2014年12月14日日曜日

古代交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.19 古代交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ

1 茨城県域の香取の海沿岸を含めた奈良・平安時代遺跡密度図の作成
古墳時代遺跡密度図と同じ方法(カーネル密度推定、半径パラメータ5000m)で奈良・平安時代遺跡密度図を作成しました。
茨城県の埋蔵文化財時代区分が奈良・平安時代一括であるため、千葉県のデータも同じ区分に調整しました。

次に古墳時代と奈良・平安時代のそれぞれの遺跡密度図の対照図を作成しました。

古墳時代と奈良・平安時代の遺跡密度図対照図

遺跡密度の高い場所が劇的に変化している様子が判ります。
千葉県域という行政区分の枠を超えて茨城県域の一部を同時に検討してとても良かったと思います。香取の海に関する歴史考古の検討の第一歩が踏み出せました。

この記事内容とは直接関わりませんが、この範囲の旧石器時代遺跡密度分布図、縄文時代遺跡密度分布図、弥生時代遺跡密度分布図を早期に作成して、あらためて、常総(香取の海沿岸)と総武(東京湾沿岸)を合わせた地域の歴史考古を検討したくなります。

2 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1

奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1

ア ヒートマップ
国別に見ると、古墳時代では赤色地域(遺跡密度の高い場所=地域開発が進んでいる場所=人口高密度地域)の拡がりが上総国→下総国→常陸国→安房国の順番が画然としていました。(2014.12.13記事「古代交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ」参照)

ところが、奈良・平安時代の赤色地域の面積は下総国→常陸国→上総国→安房国の順番に劇的に変化しています。

下総国はその領域全体に赤色地域が分散して分布していて領域全体に地域開発が進んでいるよう様子をみることができます。

常陸国(正確にはその一部)では国府の南側に広大な赤色地域が生れています。同時に各所に赤色地域の目玉が生れています。領域全体の開発が急速に進んでいる様子が、一部地域のデータにしかすぎませんが、よくわかります。

一方、上総国は赤色地域が減少し、地域相対的に地盤沈下している様子が手に取る様にわかります。

このような古墳時代→奈良・平安時代の変化と東海道(陸路)メインルートにおける浦賀水道横断の中止が密接に結びついていることは容易に対応づけることができます。

古墳時代にあっては、房総・常陸の植民・開発が主要な地域課題であり、そのためのメインルートは最初から最後まで水運路であり、それは浦賀水道横断しかあり得ませんでした。

ところが奈良時代になり、律令国家の国家戦略して陸奥国における国土拡大が重要課題となり、その手段として蝦夷戦争を始めると、陸奥国と国家中央の高速通信移動網の整備が必要になり、その改革を進めると、相模国府→下総国府→常陸国府を直線状に結ぶ陸路ルートが完成します。上総国は外されます。

また東国諸国の兵員、兵糧を動員して陸奥国に届けるための水運網の強化が課題となりますが、この水運網強化においても、上総国は関係のない地勢に置かれています。

一方、下総国は東京湾と香取の海の水運網をつなぐ船越を3つ持ち、軍事的戦略的要衝地域となります。常陸国は東国諸国から集まった兵員・兵糧を陸奥国に届ける最終出発地としての重責を担います。

3 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2

奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2

ア オーバーレイ検討
・下総国府付近に赤色地域が生れ、(古墳時代にはほとんど何もなかったこの地域が)行政上の拠点になったことがわかります。

・鳥取駅、山方駅付近に赤色地域が拡がり、河曲駅および大倉駅から香取の海に向かう水運メインルートが都川-鹿島川船越経由であることがわかります。

・花見川-平戸川船越ルートに赤色地域が生れ、都川-鹿島川船越経由の水運路に次ぐ主要水運路であることがわかります。

4 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3

奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3

・榎浦駅→曾禰駅→常陸国府に向かうルートに赤色地域が生れ、奈良・平安時代のメインルートがこのルートであったことがわかります。

・常陸国府の西南隣に赤色地域が連担し、国府を起点に地域開発が急速に進展したことがしのばれます。

・また、常陸国各所の赤色地域の目玉が生れ、常陸国自体が急速に地域開発されていった様子を感じることが出来ます

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