2014年12月15日月曜日

中央と陸奥国を結ぶ古代駅路ルートと水運ルート

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.20 中央と陸奥国を結ぶ古代駅路ルートと水運ルート

2014.12.10記事「陸奥国と中央を結ぶ東海道メインルートの変遷」で紹介した2図書掲載駅路網情報を参考に、奈良時代初め頃から11世紀頃まで使われて駅路網を全て重ねて表現した図を作成して、奈良・平安時代遺跡密度図とオーバーレイしてみました。

変遷した駅路網を重ねて表現した理由は、駅路網のメインルートの変遷がそのまま道路網の改廃新設と考えることができないと考えたためです。

現代でもバイパス道路ができて、交通流の主流がそちらに移っても、旧道は残り生活道路として使われることは一般的なことです。

古代にあっても、駅路網メインルートから外れたルートは道路としてすぐに廃絶するのではなく、長期にわたって重要な交通路として使われたと考えることが適切だと思います。

特に、駅家が河口津を始めほとんど津(直轄港湾、地域の支配拠点)と関わっているという事実から、一度作られた駅路網ルートは、その後駅制から外れても、実際の交通機能は保持して社会的に機能したと考えます。水運網を補完したに違いありません。

1 奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ

奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1

奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2

奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3

東京湾と香取の海の水運をつなぐ3箇所の船越のそれぞれの場所に赤色地域が生れ、それぞれが船越(2つの水域の水運網をつなぐ短区間陸路)として機能していたことを示しています。

赤色地域の分布広がりは東の都川-鹿島川船越で一番大きく、次いで真ん中の花見川-平戸川船越、西の太日川-手賀沼船越は最も小さくなっています。

赤色地域は高遺跡密度を表現しますが、これを開発が進んだ地域=人口高密度地域と読み替えることができると考えます。

そのように読み替える、赤色地域の大小は船越を通過する物流量と相関している可能性があると考えます。

同時に物流量という見方以外の別の視点で、3つの船越の使い方の違いを検討する必要があるように感じています。

花見川河口津に玄蕃所遺跡があります。玄蕃所遺跡は蝦夷捕虜収容所であったと考えると、花見川-平戸川船越は軍用ルートであった可能性が濃厚になります。浮島牛牧や高津馬牧がこの船越の位置にあることも、花見川-平戸川船越が官優先であったというイメージを強めます。

都川-鹿島川船越は花見川-平戸川船越と比べてより民間優先のルートだったのかもしれません。

2 参考 9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート

9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 1

9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 2

9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 3

1の図に9~11世紀の東海道駅路ルートと代表的東海道水運ルートを描きこんでみました。

9~11世紀の東海道駅路ルートは大局的に見ると、相模国府-下総国府-常陸国府を直線状に結んだ形状に収斂しようとしています。

この形状と、相模国府、下総国府、常陸国府はともに既存支配拠点から離れて、計画的に配置され、設置された国府であるという出自との間には深い関係があると考えます。
駅路ルートの計画性と国府配置の計画性の発想の根は同じです。古代人の計画的発想力は現代人に負けていません。
古代国家における計画性については、折に触れ検討を深めたいと思っています。

なお、東海道駅路ルートではこの図の区間だけでも、相模川、多摩川、太日川、香取の海などの渡河地点があり、陸路といっても移動では天候に左右されることが多かったと考えます。

代表的水運ルートは相模湾から太平洋に抜けるまでの間に相模湾-東京湾、東京湾-香取の海、香取の海-涸沼の3箇所の船越が存在します。

船越では荷物を船から一旦全部降ろし、人力運搬で丘越えし、再び船に載せるという手間をかけるのですから、近世や現代の水運と比べると恐ろしく非効率です。しかし造船・航海術や土木技術が未発達の古代では船越という技術により遠方まで水運網の繋がりをつけることができたと考えます。

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