2015年4月29日水曜日

八千代市白幡前遺跡 ハマグリを食った場所はどこか

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.119 八千代市白幡前遺跡 ハマグリを食った場所はどこか

八千代市白幡前遺跡からハマグリをメインとする貝層が出土してますので、検討します。

1 これまでの検討
2015.03.23記事「ハマグリを食ったのは誰か」では、平戸川筋(現在の新川筋)古代遺跡から多量のハマグリが出土していることについて、蝦夷戦争のための戦略的兵站業務(戦略物資生産・供出、輸送支援等)に日夜邁進している(銙帯を付けた)官人がハマグリを食ったのではないかと検討しました。

銙帯出土遺跡とハマグリ出土遺跡

2 八千代市白幡前遺跡における貝層出土状況
白幡前遺跡貝類出土遺構を地図にまとめてみました。

白幡前遺跡貝類出土遺構

この地図からきわめて特徴的な情報を引き出すことができますので、次項以降にまとめてみました。

3 ハマグリ出土の偏在性
掘立柱建物150棟、竪穴住居279軒の遺構が検出されていますが、貝層出土遺構は少量出土遺構もふくめて、わずかに15箇所です。建物数にたいしてその偏在性は大変特徴的です。

次の図は以前検討した千葉市上ノ台遺跡(古墳時代後期)の貝層出土竪穴住居跡分布図です。

参考 上ノ台遺跡 貝層と魚骨出土分布図
この分布からは、竪穴住居跡300超の集落で、その住民がこぞってハマグリを食べ、それを廃滅した竪穴住居跡のゴミ捨て場に捨てた様子が示されています。

このような一般住民がハマグリを食っていた様子と較べると、白幡前遺跡では特定の選ばれた人間しかハマグリを食っていなかったことは明白です。

4 貝類特別多量出土遺構P138土壙(井戸)のあるべき所属ゾーンの検証
貝類特別多量出土遺構は1BゾーンのP138土壙(井戸)1箇所です。

土壙(井戸)の年代は不明とされていますが、報告書中では、共伴する土器は3期(9世紀初頭)であり、3期に廃滅したとしています。従って、貝類の廃棄も3期であることがわかります。

報告書では「北側から多量の貝が廃棄されており、その量は埋土全体の約1/3を占める。貝層は中心部で1mを超し、ほぼ純貝層と言えるものである。断面の観察から8層の分層が可能で、それぞれの層は廃棄の単位を示していると考えられる。」と記述し、0.16m3サンプルを6つ取り出し、その貝リストを掲載しています。
サンプルの主な貝は次の通りです。

ハマグリ 19637
シオフキ 10310
他13種

P138土壙(井戸)は、報告書では1Bゾーンに入っていますが、プロット図に示したように、1Bゾーン主部(掘立柱建物群)から200m程離れてしまいます。また1Bゾーン主部からこの土壙(井戸)に来るには坂を上ることになります。

また、P138土壙(井戸)は2Aゾーンに隣接し、2Aゾーンが使っていた段丘崖斜面の途中にある井戸跡であると考えられます。

このような地理的・地形的情報から、P138土壙(井戸)は2Aゾーンとの関わりで考えるべきことが、判明します。

(P138土壙(井戸)は北側から埋め立てられているということは、斜面にある井戸ですから、斜面下側の位置、つまり井戸の北側に井戸の入り口があったと想定でき、その入り口から埋め立てられたと考えられます。従って、北側から埋め立てられたということは、井戸北側にある1Bゾーン主部から廃棄物が運ばれてきたということを意味しません。)

情報を地図にプロットすることによって、情報が「見える化」するという典型例です。

結果として、P138土壙のハマグリは2Aゾーン(寺院ゾーン)で消費された貝類の廃棄物であることが判明しました。

これまで、報告書を読んでいる時は、P138土壙の大量ハマグリは1Bゾーンに想定する司令部や高級将官逗留に関わるものであると、てっきり考えていましたが、その想定は完全に覆りました。

1Bゾーンの主部には5箇所のハマグリが少量出土する遺構があり、司令部や高級将官逗留に関わるハマグリはそちらが対応するのです。

5 P138土壙ハマグリと関連する特別遺構H066

P138土壙付近の1Bゾーンと2Aゾーンの遺構配置を地図にすると次のようになります。

P138土壙付近の1Bゾーンと2Aゾーンの遺構配置図

P138土壙を2Aゾーンとの関係で把握すると、なんとH066 3間×3間総柱構造掘立柱建物のすぐ近くに3箇所の貝層出土遺構が集中している様が浮かび上がります。

H066 3間×3間総柱構造掘立柱建物から10mの場所にD140貝層多量出土遺構、20mの場所にD136貝層少量出土遺構、30mの場所にP138貝層特別多量出土遺構が存在します。

H066の直近に3箇所の貝層出土遺構が存在する意義を考えることは多くの情報をもたらすことになると思います。

遺跡発掘調査報告書ではH066を次のように記述しています。

「総柱構造の建物は白幡前遺跡全体でも非常に少なく…H066は3間×3間という規模を有し、束柱の掘り方もかなりしっかりしている。H066は収納施設として妥当と考える。」
「H066は1棟だけ他の掘立柱建物から離れて位置するが、周辺の竪穴住居跡は3期後半以前の構築であり、H066を取り囲むように配置されている。H066についてもH069(※)と同時期に存在していたと考えられる。」
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)より引用
※周溝内の身舎部分が3間×2間四面廂付総柱構造掘立柱建物。

報告書では、H066は周溝を巡らした寺院施設から1棟だけ離れている、さらに寺院のメイン施設であるH069より大きいにも関わらず「収納施設」と考えています。

私は「収納施設」であるとか、そうでないとか証拠をあげることができませんが、H066の直近に3つものハマグリ出土遺構があり、その一つは白幡前遺跡最大のハマグリ出土遺構であることから、H066のメイン機能はそこで大きな宴会が開かれたことにあると考えます。

具体的に想像するならば、律令国家中央から蝦夷戦争に向かう、あるいは都に戻る貴族等がこの場所で逗留し、地元兵站基地のリーダーから接待を受けたのだと思います。

貝層が8層になっているということですから、H066で連日宴会が開かれたという状況が8回あったということです。4人の中央貴族が都と陸奥国を往復したことを物語るものかもしれません。

空想力をたくましく考えれば、例えば、797年征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が第5次の征夷軍(の一部)を率いてこの場所を通過し、その時H066に逗留して、連日宴会が催され、大量のハマグリが消費される。
帰途には蝦夷の首長である阿弖流為を捕えて都に向かい、再びこの八千代市白幡前遺跡H066に逗留し、日夜宴会が催されたということも、あながち荒唐無稽ではないと思います。

ミクロな観点でみると、H066は寺院周溝から離れていて、かつ寺院建築物より大きいのですから、寺院施設の一部と考えるより、中央貴族の逗留場所、接待施設と考えることが合理的思考であると考えます。

マクロな観点でみると、H066は寺院施設の直近であることからその文化性、宗教性、静謐な環境等で中央貴族の逗留場所として最適です。


0 件のコメント:

コメントを投稿