2015年12月24日木曜日

鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 3

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.252 鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 3

2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」と2015.12.22記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 2」で鳴神山遺跡遺構M004が道路ではないという考えを示しました。

特に2015.12.22記事では検討図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」を掲載して自分の考えの論拠としました。

ところが、早速、その検討図に事実認識で誤認があることが判りましたので訂正して、道路か否かという検討を深めたいと思います。

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このブログは趣味活動における思考プロセスを実況中継しています。

思考における間違いや不明であることが判った時、その間違いや不明をかみしめて、正しい思考に自分を変えていく状況をブログ記事にしていきます。

このブログは検討成果を公表しているものではなく、あくまで思考プロセス実況中継をしています。

従って、間違いや不明が判った時、過去記事については追記(追補)という形でわからないということや間違いであったという情報を原則として書き込むこととしますが、原文そのものは記録とするためいじらないで残すことも選択肢に含めます。

なお間違った画像は削除したり、訂正版を掲載することにします。画像はWEB上で一人歩きして拡散してしまうためです。

参考
3-2 自分の思考プロセスの実況中継を、ブログで行うスタイルを継続したい。
・検討成果をブログで公表するというのではなく、「ああでもない、こうでもない」と私が思考するプロセスをブログ記事にします。学習を深めていくプロセスを記事にします。ですから、誤りの訂正がこれまでも何度もあり、これからもあるとおもいます。そうしたある程度の試行錯誤を経ることによって、より合理的で充実した自然・文化の認識に到達したいと思います。
2012.01.15記事「ブログ開設1周年
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検討図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」では次の2点を表示しました。
1 台地上にもかかわらず全線溝となっている
2 台地端A、Bで低地に降りるための切通しが造られていない

このうち、2について台地端A(台地の西端、白井谷奥遺跡029道路状遺構の西端)は低地に降りる部分が切通しになっていることが発掘調査報告書に掲載されていました。

私が発掘調査報告書をよく読まずに、不鮮明な平面画像だけで地形を読み違えた結果です。

発掘調査報告書における白井谷奥遺跡029道路状遺構の記載は次の通りです。

029道路状遺構(第93図、図版55)
調査区西端において検出されている。「調査報告第358集」において報告した鳴神山遺跡M004と同一遺構であり、白井谷奥遺跡から鳴神山遺跡にかけて一直線に走っている遺構である。途中の未調査区をも含めて現状で確認できる総延長距離は590mである。全調査区を見渡しても竪穴住居や掘立柱建物との重複はない。鳴神山遺跡も白井谷奥遺跡もそれほど遺構密度の高い遺跡ではないが、このほかの溝や道路状遺構のほとんどが竪穴住居との重複関係をもつことと比較した場合、これは注目すべき事象である。その上に出土遺物も古代に限定できることから考えて、本遺構は古代のものであると見てまちがいない。
溝の走行方位はN-65°-Eである。調査区内に掛かっている部分は、一部現道のために調査できなかった部分を含め61.7mである。幅は上端で2.0m~2.5m、下端で1.1m平均である。確認面から遺構底面までの掘り込みの深さは最も浅いところで0.4m、最も深いところで0.7mである。遺構底面はほぼ平坦である。
覆土中にはローム粒・ローム塊を含み、覆土中に硬化面が存在しないことから、道路としての使用中はかなり丁寧な管理を受け、廃絶時においては人為的に埋め戻されていると考えられる。
道路状遺構としては遺物の出土量が多いが、出土層位は覆土中層付近に集中している。
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)

台地端A付近の平面図、横断図、縦断図

縦断図をみると溝遺構が斜面を下っている様子が明らかであり、斜面に切通しが出来ていると観察できます。

従って、道路状遺構の特性を次のように把握できます。

道路状遺構の特性
(注 直線遺構の延長距離はGIS上の計測で604mとなりました。)

台地と低地の間にも溝がある、つまり台地斜面の切通しが造られていることを知り、この直線遺構が報告書のいうような道である可能性を感じだしました。

もしこの直線遺構が野馬堀であるなら、直線性を維持してそのまま斜面を下って低地に至る様子はあまりにも不自然だからです。

台地上に溝を掘って道路をつくるという状況が首肯できるならば、道路と考える方の分が良くなります。

当面、野馬堀であるという強い先入観を捨てて、どちらであるか再検討します。

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この直線遺構を台地面を利用した馬牧の野馬堀であるととらえると、直線遺構の検討は鳴神山遺跡とその周辺地域の検討になります。

一方、この直線遺構を道路ととらえると、その検討は鳴神山遺跡だけでなく、船橋市夏見付近の大結馬牧から下総台地を大横断して、おそらく印西市小林、馬場付近に至る古代軍馬搬送ルートを考えることになります。

その古代軍馬搬送ルートの中での鳴神山遺跡の意義を検討しなければなりません。

下総台地全体の古代史の話になります。

検討の大きな分水嶺にたどり着きました。

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