港湾)が併置された水運網の結節拠点であると考えることが適切です。

東京湾岸の駅家に全て河口津が併置されている(※)と考えると、次のような水運網をイメージすることが可能です。

※駅家という建物施設の場所と河口津という港湾施設が必ず全く同じ敷地内にあったとは考えなくてもよいと思います。サイトの地形条件によって、駅家施設と津施設がある程度離れていた場合もあったと考えます。現代交通機関の乗換が便利なところと不便なところがあるのと同じです。


【検討】東京湾岸の水運網イメージ

律令国家による駅制システムが制定される前に、既に東京湾の河口津を結ぶ水運網がすでに存在していて、その水運網は逗子横須賀船越で相模湾水運網とつながっていたと考えます。

また東京湾の水運網は花見川船越をメインに、都川-鹿島川船越をサブにして香取の海水運網とつながっていたと考えます。

このような既存水運網、津(直轄港湾)システムを土台にして、国家的陸上(=高速)通信移動システムとしての駅路網がつくられたと考えます。


このような検討から、浮島駅の位置について再度戻って検討してみます。
「東京湾岸の駅家は同時に水運網の結節拠点である」という前提で考える「べき」ものだと考えます。
「浮島駅の場所を河曲駅と井上駅の中間付近が津田沼付近だから、津田沼付近に比定しておけば間違いない」という漫然とした思考は、そもそも検討出発点が間違っているのだと思います。
「浮島駅の水運上の機能はどのようなものであったのか」「浮島駅はどの河川の河口津であったのか」という自問を、その位置検討にあたって最初にしなければならないのです。
このように考えると、浮島駅を津田沼に比定した思考の合理性の無さがよく確認できます。

注)船越とは水運路と水運路をつなぐ短区間陸路の意味として使っています。航海技術や土木技術が未発達であった古代特有の水運網連絡技術です。

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