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2024年8月16日金曜日

環状集落のシンボリズム

 谷口康浩著「土偶と石棒 儀礼と社会ドメスティケーション」学習 15


Symbolism of circular settlements


Study 15 “DOGU & SEKIBOU: Rituals and the Domestication of Society in Prehistoric Jomon” by Yasuhiro Taniguchi


I studied the page on circular settlements and ancestral worship in “DOGU & SEKIBOU” by Yasuhiro Taniguchi. It clearly explains the appearance (space) and significance of a kinship society in which a collective grave is built in the center of the settlement and the spirits of ancestors are the subject of worship.


谷口康浩著「土偶と石棒」の環状集落と祖先祭祀に関するページを学習しました。集落中心に集団墓を造営して、祖先の神霊を祭祀の対象にする親族社会の姿(空間)とその意義がわかりやすく説明されています。

第1章 縄文時代の儀礼と社会

2 環状集落にみる空間シンボリズム

(1)祖先祭祀の始まり

【抜粋・要約】

・東日本前期・中期に環状集落が発達して、中央広場に集団墓を造営したものが少なくない。

・中期には集団墓が数百年にわたって継続され、200~300基累積したものもある。

・集落の中心に集団墓を取り込んだ村は縄文時代以後の村の歴史には無い。縄文時代集落の際立った特徴となっている。

・集落内墓には副葬行為が広がり、丁寧なつくりの土器や石匙・玉類などが副葬品として遺骸に添えられるようになる。

・墓域の周囲では集団的儀礼が行われたことを示す集石群や環状廃棄帯が出現する。

・集落内墓のあり方からは、死者たちとの関係を死後も維持しようとしている様子が読みとれる。

・集落内墓は死者たちを社会的に記憶するための空間であり、祖霊として大切に祀る場であったと考えられる。

・祖先祭祀は親族秩序を聖化し公認する働きがある。

・集落内墓造営、祖先神霊祭祀は出自・系譜観念の発達が前提と考えられる。

・家族やムラを越えた親族社会、とりわけ同族意識をもった部族の組織化と維持に大きな意味をもったと考えられる。

・集団墓の造営は人口密度が徐々に増大する社会状況の中で、新たな社会秩序の形成と維持に有効に機能するものであったと理解できる。

【感想】

・集落の中央広場に集団墓を設け、死者と日常的の交流しながら生活する縄文人の心情を理解できるようにならなければ、縄文儀礼の学習はうすっぺたなものになると直観します。死者と交流しながら日常生活を送る心情の理解を進めるにはどうしたらよいか、そこから考えていくことにします。

【山形県西海渕遺跡の寄道学習】


集団墓を中心とした環状集落の空間構成(山形県西海渕遺跡)谷口康浩著「土偶と石棒」から引用

この図書掲載図面の凡例と図面の関係がよくわからなかったので、全国遺跡総覧から発掘調査報告書をダウンロードして、集団墓を確認しました。


集団墓 西海渕遺跡第1次発掘調査報告書から引用


集団墓 西海渕遺跡第1次発掘調査報告書から引用

「墓壙は中央広場の外側、内径15~17m、外径30~35mの範囲に約150期がほぼ環状に集中する。それらの分布密度から5~7の支群に分割されそうである。各支群内では墓壙同士の重複が著しい。…遺物の出土は稀であったが、SM426から手形土製品が出土している。」


手形土製品 西海渕遺跡第1次発掘調査報告書から引用

・墓壙が5~7の支群に分かれるということは5~7の家系がこの集落で暮らしていたからだと考えます。

・手形土製品は副葬品で、手形を残して死んだ子どもの母親の遺骸に添えられたのかもしれません。

【有吉北貝塚の集団墓について】

・有吉北貝塚発掘調査報告書では土坑分布図はありますが、その意義についての記述は希薄です。土坑分布図について、集団墓という観点から学習しなおしたいという気持が強まりました。

・有吉北貝塚では台地平面上の集落に人骨出土土坑や廃屋墓が存在します。一方、北斜面貝層から人骨が多量に出土します。台地面で埋葬された縄文人と北斜面貝層に埋葬された(結果として散乱人骨になった)縄文人はどのような違いによるものなのでしょうか?出自が異なるのでしょうか?学習を深めることにします。


有吉北貝塚の土坑分布


有吉北貝塚の土坑分布


2018年6月3日日曜日

双分組織について

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)を読みだしたところ、「双分組織」というものが存在し、縄文時代環状集落社会の在り方と関わっているらしいということを知りました。

「双分制」「双分組織」という概念が大膳野南貝塚学習の問題意識「漆喰貝層有無2集団の関係」(後期集落)と「諸磯・浮島2集団の関係」(前期集落)を検討していく上でのキーとなる概念であることにはじめて気が付きましたのでメモしておきます。

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)

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参考 分節構造と双分制に関する記述
明瞭な分節構造
拠点的な環状集落の形成とともに、集団墓の様相もまた大きく変わってきます。千葉県成田市の南羽鳥中岫遺跡では、300基ほどの土墳墓からなる前期後葉の集団墓が発掘されています。前期の代表的な集団墓の一つです。この中にも、いくつかの単位を見つけ出すことはできるのですが、単位の区分は不明瞭です。対して中期になると、たくさんの土墳墓を環状に配置した環状墓群が発達してきます。そして、その内部にいくつかの単位が明瞭に区分された例が見られるようになります(図7-2)。全体が大きく二分されたものや、二群の内部にさらに二つのサブグループが内在して、全体が四つに分かれた例などがあります。さらに多数の単位からなる場合も見られます。このような構造を
私は「分節構造」(谷口2005)と呼ぶのですが、分節構造は、このように土墳墓群の中にも顕著な形で表れますし、住居群を区分する構造でもあります。
最も広く見られるのが、住居群や墓群の全体を二つに分ける構造です。神奈川県月出松遺跡の中期後葉の環状集落では、土墳墓群が二ヵ所に分かれています。竪穴住居にもそれに対応した形の二つのグループが見られます。神奈川県三の丸遺跡の中期の環状集落でも、北側に土墳墓群が二つ、南側に二つ、全体で見れば四つと言えるかもしれませんけれども、一つの環状集落の中にある土墳墓群が二つに分かれている例が見られます(図7-2)。
部族社会の民族例には「双分組織」というものが知られています。部族あるいは村落が二つの部分から成り立っていて、補完的な関係になっている組織のことを指します。そういう制度が見られる社会を双分制と呼んでおります。中期の環状集落の中に、二分の分節構造がしばしば現れるのは、双分組織の存在を強く示唆するものと考えてよいと思います。

分節構造
山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)に収録されている
谷口康浩「環状集落にみる社会複雑化」から引用 太字は引用者
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大膳野南貝塚後期集落には漆喰貝層有集団と漆喰貝層無集団が共存していてメイン生業が異なるという特異な現象があります。この現象を双分制・双分組織という概念をキーにして分析すれば2集団の関係性を詳しく知ることができそうです。
また前期集落で諸磯式土器をメインとする竪穴住居、浮島式土器をメインとする竪穴住居、双方土器が混在する竪穴住居が観察できて、大局観として2集団が共存していたと捉えられる現象が存在します。この現象も双分制・双分組織という概念をキーにして分析することによって、2集団の関係性を把握できそうです。
双分制・双分組織について知識を増やせば今後の大膳野南貝塚学習をいっそう加速できそうです。
なお、前期に諸磯・浮島2集団の双分制の現象があり、後期にも漆喰貝層有無2集団の双分制の現象があるとすれば、時期を別にして同じ空間で双分制現象が生じたことになります。そのように考えると、2つの現象に関連性があるのか否かということについて検討する価値が生れます。
さらに、双分制の現象は大膳野南貝塚だけで生れた特殊事例とは考えられないので、それどころか極普通の縄文社会一般現象であると想定されるので、近隣遺跡等に双分制現象が観察できるか否か学習を広げたいと思います。

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参考 
双分組織
dual organization
一つの社会が二つの部分集団によって相互補完的に組織されている社会組織もしくはその状態をいう。通常,社会が二つのカテゴリー・氏族・リネージ・地域社会などからなる場合,それぞれの部分集団を〈半族moiety〉というので,〈双分組織〉は別名〈半族分割moiety division〉とも称する。〈moiety〉とはフランス語の〈moitié〉に由来する用語で,たんに二分割を意味している。各地の事例では,親族関係を密にする集団が社会を二分し,あるいは一方が他方の外婚集団になっていたりする場合もあるが,双方がおなじ出自集団であるとはかぎらず,また相互に密な親族関係をもっていることが〈双分組織〉の特徴であるとはかぎらない。
〈双分組織〉は社会の単なる観念上の二分割にとどまらず,双方の単位の間で社会的・宗教的になんらかの▶互酬的関係が見られる場合が多い。この互酬的関係のなかで顕著なものを挙げるならば,第1に,それぞれの単位が単系的外婚集団を形成しており,相互に配偶者のやりとりをするということ,第2に,それぞれが儀礼上の単位となっており,相互の互酬的行為を通じて儀礼を構成するということ,などが挙げられよう。ただし実際の例においては,上記二つの特徴をあわせもっている社会もあれば,いずれか一方の特徴しかもたないという社会もあり,さらに双分組織に対応するような二元論的宇宙観をともなった社会もあるというように多様である。
なお,先にいう〈半族〉と類似した概念として,古代ギリシアの政治・宗教的集団である▶フラトリアphratriaを語源とする〈胞族phratry〉があるが,〈胞族〉は通常,氏族の単位よりも大きな類別上の単位であり,二つあるいはそれ以上の類別上の認識を基礎とした単位である。したがって〈胞族〉は,かならずしも社会を二分するような組織とはなりえず,通常は単なるカテゴリーとして存在しているが,氏族が連合して互酬的な社会の二分割組織を構成しようとすると,〈双分組織〉の単位となりうることもある。
渡辺 欣雄
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
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2018年5月11日金曜日

疑問 環状集落中空ゾーンの意義

大膳野南貝塚後期集落 土坑の再検討 39

2018.05.08記事「送り場等として再利用された貯蔵土坑の分布特性」を書いて次の2つの大きな疑問を意識しました。

1 大膳野南貝塚という環状集落の中央部分の広場はどのような意義を持つか?
2 竪穴住居の漆喰貝層あり、なしの区分は本当に集団と関係がないか?

2つの疑問ともに大膳野南貝塚学習を進める上で根本的な課題であると感じますので、土坑学習に没頭して忘れてしまっては元も子もないので、取り急ぎメモします。
この記事では1についてメモします。

1 中空ゾーンの存在
廃屋墓、土坑墓等の葬祭関連遺構の分布は環状になっていて、その中央部分は中空になっています。この領域を中空ゾーンと呼ぶことにします。

廃屋墓・土坑墓等
環状集落によってはこのゾーンに土坑墓が集中している例があり、それを念頭に土坑を良く調べましたが大膳野南貝塚では中空ゾーンに「めぼしい」遺構は見つかりません。

2 参考 装身具出土遺構
人骨は出土しないけれどもその土坑が土坑墓である決め手として、そこから装身具が出土していることをもって論をすすめている検討例もあります。そうした検討例を参考に大膳野南貝塚の装身具出土遺構を調べてみました。

装身具出土竪穴住居・土坑
中空ゾーンからは装身具は出土していません。
中空ゾーンは葬祭の場ではないようです。

3 中空ゾーンの意義
竪穴住居・土坑分布図に中空ゾーンをプロットしたみました。

竪穴住居・土坑
中空ゾーンは漆喰貝層なし竪穴住居に囲まれているように観察できます。またその中央部分(”ゾーン”の字の付近)には列状に土坑(植物食関連送り場土坑、トイレあるいは植物食関連送り場土坑)が分布します。
この分布図だけから中空ゾーンの意義を論証できることはありませんが、空想をすることはできます。学習を進める上で後に間違いであることがわかるにしても何も考えないより少しでも考えておくほうがよいに決まっています。
そこで浮かんできた中空ゾーンの意義に関する空想をメモします。

中空ゾーンがあまり意味の無い空間であったとは到底考えられません。他の遺跡でこのゾーンに土坑墓が集中配置されている例があるからです。
また環状構造を作っておいて、その中央部分が無意味であるはずはありません。

廃屋墓を観察すると多人数でかつ性別年齢が異なる人が埋葬されている例があります。この埋葬は特定時期にほぼ同時に死亡したのではなく、バラバラの時期に別の事情で死亡した人が別の場所で殯が行われ(ミイラ化され)、ある特定の時期に同時に廃屋墓に持ち込まれたと考えました。
2017.12.26記事「殯(モガリ)におけるミイラ作成」参照
廃屋墓はあくまで最後の埋葬地であり、その前に長期間にわたる(半年~1年~2年?)ミイラ作成場所(殯の場所)が必要です。
その場所は居住している竪穴住居であるとは考えづらいことです。
またその場所を集落の外や谷津であると考えることも縄文人の死者に対する気持ちに反するように感じます。
そのミイラ作成場所(殯の場所)こそ中空ゾーンだったのではないかと空想します。
404号土坑(ヒト骨出土土坑、植物食関連送り場土坑)は深さ13cmの浅い土坑ですが、ここからヒト頭骨細片1点が出土していて、浅い土坑がミイラ作成場所と関連していた可能性を暗示しています。

2018年1月2日火曜日

縄文貝塚環状集落の3重構造

大膳野南貝塚後期集落の竪穴住居出土物等を時期的に調べて、集落内の分業や社会構造について学習を深めることにします。
興味の所在は2017.12.25記事「集団入れ替わり仮説に替わる階層社会仮説」で書いた漆喰・貝層出土竪穴住居と漆喰・貝層非出土竪穴住居が時期別におよそ50%づつあるという事実の意味の解釈にあります。
大膳野南貝塚後期集落はどの時期も漁業に従事して漆喰や貝をふんだんに残した人々がいて、一方同数程度の漆喰や貝を残さない人々がいたことになります。
その差異が生業における分業であるのかどうか出土物の種類や量から確かめたいと考えています。
また2種類の人々が異なる集団であるのか、あるいは集団内の上位下位(優劣)といった階層を表現しているものであるのか、あるいは別の解釈ができるのか検討したいと考えていいます。

この記事では本格検討に入る前の予察として漆喰や貝層が残る竪穴住居とそうでない竪穴住居が空間的に棲み分けして分布しているという事実を確認しておきます。

1 漆喰・貝層出土竪穴住居分布

漆喰・貝層出土竪穴住居分布
明らかに環状の分布になっています。

模式的に環状を塗ってみると次のようになります。

漆喰・貝層出土竪穴住居分布 模式図

2 参考 人骨出土竪穴住居及び埋葬関連遺構・遺物分布

人骨出土竪穴住居及び埋葬関連遺構・遺物分布
人骨出土竪穴住居及び埋葬関連遺構・遺物分布は漆喰・貝層出土竪穴住居分布の範囲内に収まっているように観察できます。

人骨出土竪穴住居及び埋葬関連遺構・遺物分布に漆喰・貝層出土竪穴住居分布の模式図をオーバーレイしたもの

3 漆喰・貝層非出土竪穴住居分布

漆喰・貝層非出土竪穴住居分布
中央に明瞭な小環状が、集落周辺にも分布します。

分布を模式的にくくってみると次のようになります。

漆喰・貝層非出土竪穴住居分布 模式図

4 漆喰・貝層出土有無別竪穴住居

漆喰・貝層出土有無別竪穴住居
この分布図に模式図をオーバーレイすると次のようになります。

漆喰・貝層出土有無別竪穴住居 模式図
漆喰・貝層出土竪穴住居が集落の骨格となる環状構造をつくり、その内側と外側に漆喰・貝層非出土竪穴住居が環状構造をつくり、三重の環状構造の集落のように観察できます。

この三重の環状構造から集落内の分業や社会構造に関する情報が得られるか、これから詳しく検討していくことにします。


2017年3月31日金曜日

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉竪穴住居と土坑

大膳野南貝塚の陥し穴と炉穴(早期後半頃)の学習に区切りをつけ、縄文時代前期後葉の竪穴住居と土坑の学習に移動します。

出土土器から判明する前期後葉の竪穴住居は16軒、土坑は113基です。

発掘調査報告書では「住居の分布範囲がやや散漫ではあるが、環状を呈する集落と考えられ、住居と土坑が場所を区別して構築されたものと推定される。また、遺構から検出された土器は、諸磯b式ないしは浮島Ⅰ~Ⅲ式期にほぼ限定されることから、短期間に営まれた集落祉と考えられる。」と記述されています。

竪穴住居と土坑の分布は次の通りです。

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 竪穴住居と土坑の分布

竪穴住居と土坑の分析学習に入る前に、この記事で陥し穴との関係について考察します。

次に陥し穴(縄文時代早期後半頃)と前期後葉の竪穴住居・土坑のオーバーレイ図を示します。

大膳野南貝塚 縄文時代早期後半ぼろ陥し穴の分布と前期後葉竪穴住居・土坑の分布 オーバレイ

このオーバーレイ図から次の2点について気が付きましたのでメモしておきます。

1 陥し穴と竪穴住居・土坑の分布は完全に重なりますから竪穴住居・土坑が作られた時期(前期後葉)に陥し穴が罠猟として利用されていたことは完全に否定されます。

陥し穴からは早期後半の土器細片と前期後葉の土器細片が出土しますが、前期後葉の土器細片は竪穴住居・土坑が利用されていた時代に、当時の陥し穴覆土層表面にたまたま落ちたものであることが確認できます。

つまり陥し穴の時期は出土物からみると、早期後半であることが判明します。

2 早期後半に狩場であった大膳野南貝塚発掘区域が前期後葉になると集落区域として開発されてしまったことに着目します。

この場所に集落をつくってしまえば、この場所のみならず周辺の土地が狩場として機能しなくなります。
狩場を失っても集落をつくる必要があったという強い縄文社会要請が働いたということが見て取れます。

早期後半と比べて前期後葉になると人口急増が発生して、これまでの狩場が住居ゾーンとして開発されたものと考えます。

前期後葉113の土坑はほとんど堅果類の貯蔵に使われていたことが判明しています。
これから、狩猟という獲得食物エネルギー総量の劣悪な生業から、植物食という獲得食物エネルギー総量の優良な生業に社会が転換した様子と人口急増が重なっている様子が推察できます。

また竪穴住居からは獣骨や貝が出土していますから、この場所から恐らく東方向に狩場を新規開発し、また海にも出て動物タンパクを補給していたと想定します。

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なお、大膳野南貝塚付近が早期後半頃に狩場であり、炉穴で干し肉や燻製を作っていたころ、その縄文人達の主要な居住地がどこであったのか、検討していないことに気が付きました。

早期後半頃大膳野南貝塚付近で狩をしていた縄文人達の拠点がどこであるか、追って検討することにします。