2015年12月21日月曜日

鳴神山遺跡の古代馬牧遺構

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.250 鳴神山遺跡の古代馬牧遺構

鳴神山遺跡の溝M004は発掘調査報告書では古代道路とされていますが、その断面形状から道路である可能性は存在しておらず、馬牧施設(野馬堀)と考えられます。
2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」参照

この溝を含めて鳴神山遺跡では多数の溝が出土していて、発掘調査報告書では次のように記述しています。

発掘調査報告書による出土溝地形に関する記述

溝は大きく分けると3つに区分できます。

1 古代の溝M004(8世紀半ば~9世紀初め遺物出土)
発掘調査報告書では道路とされますが、直線状古代野馬堀と考えます。

2 中世から近世に至る溝(10世紀半ば以降に作られた溝)
発掘調査報告書では「中世末期以降近世に至る溝としておく」と記述されています。
中世から近世に至る時代の野馬堀です。

3 近世野馬土手に伴う野馬堀

鳴神山遺跡の土地が古代、中世、近世と継続して馬牧として利用されてきている様子がわかります。

視野を広げて旧版2万5千分の1地形図を投影してみると、M004溝の延長上に道路が存在していて、発掘調査で作成された地図に出ている地割界線と合わせて、古代野馬堀と考える地物が台地を二分している様子を見ることができます。

M004-地割界線-道路を結んだ直線状古代野馬堀の存在が想定される

台地を二分する直線状野馬堀は台地の東西に存在する支谷津を利用して(意識して)設計されたように感じます。

台地のくびれを利用してそのくびれ部分に直線を引いて、台地を二分したということです。

中世の野馬堀や近世の野馬堀のように台地の微妙な微地形(台地面の緩傾斜)を利用して設計するのではなく、古代の野馬堀が直線で設計されているところに、注目すべき新情報を見つけることができると考えます。

古代の官道は地形を無視して直線に設計されることが多いですが、道路ではなく野馬堀という別の線形施設でも直線が好まれたという情報は、新情報として注目してよいと考えます。

野馬堀の構築にあたって道路と同じような計画的思考が存在していたのです。

古代野馬堀で台地が二分された様子をポンチ絵にすると次のようになります。

古代では野馬堀により台地を分割利用していたと想定する

古代では直線野馬堀により台地を二分割して北側を馬牧として使い、南側を集落域として使ったことが明白になりました。

中世になると集落域は消滅し、全域が馬牧として利用されるようになります。

中世の野馬堀が古代集落域の掘立柱建物があった地域(中心域)を囲むようにつくられていることは、集落消滅後その場所が恰好の新馬牧として生まれ変わったことを示しています。

逆に考えると、恰好の馬牧にできるような場所に古代の地域開発があったのであり、古代地域開発の意義を考える上での情報をくみ取ることができる可能性を感じます。

鳴神山遺跡の古代集落は蝦夷戦争との関連で開発されたと考えますが、集落開発のメインの意義が馬牧の高度運営にあったのか、麻栽培と布生産にあったのか、それとも印旛沼から利根川に台地を超えて存在した交通運輸にあったのか、それらの比重がどの程度であったのか興味を持ちます。

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