白幡前遺跡が高津馬牧(延喜式)に対応し、鳴神山遺跡が大結馬牧(延喜式)に対応すると想定して、さらに上谷遺跡の牧を含めて、牧の牧場(草原)中心域を検討しました。
1 牧場(草原)中心域検討のための条件
まだ自分の知識が大いに不足していますが、とりあえず次の2つの条件から牧場(草原)中心域の想定を行います。
ア 古代牧の地形的条件として馬の水飲み場が牧場(草原)に含まれていること。
上谷遺跡の検討では台地上の浅い谷に馬の水飲み施設と想定される土坑が存在しています。
参考 上谷池水部付近の土坑
参考 墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
イ 牧領域の大きさの1例として約3㎞×約1.5㎞程度が想定されること。
参考 もはらのしょう 藻原荘
平安時代,上総国にあった興福寺領の荘園。現在の千葉県茂原市域に比定される。ここはもと777年(宝亀8)上総国司となった藤原黒麻呂が領した牧で,のち原野が開田されて荘園となり,その子常陸介春継に伝領された。春継は常陸国の大目〘だいさかん〙坂上氏の女をめとって同荘に住み生涯を終えたが,その子良尚に遺言してこの地に墳墓をつくらせ,後世他人の地となって墓が踏み荒らされることがないように,同荘を興福寺に施入することを命じ,877年(元慶1)に死去した。しかし良尚もまもなく世を去り,その遺命を継いだ長子菅根らは890年(寛平2)に藻原,田代の両荘田を興福寺に施入した。この施入帳(《朝野群載》)によると,藻原荘の規模は東西1020丈(約3㎞),南北487丈(約1.5㎞)あったという。なお1160年(永暦1)ごろ,鳥羽安楽寿院領上総国橘樹〘たちばな〙社の巽(南東)角の地が藻原荘と接しており,相論になっていた事実がある。
戸田 芳実
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
2 馬牧牧場(草原)中心域の想定
上記ア、イから3遺跡対応馬牧の牧場(草原)中心域を次のように想定しました。
白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)の牧場(草原)中心域推定
高津川上流の谷津が浅い谷になっている付近が高津馬牧の中心域であると考えます。
円の面積は約4.5平方キロメートルですが、もちろんこのような形状の牧場(草原)があったとは考えません。あくまでも牧場中心域のイメージです。
鳴神山遺跡関連牧(大結馬牧か?)の牧場(草原)中心域推定
戸神川上流の西→東に流れる浅い谷を挟んだ印西台地が主な牧場(草原)であったと考えます。
上谷遺跡関連牧の牧場(草原)中心域推定
上谷遺跡関連牧は地形特性と官牧ではないという条件から牧の範囲は4.5平方キロメートルよりはるかに狭い牧であったと考えます。
2017年10月15日日曜日
2017年10月13日金曜日
古代開発集落の生業 牧
短期集中学習「奈良平安7開発集落の生業と消長」の最初の検討は生業のうち牧です。
1 牧に関連する遺物及び推定
最初に牧に関連する遺物をまとめてみました。
牧に関連する遺物及び推定
参考 遺跡位置
以下簡潔に説明します。
2 馬骨の出土
白幡前遺跡の土坑から馬2頭分の骨と人骨が出土しています。また鳴神山遺跡の井戸から馬骨が出土しています。
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の様子
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の位置
鳴神山遺跡馬骨出土井戸の様子
鳴神山遺跡馬骨出土井戸の位置
3 馬具の出土
上谷遺跡からハミ(4点セット)が出土しています。
上谷遺跡馬具出土状況
4 牧関連墨書文字
白幡前遺跡から「牧万、牧方」が出土しています。
鳴神山遺跡から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土しています。
「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土状況
馬牛蚕の皮・肉・骨の利用活動の発展を祈願していると考えられます。(蚕は繭から取り出した蛹の利用(佃煮やサナギ粉))
つまり斃牛馬処理集団の活動祈願が存在していたのですから、逆にそのような集団が存在できるだけの斃牛馬が存在していたことになり、牧の実在が証明されます。
上谷遺跡から「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」が出土しています。
「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の出土状況
次のように解釈できます。
「承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。
野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。
(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)
(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。」
牧の存在が直接文字となっています。
5 これまでの推定
白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に隣接しています。
高津馬牧(延喜式)の推定場所
鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)の一部であると仮説しています。
大結馬牧仮説
2017.10.22追記
この仮説の改訂新版を作りましたので、大結馬牧仮説は次の記事を参照してください。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」
参考
墨書文字「大」集団が東京湾から香取の海まで道路で牧を結び、蝦夷戦争に備えたシステムが大結馬牧(延喜式)であると仮説しています。
近世の印西牧付近が大結馬牧(延喜式)の本拠地であったと考えることができるかもしれません。
参考 墨書文字「大」出土状況
6 牧実在の確認と牧施設場所の検討必要性
以上の資料から白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡に牧が実在したと考えます。
牧を構成する施設のうち牧場(草原)、厩舎、馬具工房などの場所がどこであるのか、それを示す直接証拠が出土していないので、検討(推定)する必要があります。
その検討(推定)を次の記事で行います。
1 牧に関連する遺物及び推定
最初に牧に関連する遺物をまとめてみました。
牧に関連する遺物及び推定
参考 遺跡位置
以下簡潔に説明します。
2 馬骨の出土
白幡前遺跡の土坑から馬2頭分の骨と人骨が出土しています。また鳴神山遺跡の井戸から馬骨が出土しています。
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の様子
白幡前遺跡馬骨人骨出土土坑の位置
鳴神山遺跡馬骨出土井戸の位置
これまでの検討でこれら2つの馬骨出土遺構は馬(及び人)を生贄とした祭祀跡であり、牧発展祈願であると考えます。蝦夷戦争に関わる律令国家の牧発展祈願ではないだろうかと想像しています。
白幡前遺跡および鳴神山遺跡ともに牧現場から離れた集落中枢部で生贄を使った牧発展祈願が行われています。白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)に対応すると考えられます。
●参考 古墳時代の馬の殉葬
下総では古墳時代から馬を生贄として使ってきました。
馬という貴重品を生贄にする決意の深さが判るとともに、牧における馬生産が盛んだったことも判ります。
古墳時代の馬の殉葬
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用
3 馬具の出土
上谷遺跡からハミ(4点セット)が出土しています。
上谷遺跡馬具出土状況
4 牧関連墨書文字
白幡前遺跡から「牧万、牧方」が出土しています。
鳴神山遺跡から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」が出土しています。
「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の出土状況
馬牛蚕の皮・肉・骨の利用活動の発展を祈願していると考えられます。(蚕は繭から取り出した蛹の利用(佃煮やサナギ粉))
つまり斃牛馬処理集団の活動祈願が存在していたのですから、逆にそのような集団が存在できるだけの斃牛馬が存在していたことになり、牧の実在が証明されます。
上谷遺跡から「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」が出土しています。
「承和二年十八日進/野立家立馬子/召代進」の出土状況
次のように解釈できます。
「承和二年十八日(西暦835年18日)に(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。
野の開発を行い(牧の開発)、家を建設し(掘立柱建物の建設)、馬を増やし、蚕を増産することを祈願します。
(野立と馬、家立と子が対応していて、より簡潔に解釈すれば、「牧開発と養蚕小屋建設により、馬と蚕の増産を祈願します」ということになります。)
(冥界に)身を召される代わりに(この器の中のご馳走を)進上します(献上します)。」
牧の存在が直接文字となっています。
5 これまでの推定
白幡前遺跡は高津馬牧(延喜式)に隣接しています。
高津馬牧(延喜式)の推定場所
鳴神山遺跡は大結馬牧(延喜式)の一部であると仮説しています。
2017.10.22追記
この仮説の改訂新版を作りましたので、大結馬牧仮説は次の記事を参照してください。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」
参考
墨書文字「大」集団が東京湾から香取の海まで道路で牧を結び、蝦夷戦争に備えたシステムが大結馬牧(延喜式)であると仮説しています。
近世の印西牧付近が大結馬牧(延喜式)の本拠地であったと考えることができるかもしれません。
参考 墨書文字「大」出土状況
6 牧実在の確認と牧施設場所の検討必要性
以上の資料から白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡に牧が実在したと考えます。
牧を構成する施設のうち牧場(草原)、厩舎、馬具工房などの場所がどこであるのか、それを示す直接証拠が出土していないので、検討(推定)する必要があります。
その検討(推定)を次の記事で行います。
2017年10月12日木曜日
短期集中学習 「奈良平安7開発集落の生業と消長」の開始
西根遺跡縄文時代遺構学習は遺物や写真の閲覧を繰り返すなかで深く踏み込んだものになりました。その中で蓄積できた独自視点・分析スキル・知識という3つの栄養分を使って大膳野南貝塚学習を発展したいと考えています。
しかし、ここで一旦間をおいて摂取した栄養分を体内で十分に咀嚼する時間を取りたいと考えています。
一時縄文時代学習を離れて、得たものを熟成発酵させることにします。
その間、1か月間くらい奈良平安時代開発集落学習を集中して行うことにします。
これまで学習してきた古代集落のうち7つをピックアップしてできるだけ横並びにして、これまで学習してきた事柄を比較点検することにします。そのような比較をすることにより、これまで気が付かなった新たな情報を得ることができると考えます。また今後の補完学習(萱田遺跡群のGIS学習)の意義も深めることができると考えます。
1 奈良平安7開発集落の学習経緯
奈良平安7開発集落の学習経緯
奈良平安7開発集落の位置図
2 奈良平安7開発集落の短期集中学習項目
次の項目について短期集中学習することにします。
ア 主な生業は何か?
イ 開発氏族は誰か?
ウ 蝦夷戦争と直接関わる遺構・遺物はあるか?
エ 集落一斉凋落の要因は何か?
参考 奈良平安時代7開発集落の規模・主な生業
一つの遺跡の情報だけでもGISを使って突っ込んだ検討をおこなえば、いろいろなことが判りますが、7つの遺跡の情報を横並びにすればこれまで気が付かなかったことが判るのではないかと期待しています。
しかし、ここで一旦間をおいて摂取した栄養分を体内で十分に咀嚼する時間を取りたいと考えています。
一時縄文時代学習を離れて、得たものを熟成発酵させることにします。
その間、1か月間くらい奈良平安時代開発集落学習を集中して行うことにします。
これまで学習してきた古代集落のうち7つをピックアップしてできるだけ横並びにして、これまで学習してきた事柄を比較点検することにします。そのような比較をすることにより、これまで気が付かなった新たな情報を得ることができると考えます。また今後の補完学習(萱田遺跡群のGIS学習)の意義も深めることができると考えます。
1 奈良平安7開発集落の学習経緯
奈良平安7開発集落の学習経緯
2 奈良平安7開発集落の短期集中学習項目
次の項目について短期集中学習することにします。
ア 主な生業は何か?
イ 開発氏族は誰か?
ウ 蝦夷戦争と直接関わる遺構・遺物はあるか?
エ 集落一斉凋落の要因は何か?
参考 奈良平安時代7開発集落の規模・主な生業
一つの遺跡の情報だけでもGISを使って突っ込んだ検討をおこなえば、いろいろなことが判りますが、7つの遺跡の情報を横並びにすればこれまで気が付かなかったことが判るのではないかと期待しています。
2017年10月10日火曜日
戸神川谷津の秘密 講演レジメ
2017年9月24日に印西地域史研究会にて講演させていただきましたので、そのレジメを参考までに掲載します。
講演題目は「祈りの空間 戸神川谷津の隠された秘密にせまる -西根遺跡 縄文~近世の自分流学習-」です。
これまでこのブログの記事作成を通じて学習してきた事柄のうち、次の2つに焦点を当てて自分の考えを話しました。
1 西根遺跡の縄文時代遺物(加曽利B式土器片3トン以上出土)の意味
2 縄文時代から近世まで西根遺跡空間が継続して聖地であったという事実。
門外漢素人がいくら考古歴史について学習をしたからといっても、人様の前で講演するのはいかがなものかとも考えます。しかし、印西地域史研究会の方から学習の楽しさや自由でものに縛られない発想などを話してもらいたいという要請を受けて講演の運びとなりました。
講演レジメ(pdf) 982KB
なお講演で使ったパワーポイントに基づいて講演内容をこのブログで連載記事にする予定です。
講演レジメに使った画像の1枚
西根遺跡縄文時代後期 第3~5土器集中地点付近の立体グラフ
講演題目は「祈りの空間 戸神川谷津の隠された秘密にせまる -西根遺跡 縄文~近世の自分流学習-」です。
これまでこのブログの記事作成を通じて学習してきた事柄のうち、次の2つに焦点を当てて自分の考えを話しました。
1 西根遺跡の縄文時代遺物(加曽利B式土器片3トン以上出土)の意味
2 縄文時代から近世まで西根遺跡空間が継続して聖地であったという事実。
門外漢素人がいくら考古歴史について学習をしたからといっても、人様の前で講演するのはいかがなものかとも考えます。しかし、印西地域史研究会の方から学習の楽しさや自由でものに縛られない発想などを話してもらいたいという要請を受けて講演の運びとなりました。
講演レジメ(pdf) 982KB
なお講演で使ったパワーポイントに基づいて講演内容をこのブログで連載記事にする予定です。
講演レジメに使った画像の1枚
西根遺跡縄文時代後期 第3~5土器集中地点付近の立体グラフ
2017年10月9日月曜日
西根遺跡出土「杭」はイナウ イナウを使った祭祀プロセス
「西根遺跡出土「杭」はイナウ」連載の最終回です。
発掘された地物の状況等から想定されるイナウをつかった祭祀プロセスをとりあえず空想的にまとめておきます。
1 祭祀プロセス
1-1 獣送り
まず祭場を設定するためにイナウを立てたと考えます。
その祭場でイノシシやシカ(主に幼獣)を送ったと考えます。
送りは飾り弓をつかった「遊び」を行い、最後に絶命させ、頭部は切り取り祭壇の上に掲揚したと考えます。
祭祀行為の空想 1 獣送り
1-2 獣肉調理・共食
送った獣の肉を焚火で調理し、祭祀メンバーで共食したと考えます。
祭祀行為の空想 2 獣肉調理・共食
1-3 獣骨の焼骨と散布
共食で残った骨を焼骨し、その場に散布したと考えます。
発掘された地物の状況等から想定されるイナウをつかった祭祀プロセスをとりあえず空想的にまとめておきます。
1 祭祀プロセス
1-1 獣送り
まず祭場を設定するためにイナウを立てたと考えます。
その祭場でイノシシやシカ(主に幼獣)を送ったと考えます。
送りは飾り弓をつかった「遊び」を行い、最後に絶命させ、頭部は切り取り祭壇の上に掲揚したと考えます。
祭祀行為の空想 1 獣送り
1-2 獣肉調理・共食
送った獣の肉を焚火で調理し、祭祀メンバーで共食したと考えます。
祭祀行為の空想 2 獣肉調理・共食
1-3 獣骨の焼骨と散布
共食で残った骨を焼骨し、その場に散布したと考えます。
祭祀行為の空想 3 獣骨の焼骨と散布
1-4 土器破壊
焼骨散布域で用意しておいた土器を破壊したと考えます。
これで主な祭祀行為は終了したと考えます。
1-5 祭祀跡の埋没
祭祀跡は放置され、祭壇に掲揚された獣頭部は腐って無くなったと考えます。土器片、土器片に覆われた焼骨、イナウはその場が陸化する過程で土に覆われていったと考えます。
2 祭祀跡埋没プロセスについて
この祭祀跡は流路に位置していますが、流水の影響を全くうけていません。
その理由についてメモしておきます。
次の図は別の場所の縄文時代流路の断面図です。
流路1の断面図
下流から上流方向を眺めた図
流路が埋まる過程が14→13→12→11と示されています。全て黒色土です。
このような流路埋没過程をみると西側から流路が陸化して土層に埋まっていった様子が判ります。流水の堆積作用が全く無いことはないと思いますが、主に風成堆積物と腐食土に起源を有する堆積物で埋まったもののようです。
これと同じ現象がここで検討した4C09グリッドでもあったと考えると、流路に位置するにも関わらず遺物に流水の影響が全くない様子を説明することができると考えます。
3 検討課題
4C09グリッドで観察できる遺物のセットは1回の祭祀の結果であると考えます。
この1回の祭祀跡が印旛沼圏全体のある年の秋祭りに該当するものかどうかなど、この1回祭祀結果と考える遺物セットの意義について検討する必要があると考えます。
その検討は一端間を置き、後日改めて行うことにします。
2017年10月8日日曜日
西根遺跡出土「杭」はイナウ 木製品利用の立体検討素図作成
1 「杭」はイナウ
西根遺跡出土「杭」の出土状況写真、「杭」の精細写真を千葉県教育委員会から提供していただき、ブログ掲載を許可していただき、検討を進めてきました。
この木製品は頂部削平、脚部削出があり上下がはっきりしていますが、「杭」であることは枝が1本残されていることから100%否定できます。なお、掃われた枝が大小3箇所ありますので、残された枝は意図して残したことがわかります。
またこの木製品には削りかけ(裏面に集中)、刻印(2箇所)、斜め方向刻み(2箇所)、面取り(2箇所)、小孔(37箇所)という彫刻がされていて、表面と裏面の確認ができ、表面と裏面の意匠パターンがほぼ同じになっています。
さらに小孔には同一工具(石器)跡が多数見られます。
これらの特性はこの製品が生産等の実用品として使われたものではないこと示しています。そのデザインがアイヌイナウと似ているところがあるので、祭祀用具として使われたことを想定することができます。この木製製品はアイヌイナウの祖形である縄文時代後期原始イナウであるとする仮説の蓋然性が高まります。
この製品が原始イナウであるかどうかの最終判定はこれから専門家にお願いしたいと考えます。
この記事と次の記事では、この木製品が原始イナウであると考えた時、どのように利用されたか、立体検討素図を作って空想してみたいと思います。この空想を持って「西根遺跡出土「杭」はイナウ」シリーズをとりあえず終わりにします。
2 立体検討素図作成
2-1 「杭」と丸木
4C09グリッドからは「杭」以外に丸木が出土しているようです。しかし丸木は自然木として廃棄され、出土物としての記載は当然のことながらされなかったようです。
「杭」と丸木出土状況
この丸木も「杭」と同じ木製品であると仮定して以下の検討を行います。
2-2 「杭」と丸木出土位置イメージ
発掘状況写真等から「杭」と丸木の出土位置、「杭」の上下と裏表は次のように特定できます。
「杭」と丸木出土位置イメージ
丸木の上下関係は「杭」と同じように観察できます。裏表は判りませんが、ここでは「杭」と同じであると想定してみます。
2-3 平面図の立体表現
平面図をGoogle earth proにプロットして立体表現しました。
平面図の立体表現 1
平面図の立体表現 2
2-4 木製品利用の立体検討素図作成
平面図の立体表現2に「杭」と丸木がその場に立っている状況を書き込むと、祭壇(イナウ)正面からみた焼骨・土器片堆積の状況を見ること(意識すること)ができます。またそれらと流路との関係も見ること(意識すること)ができます。
祭壇(イナウ)正面からみた焼骨・土器片堆積 祭祀活動考察のための立体検討素図
この立体素図を利用して次の記事で焼骨・土器片・イナウに関わる祭祀活動を空想してみて、このシリーズを区切ります。
西根遺跡出土「杭」の出土状況写真、「杭」の精細写真を千葉県教育委員会から提供していただき、ブログ掲載を許可していただき、検討を進めてきました。
この木製品は頂部削平、脚部削出があり上下がはっきりしていますが、「杭」であることは枝が1本残されていることから100%否定できます。なお、掃われた枝が大小3箇所ありますので、残された枝は意図して残したことがわかります。
またこの木製品には削りかけ(裏面に集中)、刻印(2箇所)、斜め方向刻み(2箇所)、面取り(2箇所)、小孔(37箇所)という彫刻がされていて、表面と裏面の確認ができ、表面と裏面の意匠パターンがほぼ同じになっています。
さらに小孔には同一工具(石器)跡が多数見られます。
これらの特性はこの製品が生産等の実用品として使われたものではないこと示しています。そのデザインがアイヌイナウと似ているところがあるので、祭祀用具として使われたことを想定することができます。この木製製品はアイヌイナウの祖形である縄文時代後期原始イナウであるとする仮説の蓋然性が高まります。
この製品が原始イナウであるかどうかの最終判定はこれから専門家にお願いしたいと考えます。
この記事と次の記事では、この木製品が原始イナウであると考えた時、どのように利用されたか、立体検討素図を作って空想してみたいと思います。この空想を持って「西根遺跡出土「杭」はイナウ」シリーズをとりあえず終わりにします。
2 立体検討素図作成
2-1 「杭」と丸木
4C09グリッドからは「杭」以外に丸木が出土しているようです。しかし丸木は自然木として廃棄され、出土物としての記載は当然のことながらされなかったようです。
「杭」と丸木出土状況
この丸木も「杭」と同じ木製品であると仮定して以下の検討を行います。
2-2 「杭」と丸木出土位置イメージ
発掘状況写真等から「杭」と丸木の出土位置、「杭」の上下と裏表は次のように特定できます。
「杭」と丸木出土位置イメージ
丸木の上下関係は「杭」と同じように観察できます。裏表は判りませんが、ここでは「杭」と同じであると想定してみます。
2-3 平面図の立体表現
平面図をGoogle earth proにプロットして立体表現しました。
平面図の立体表現 1
平面図の立体表現 2
2-4 木製品利用の立体検討素図作成
平面図の立体表現2に「杭」と丸木がその場に立っている状況を書き込むと、祭壇(イナウ)正面からみた焼骨・土器片堆積の状況を見ること(意識すること)ができます。またそれらと流路との関係も見ること(意識すること)ができます。
祭壇(イナウ)正面からみた焼骨・土器片堆積 祭祀活動考察のための立体検討素図
この立体素図を利用して次の記事で焼骨・土器片・イナウに関わる祭祀活動を空想してみて、このシリーズを区切ります。
2017年10月7日土曜日
西根遺跡出土「杭」はイナウ 表裏風化の違い
西根遺跡出土「杭」(縄文時代後期)の写真観察プロセスの中でA面が風化がすすみB面は新鮮な製品表面が見られましたので記録しておきます。
A面とB面の風化の違いは次の通りです。
A面とB面の風化の違い
A面とB面の風化の違い 頂部付近
風化の違いはこの木製品が野外に放置された後、A面だけが風雨に短期間晒されたために生じたものであると考えます。
これは、発掘状況写真でこの木製品がA面上B面下で出土していることが確認できるので間違いないと考えます。
A面上B面下で出土した状況
なお、この場所は縄文時代後期の戸神川流路にあたりますが「杭」の風化の様子から、遺物堆積後は、この場所が流水で洗われたことが無かったと結論付けることができます。
土器片や獣骨(焼骨)の出土状況からも流水の影響は全く見られません。
また、この場所の遺物が流水によって上流から運ばれてきて堆積したという想定も完全に否定できます。
A面とB面の風化の違いは次の通りです。
A面とB面の風化の違い
A面とB面の風化の違い 頂部付近
風化の違いはこの木製品が野外に放置された後、A面だけが風雨に短期間晒されたために生じたものであると考えます。
これは、発掘状況写真でこの木製品がA面上B面下で出土していることが確認できるので間違いないと考えます。
なお、この場所は縄文時代後期の戸神川流路にあたりますが「杭」の風化の様子から、遺物堆積後は、この場所が流水で洗われたことが無かったと結論付けることができます。
土器片や獣骨(焼骨)の出土状況からも流水の影響は全く見られません。
また、この場所の遺物が流水によって上流から運ばれてきて堆積したという想定も完全に否定できます。
2017年10月6日金曜日
西根遺跡出土「杭」はイナウ 小孔模様
西根遺跡出土「杭」(縄文時代後期)の小孔確認結果は次の通りです。
小孔(白丸)の確認作業
この図を見ていると頂部付近の斜め刻みと小孔群を合わせて次のような模様の存在をイメージしてしまいます。
頂部斜め刻みと小孔がつくる曲線(一つの想定)
このようなイメージが「杭」が原始イナウであるという証明作業に有効な思考であるのか、スカ思考であるのかわかりませんが、とりあえず記録しておきます。
参考 イナウに見られる縦方向曲線模様
例 1
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
例 2
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
参考 イナウにみられる小孔差し込み
例 3
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
小孔(白丸)の確認作業
この図を見ていると頂部付近の斜め刻みと小孔群を合わせて次のような模様の存在をイメージしてしまいます。
頂部斜め刻みと小孔がつくる曲線(一つの想定)
このようなイメージが「杭」が原始イナウであるという証明作業に有効な思考であるのか、スカ思考であるのかわかりませんが、とりあえず記録しておきます。
参考 イナウに見られる縦方向曲線模様
例 1
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
いずれの例も西根遺跡出土「杭」の小孔模様とは直接かかわらないようです。しかし、イナウ縦方向の曲線を描くという心性があることは確認できます。
例 3
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(2014、北海道大学出版会)から引用
いずれの例も対で差し込むモノが大きく、西根遺跡出土「杭」の小孔とは直接かかわらないようです。しかし、イナウに孔を開けモノを差し込むという心性があることは確認できます。
2017年10月5日木曜日
西根遺跡出土「杭」はイナウ 小孔を開けた工具
西根遺跡出土「杭」(縄文時代後期)に開けられた小孔の画像を詳しくみると同じ工具(石器)で開けられたと確認できますのでメモしておきます。
同一工具(石器)跡と考えられる小孔
同一工具(石器)跡と考えられる小孔画像
1が典型で約5㎜×5㎜の跡を残しています。四隅が尖っているので四隅に割れ目が伸びるような先端である工具(石器)でが使われたと考えられます。
B面では8カ所の小孔画像がほぼ一致しますが、他の小孔も似ているので恐らく全部が同一工具(石器)で開けられたものと考えます。
A面の小孔の形状はすべてぼんやりしていてB面小孔形状と一致するものはありませんでした。
A面は風化により製品表面1㎜~2㎜程度が失われているという事実が判っていますので、その影響により新鮮な小孔形状は失われたものと考えます。
A面の小孔もB面の小孔と同じ工具(石器)で開けられたものと考えて間違いないと思います。
先の上部が5㎜×5㎜程度で、本当の先端はもっと細い石器で2~3㎜程度から5㎜程度の小孔を開けて何をしたのか、検討する必要があります。
現時点のイメージでは小孔の大きさと深さから植物の葉や茎(花)を押し込んでイナウの飾りにしたと想像しますが、根拠はありません。重量のあるものをぶら下げたということは無いと思います。
同一工具(石器)跡と考えられる小孔
同一工具(石器)跡と考えられる小孔画像
1が典型で約5㎜×5㎜の跡を残しています。四隅が尖っているので四隅に割れ目が伸びるような先端である工具(石器)でが使われたと考えられます。
B面では8カ所の小孔画像がほぼ一致しますが、他の小孔も似ているので恐らく全部が同一工具(石器)で開けられたものと考えます。
A面の小孔の形状はすべてぼんやりしていてB面小孔形状と一致するものはありませんでした。
A面は風化により製品表面1㎜~2㎜程度が失われているという事実が判っていますので、その影響により新鮮な小孔形状は失われたものと考えます。
A面の小孔もB面の小孔と同じ工具(石器)で開けられたものと考えて間違いないと思います。
先の上部が5㎜×5㎜程度で、本当の先端はもっと細い石器で2~3㎜程度から5㎜程度の小孔を開けて何をしたのか、検討する必要があります。
現時点のイメージでは小孔の大きさと深さから植物の葉や茎(花)を押し込んでイナウの飾りにしたと想像しますが、根拠はありません。重量のあるものをぶら下げたということは無いと思います。
2017年10月4日水曜日
西根遺跡出土「杭」はイナウ 表裏両面に共通する意匠セット
千葉県教育委員会提供写真を調整した結果とても観察しやすくなり、これまで見つけられなかった工作事象を見つけることができました。
1 面取り部の追加発見と刻み部位の認識
A面に新たに面取り部を発見しました。
同時にB面のこれまで認識していた上の部分も面取り部であることが判りました。ここは刻みの影響で壊れて凸凹になっていますが、表面は面取りされています。
A面の1本だけ孤立した削りかけ跡が刻みであり、その下に半球状に薄くはがれている部分を発見しました。刻みは面取り部を刻んでいます。
B面の刻みは面取り部が壊れるほどの強さで刻まれていて、削ったものではないことが判りました。これまで刻印として考えてきていますが、刻印のように凹部をつくりだすために削られたものではなく、石器刃部で強く引き掻いたものです。
この結果を示すと次のようになります。
面取り部の確認作業1
この結果に基づいて2017.10.02記事「西根遺跡出土「杭」はイナウ 面取り部存在の確認」は訂正しました。
2 小孔の確認作業
小孔の確認作業を行いました。
小孔(白丸)の確認作業1
小孔(白丸)の確認作業2
1 面取り部の追加発見と刻み部位の認識
A面に新たに面取り部を発見しました。
同時にB面のこれまで認識していた上の部分も面取り部であることが判りました。ここは刻みの影響で壊れて凸凹になっていますが、表面は面取りされています。
A面の1本だけ孤立した削りかけ跡が刻みであり、その下に半球状に薄くはがれている部分を発見しました。刻みは面取り部を刻んでいます。
B面の刻みは面取り部が壊れるほどの強さで刻まれていて、削ったものではないことが判りました。これまで刻印として考えてきていますが、刻印のように凹部をつくりだすために削られたものではなく、石器刃部で強く引き掻いたものです。
この結果を示すと次のようになります。
面取り部の確認作業1
この結果に基づいて2017.10.02記事「西根遺跡出土「杭」はイナウ 面取り部存在の確認」は訂正しました。
2 小孔の確認作業
小孔の確認作業を行いました。
小孔(白丸)の確認作業1
小孔(白丸)の確認作業2
A面14、B面23の小孔を抽出しました。枝より上のものの多くは人工の小孔であると考えます。工具の跡が確認できるものもあります。しかし写真では判断しずらいものもあり、自然の小孔(丸い溝)が含まれている可能性もあります。
枝より下の小孔は自然のものの割合が高いかもしれないと推測します。
A面の小孔の様子がぼんやりしてよくわかりません。ぼんやりしている理由はこの面が出土写真では上になっていることから、地面に倒れてから風雨にさらされて風化した時間があり、表面の凹凸が失われたからであると考えます。写真撮影条件はB面と同様であったと考えます。
B面の小孔の様子は子細に観察でき、同じ工具(石器)が使われたことが確認できる小孔がありますので、その結果は次の記事で報告します。
また小孔の意味についても別記事で検討します。
この記事では上記「小孔(白丸)の確認作業1」からわかる意匠セットについてメモします。
3 A面B面に共通する意匠セット
「小孔(白丸)の確認作業1」図からA面B面ともに「杭」頂部付近に次のような共通意匠セットが存在します。
西根遺跡出土「杭」(縄文時代後期)A面B面に共通する意匠セット
面取り部、斜め刻み、小孔群のそれぞれの意味は現時点で不明ですが、それらの位置関係が共通する意匠セットが存在することは確実です。
従ってこの共通意匠セットはこの製品を縄文人が使う上で重要な意味を有していたと考えることができます。
また面取り部の大きさ、斜め刻みの深さ、小孔群の一つ一つの小孔の大きさがすべてB面が勝っています。このことから、B面が表でA面が裏であることが判明しました。
A面とB面の区別は、枝の位置を左にしたとき正面が表になるようになっているということです。
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