2015年12月22日火曜日

鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.251 鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 2

「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書ⅩⅣ-印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社・財団法人千葉県文化財センター)では白井谷奥遺跡の調査結果と鳴神山遺跡の調査結果をまとめて次のような記述を行っています。

2 鳴神山遺跡M004道路状遺構・白井谷奥遺跡029道路状遺構にっいて
二遺跡において異なる遺構番号を付してあるが、両遺跡を一直線に走る同一の道路状遺構である。鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡の所在する台地を完全に横切っていると考えられる。走行方位はN-65°-Eである。事実記載において記しているとおり、出土遺物は古代のものばかりであり、古代の遺構との重複はまったくない。このことから考えて、古代の道路と断定してまちがいないであろう。古代の遺構との重複関係がないということは、道路として機能していた期間が長く、かつ、その機能を妨げられない施設であったことを意味している。しかし、上端幅2.0~2.5m、下端幅1.1m平均という規模であり、古代の道路といっても官道になるようなクラスの道路ではない。注意すべきはその走行方位である。台地の上のみの調査であるので、谷間をどのように走っているのかは想定が難しい。周辺を広く見て他の遺跡との関連性を考慮に入れた場合、南西側では古代においてこの道路の指向性を示すような遺跡の存在は知られていない。一方、北東側に目を向けた場合、本埜村竜腹寺に所在する竜腹寺の故地「竜腹寺跡」が鳴神山遺跡から7㎞離れたこの溝の走行方位延長線上に存在する。竜腹寺は印旛沼にまつわる縁起から「三竜寺」伝承の一寺の可能性があるかと想定されるが、木下別所廃寺が本来の竜腹寺であるとの論もあり、実態はまったくわかっていない。現在の竜腹寺については確実に遡れるのは南北朝期であり、はたして本遺跡が機能している段階に存在する古代寺院であるのかどうかも判明しない。千葉ニュータウン関連の発掘調査はかなりの面積において行われているが、残念ながら竜腹寺跡と本道路状遺構の間を結ぶ区間での調査は行われていない。
今後この線上において調査が行われた場合に、本道路状遺構の延長部分が検出されれば、この仮説の一部は実証されることになる。


一直線に走る同一の道路状遺構

溝遺構が一直線に台地面の端から端まで通っていた事実が浮き彫りになりました。

発掘調査報告書では、この溝遺構を上記のように確信をもって道路であるとしています。

専門家が確信を持って道路であると記載している事柄に、知識の無い素人がそれは違うと否定しようとするのですからとんでもないことです。

しかし、2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」で書いた通り、この直線遺構を道路と考える材料は最初から全く見当たりません。

専門家の道路説が結局正しければ、自分自信が気がつけない知識上の盲点があり、その盲点の存在がわかるのですから、自分の学習が大いに進みます。

自分の考えが正しければ、それなりに自分の学習が深まります。

どちらに転んでも自分の学習が進展するチャンスに立っているので、今後の認識の深まりが楽しみです。

さて、上記道路説を自分なりに検討してみます。

私がこの直線遺構を道路ではないと考える理由は次の通りです。

【削除】(ここに掲載した検討図は事実認識に間違いがありましたので削除しました。2015.12.24)
道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠

さて、この直線遺構が古代道路と考えると、この道路は規模は小さいけれど律令国家が全国に張り巡らした官道と同じような計画思考で作られていて、地形を無視して直線性を演出し、国家の威信を民衆に示したことになります。

律令国家が直営でつくったものであることはその極端な直線性から確実だと考えます。たとえ国家直営ではなくても、それに準じるランクの道路です。

従って、この道路は国家が必要としている大切な交通機能を実現しているのです。
国家が必要としている重要な連絡、物資移動のためにつくられたのです。
民衆がお遍路をするために作ったものではありません。

特に蝦夷戦争の時代ですから兵員の移動や牛馬を含む軍需物資の運搬等に使われたとか、軍需物資生産のための戦略的重要性のある道路だったと考えることが大切です。

このような道路の性格をM004の延伸線を引いて検討してみました。

次の図は直線道路状遺構の延伸線を記入して、遺跡分布図をプロットしたものです。

M004延伸線と遺跡A

プロットされる遺跡について詳しい知識があるわけではありませんが、この図の中に直線道路の起終点となるような古代重要拠点があるという情報を知りません。

M004延伸線と旧版地形図A

旧版2万5千分の1地形図の情報から延伸線と関連するような道路等を見つけることはできません。

M004延伸線と遺跡B

確かに延伸線の先に竜腹寺跡はあります。

はるか西と鳴神山遺跡付近を経由して竜腹寺跡付近とを道路でつなぐ意義が説明されれば、竜腹寺が延長上にある意味が分かるのですが・・・

延伸線上の遺跡は沢山あるので、延伸線上の遺跡があるという説明だけでは何もわかりません。

M004延伸線と旧版地形図B

鳴神山遺跡から東方向の延伸線ではそれに平行するような道路は見つかりません。

M004延伸線と遺跡C

この図の区切り方を見ると、延伸線の西方向が東京湾であり、東海道の通っている場所であることに気が付かされます。

M004延伸線と旧版地形図C

延伸線と平行するような道路を確認できます。そしてその先に大結馬牧があったと考えられる場所があります。

参考 大結馬牧の記述

もし強引に夢想するならば、大結馬牧で生産した軍馬を陸奥国方面に運ぶために、上図のような台地上の道をつくり、鳴神山遺跡付近を通って竜腹寺まで運び、そこから馬を船に乗せて香取の海を渡り、北上したというストーリーを描くことができるかもしれません。

このように夢想すると、古代にあって東京湾と香取の海を直接結ぶ台地横断陸路が存在していた可能性は否定できないと考えます。

しかし、残念ながら、M004はその構造面から道路であることを否定せざるを得ません。

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追記 2015.12.24

当初掲載図「道路状遺構と言われるものが道路ではない決定的証拠」に事実認識のおいて間違いがありましたので削除しました。

この記事の最後の文章「しかし、残念ながら、M004はその構造面から道路であることを否定せざるを得ません。」を否定してM004が道路かもしれないと感じるようになりました。

予想外のはやさで自分の盲点にきがつくかもしれません。



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