鳴神山遺跡の発掘調査報告書に古代道路遺構の記述があります。
道路遺構とされるものの断面図等を見る限り、道路である可能性は最初から全く無いと感じるのですが、専門家が道路と言っているので、素人の自分に、自分が気が付くことができない知識上の盲点があるのかもしれません。
次に平成11年発掘調査報告書の道路記述とその疑問をメモします。
1 鳴神山遺跡の平成11年発掘調査報告書の道路記述
「千葉北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)
記述
(5)道路
IIM004(第298~306図、図版162・163・164・165・168・176)
東北東から西南西の方向へ一直線に延びる遺構で、東側ではそのまま斜面下に降りて行く。断面は逆台形で、比較的平坦な底面には、硬化した面も確認できる。したがって、この遺構は道路として機能していたものと考えられる。道路幅は上端で2.0m~2.4m、下端で0.9m~1.1m、深さは0.5m~0.7mを測る。
この埋土中からは多量の遺物が出土しているが、出土レベルは底面からかなり高い位置である。おそらく、
道路としての機能を失った後、多量の遺物を廃棄したものであろう。竪穴住居に近い地点で遺物出土量が多い傾向が見てとれる。出土遺物中に東海産の須恵器や、新治産の須恵器が目立ち、年代的にはほぼ8世紀半ばころから9世紀はじめのころのもので占められる。埋土はIIM002に切られる。なお、この遺構はさらに西進し、白井谷奥遺跡でも検出されている。遺物には多量の須恵器杯、土師器杯、土師器甕、須恵器甕をはじめ長頸瓶や大型の須恵器、手捏ね土器などが、破片ではあるが、比較的良好な形に復元できるものが多い。鞴の羽口片や椀形滓などの鍛冶・製鉄関係の遺物も見られる。
第293図
第294図
第295図
第296図
2 疑問
道路とされる遺構は台地面等高線から推察される緩やかな凹凸勾配にかかわらず全線にわたって掘削されています。
古代人が道路を作る時、峠や台地崖の部分で切通しをつくることは考えられても、ほとんど平坦であるような台地面を全線にわたって0.5m~0.7m掘り下げることはあり得ないと考えます。
全線にわたって掘り下げれば、そこが降雨時の流水の通り道になることは確実です。降雨後にはぬかるみで交通機能が著しく阻害されます。
古代人は道路を作るとき側溝を設けていて、道路排水の重要性を理解しています。
参考 古代道路の工法
近江俊秀著「古代道路の謎」(祥伝社新書)から引用
一方、この「道路遺構」はいわば大きな側溝そのものであり、道路と見立てることは最初から考えられない構造だと考えます。
近世の大和田新田(現在の八千代市)付近の台地上の浅い谷緩斜面の切通しの部分の例です。
近世成田街道の浅い切通し例
迅速2万図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅の視図
上記浅い切通し例の場所(ハ)
迅速2万図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅
近世の例で規模の大きな道路例とはいえ、台地を切る道路の断面の底面形状はこのような平べったいものになると考えます。
鳴神山遺跡「道路遺構」の断面形状は、道路幅が上端で2.0m~2.4m、下端で0.9m~1.1mと大きく湾曲した凹地であり、底に平面が無い断面が多く、道路とは異質なものであることは明白です。
次の図は台地上の近世馬防土手の例です。
近世馬防土手の例
迅速2万図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅の視図
図の数値はトが左4.0m、右2.5m、ヘが左2.8m、右4.2mです。
今この図の出っ張り(土手部分)を削り、真ん中の凹み(溝)だけを取り出すとその深さは1.5m程度になります。あまり深いものではありません。
さて、鳴神山遺跡「道路遺構」は深さが0.5m~0.7mですが、その計測は溝だけで行われています。
断面図をよく見ると、溝の周辺の地形は測量されておらず、したがって計測されていません。
「道路遺構」の周辺に小さな土手があり、全体として近世馬防土手のような溝遺構であった可能性があるように感じます。
「道路遺構」はその構造面の検討から、近世馬防土手と比べてその規模は小さなものですが、同じような馬防土手の一部ではないだろうかという疑問が浮かび上がります。
つづく
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