2015年12月29日火曜日

鳴神山遺跡直線道路遺構の延長部画像解析 その2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.256 鳴神山遺跡直線道路遺構の延長部画像解析 その2

鳴神山遺跡の直線道路遺構の東側延長部に本当に古代道路遺構が存在しているのか、自分なりに確かめてみました。

1947年米軍撮影空中写真、1960年国土地理院撮影空中写真に直線道路遺構延伸線付近に線形模様を確認できました。

1947年撮影米軍空中写真に見る線形模様

1960年撮影国土地理院空中写真に見る線形模様

線形模様は無数にありますが、2時点の空中写真で、同じような場所に線形模様を確認できましたので、単純な画像ノイズを拾ったのではなく、意味のある模様であることは確認できます。

線形模様は主に雑木林や樹園に見られて、踏み跡道の存在による樹冠の隙間のような印象を受けます。

もちろん、古代道路遺跡を示唆するにしても、埋没した掘り込み古代道路に起因する二次情報、三次情報です。

さて、1975年撮影カラー空中写真に鳴神山遺跡直線道路遺構の延伸線をプロットすると次のようになります。

1975年撮影カラー空中写真に鳴神山遺跡直線道路延伸線をプロットした図

1947年、1960年撮影空中写真で線形模様が見つかった部分が、なんとそのまま千葉ニュータウン幹線道路(県道190号、船尾・高花1~3丁目地先)に衣替えしています。

参考 2008年撮影空中写真と鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線

参考 標準地図と鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線

鳴神山遺跡直線道路遺構延伸線付近に実際に古代道路遺構が存在していて、それに起因して土地所有、地割が古代道路沿いにおそらく道路区画に対応した細長形状等で存在し(現代人にはその意味が分からない地割の細分化や微細な細長形状等が存在し)、その特殊性(土地買収のしやすさ…直線的地割、住民サイドからみると複雑で無意味な微細権利関係の解消)が大きな要因になり、この現代千葉ニュータウン直線道路がつくられたのだと推定します。

奈良時代の蝦夷戦争における軍馬搬送のための道路が、現代ニュータウンの幹線道路としてよみがえったのです。

奈良時代の道路線形がそのまま現代ニュータウン幹線道路線形に採用されたことは、古代社会と現代社会をつなぐ事象として面白いことです。

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