2012年1月2日月曜日

谷中分水界と野馬除土手

次の絵図は小金牧絵図(部分)(鎌ヶ谷市教育委員会所蔵)で江戸時代末期につくられたもので、土手の分布と木戸の所在名称等が記載されているものです。

小金牧絵図(部分)(鎌ヶ谷市教育委員会所蔵)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)p459より転載

この絵図の記載内容を旧版1万分の1地形図にプロットしてみました。
土手の位置は旧版1万分の1地形図と迅速図から迷うことなくプロットできます。

小金牧絵図内容のプロット図
基図は旧版1万分の1地形図「大久保」「三角原」

このプロット図から、谷中分水界の場所は長作木戸がある場所であるとともに、西に拡がる「下野牧之内野馬入場新田」と「天戸入御囲入場新田」の境界土手の起点ともなっていて重要な役割を果たしていることがわかります。

谷中分水界の場所がこのように近世の土地利用上重要なキーポイントとなった理由は、谷中分水界という特異な地形特性を巧みに利用した道がそれ以前から発達していて、その道が野馬除土手以前から土地利用上の境界となっていて、その境界に野馬除土手が構築されたからだと考えられます。

次の絵図は1676(延宝4)年成立の高津新田が見られないことから、それ以前の作成と推測されている「小金牧周辺野絵図」(県立中央図書館所蔵)の部分です。
「小金牧周辺野絵図」(県立中央図書館所蔵) 説明書き込み
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)p576より転載

この絵図では、谷中分水界が、天戸村が囲った「天戸野馬入」、長作村が囲った「長作内野」とどの村からも囲われていない土地の3つの利用(所有)関係の境界点となっていることがわかります。
また「天戸野馬入」と「長作内野」の北側の境は谷中分水界を東西に通る道そのものであると推測できます。
また、すでに「コホリ」と書かれていて、小堀が存在していたことがわかります。

この絵図の情報(どの村がどの土地を囲っているか)等を基に、どの村にも囲われれていない土地に小金牧が作られたと考えられています。(「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」[千葉市発行]の説明に基づく)

なお、野馬除土手の形状が迅速図に「視図」として掲載されているので、次に引用します。
(二)と(ホ)の位置は上記「小金牧絵図内容のプロット図」にプロットしてあります。

野馬除土手の形状
迅速図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅視図(明治15年測量)
図中の数字の単位はm。

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