2015年4月19日日曜日

八千代市白幡前遺跡 馬2頭と人1人が捨てられた9世紀土坑

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.113 八千代市白幡前遺跡 馬2頭と人1人が捨てられた9世紀土坑

「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に馬2頭と人1人が捨てられた土坑の情報が掲載されていますので、紹介するとともに、このブログなりに検討してみます。

1 出土遺物の概要と報告書における考察
土坑P-168からウマ2頭とヒト1体に関わる骨が出土しています。

土坑P-168の位置

土坑P-168は1Aゾーンの中央付近に存在します。台地面から1段低くなっている河岸段丘面に位置し、当初建設された兵站・輸送機能地区内に位置します。

土坑P168 ウマ遺存体の出土状況

この土坑出土ウマ骨とヒト骨(大腿骨左右)について報告書では次のような考察を行っています。
・「ウマの形質は在来小型馬に近いと考えられる。」

・「この土坑は、発掘時の所見によると、掘られてから比較的短時間で埋められたということであるので、死体の始末のために掘られ、埋め戻されたのであろう。」

・「この土坑は平安時代、9世紀のものである。少なくとも2頭の若いウマや、1人の人間がまとめて捨てられる(埋葬される)のは、事故または疾病と考えるよりも、なんらかの戦乱に伴う犠牲者と見てよいだろう。中・近世の戦乱の多かった時代ならいざしらず、この地方にも、なんらかの抗争が存在し、犠牲者はウマとともにこの大きな土坑に埋められたのであろう。供献と考えられる遺物は出土しておらず、死亡の後にすみやかに埋められたものと考えられる。」

2 考察
白幡前遺跡は9ゾーンに分けて考えることが出来、それはさらに8世紀代に活動が活発なゾーンと9世紀代に活動が活発なゾーンに分けて考えることができます。

8世紀代に活動が活発であった2Aゾーンには周溝を巡らした寺院が出土していますが、9世紀代になると寺院は廃絶し、周溝は新たな道路のよって切られてしまいます。

寺院の廃絶は寺院のスポンサーであった地元支配者の力が凋落したことによる可能性を感じます。2015.04.17記事「八千代市白幡前遺跡 竪穴住居消長を指標とした活動活発時期イメージ」の追記参照

このように8世紀代と9世紀代で集落内活動活発場所が異なることや8世紀寺院が9世紀に廃絶すことから、集落統治政策が抜本的に変更になったことは確実です。そしてその背後に、集落支配の権力者が交替した可能性を感じます。

集落支配の権力者交替があったとすれば、そしてその際に武力が用いられたとすれば、土坑P-168からウマ・ヒト骨が出土することと整合します。

集落内権力闘争、つまり蝦夷戦争のための軍事兵站・輸送基地内権力闘争があったとすれば、それは単にこの集落独自の出来事というよりも、律令国家中央の権力闘争の下総国版、あるいは花見川-平戸川筋版といっていいようなものである可能性が濃厚になります。

8世紀代と9世紀代の遺構・遺物の変化をより詳しく把握し、上記のような見立ての確からしさをさらに検討したいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿