2015年12月27日日曜日

学習 台地上の溝状古代道路の例

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.254 学習 台地上の溝状古代道路の例

緊急寄り道学習として、鳴神山遺跡の近くの大塚前廃寺の大溝について学びます。

大塚前廃寺の場所
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

上記地図の下端中央付近が丁度鳴神山遺跡です。大塚前廃寺の位置は鳴神山遺跡から北約1.5㎞の台地上です。

大塚前廃寺遺構平面図
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用

2棟の掘立柱建物と1軒の竪穴住居が出土し、その特徴と出土物からいずれも仏教的施設と考えられ、8世紀末から9世紀初頭に位置づけられるとしています。

古代廃寺跡の目の前に大溝が東西に走っています。

大溝の断面図を示します。

大溝の断面図
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ本文編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

大溝の規模は「幅は上端で約2m、下端で60~80㎝、深さは120~130㎝をはかる。」です。

「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)ではこの大溝について次のように記述しています。

大溝
また、見つかった溝のうち、掘立柱建物・竪穴住居の遺構群の北を走行する大溝は、再検討の結果、古代に掘削された道路遺構と考えるにいたった。当初、報告(文献1)では近世の野馬堀に関連した遺構と考えられていたが、溝内からレンズ状に出土した瓦の出土状況や、溝内で確認された硬化面の様子、そして県内で確認されている切り通し状の古代道路遺構との類似性などから、近世の野馬堀の遺構とは考えがたい。

1970年代の初めに発掘された時は近世野馬堀と考えたが、その後の古代道路出土事例増大に伴う検証で道路遺構に変更になったものです。

「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ本文編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)の情報をよく読むと、溝から出土する遺物の位置が覆土層の上部であり、鳴神山遺跡の直線道路遺構とよく似ています。道路が廃棄された後覆土され、その上に廃棄物が捨てられたという状況が両遺跡の溝遺構で一致します。

次に発掘時の写真を示します。

大塚前廃寺 発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

大塚前廃寺 発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

大塚前廃寺 大溝の発掘時写真
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用

まるで塹壕のような印象を受けます。

台地上にこのような大溝を掘り、それが古代道路だったのですから、自分にとって驚きを伴う学習です。

木曽馬の尻幅が約40㎝ですから、この道路(大溝)内で古代馬のすれ違いは無理に近い状況です。

大溝発掘時写真に斜面に大きな穴が開いていますが、このような場所に馬や人が台地上に上れる施設があったのかもしれません。

あるいはこの道路を横断する施設(開閉門など)があったのか、木陰となる大樹があったのか?

一方通行であることを前提にすると、この道路は馬や牛を追い立てて移動するのに恰好の施設です。

下総台地西から下総台地東へ、馬を長距離にわたって一気にかつ効率的に搬送するための機能がメインである施設(道路)と考えると、この塹壕のような施設の意義が判ったような気になります。

蝦夷戦争時代に下総台地西部各地に点在したであろう中小の馬牧から、軍馬を陸奥国方面へ搬送するために、香取の海沿岸のミナトに軍馬を効率的に集める施設だったと想像します。

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