1 集落内寺院及び瓦塔
白幡前遺跡の集落内寺院及び瓦塔について「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)の記述を引用して紹介します。
「「村落内寺院」は、集落のほぼ中央の2A群に位置している(図7)。
図7 白幡前遺跡の村落内寺院
「村落内寺院」が含まれる建物群は、竪穴住居跡37軒、掘立柱建物跡19棟から構成され、その中に、3×2間の身舎(もや)に四面の廂がついたH069という掘立柱建物跡を中心として、周囲を溝(M021)で区画した一画がある。この区画内から掘立柱建物跡10棟、竪穴住居跡10軒が検出された。この区画を「村落内寺院」とする根拠として、四面廂付建物の存在とともに、周囲を区画する溝状遺構を横断して掘られた溝状遺構と区画内竪穴住居跡から瓦塔(がとう)が出土したことがあげられる(写真3)。
写真3 白幡前遺跡出土の瓦塔
さらに周辺の遺構から「佛」と墨書された鉢や壺、「寺坏」と読めるロクロ土師器坏が出土したことは、さらにそれを裏付けるものである。また溝による区画の外側に3×3間の総柱構造の掘立柱建物跡があり、収納施設と考えることができる。
瓦塔は、溝状遺構(M034)及び竪穴住居跡(D126、D128)から出土しており、最低3個体が確認されている。これらの瓦塔は柱部分に朱を塗り、壁は白土で化粧しており、本格的な寺院建築を模倣している。その内訳は、塔が2個体、堂が1個体で、焼成の具合からこのうち2個体が塔と堂のセットであったと考えられる。また、出土した遺構の前後関係から、瓦塔にも前後関係があることが確実で、8世紀後半から9世紀前半にかけて新しいものと交換されたと推定できる。なお、区画内の竪穴住居跡の出土物から、「村落内寺院」は8世紀後半には機能していたようで、9世紀中葉頃に廃絶したのではないかと思われる。
このほか「村落内寺院」の北側の建物群からも瓦塔が出土している。出土地点は、「村落内寺院」の区画溝から北に100mほど離れた所で、同一個体とみられる塔の破片がある。
萱田遺跡群には、北海道遺跡出土の「勝光寺」という墨書土器、井戸向遺跡出土の仏像や「寺坏」「佛」といった墨書土器、そして白幡前遺跡の「村落内寺院」と瓦塔というように、仏教的な遺構や遺物が点在している。本来、白幡前遺跡に存在する「村落内寺院」を中核としていた仏教信仰が、個々の建物群を舞台に広がっていったものと理解できるが、どの程度の独自性をもって広がったものかは検討の余地がある。」「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から図・文章引用
参考 瓦塔、瓦堂のイメージ
井戸向遺跡から出土した小金銅仏
2 集落内寺院に関する考察
2-1 「「村落内寺院」は存在しない」という指摘
石田広美・小林信一・糸原清(1997)「古代仏教遺跡の諸問題-重要遺跡確認調査の成果と課題1-」(千葉県文化財センター研究紀要18)のまとめに「「村落内寺院」は存在しない」という小見出しで次のような記述があります。
「最初に寺院が建立される。初期寺院は当然としても所謂「村内寺院」においてもこれはあてはまる。
従来「村落内寺院」と言われてきたものには一般の村落ではなく、寺院を支える機能を有する「村落」も含まれている。
言い換えれば寺院の付属施設である。初期寺院、国分寺と違い明確な伽藍区画をもたないために、また近接して竪穴住居、掘立柱建物が営まれたための誤解なのである。
萩ノ原遺跡(「寺」「寺塔」)、東郷台遺跡(「寺」)、永吉台遺跡群遠寺原地区く「士寺」「山寺」)、山田台廃寺跡、白幡前遺跡(「大寺」)、郷部・加良部遺跡(「忍保寺」「大寺」「新寺」)、山口遺跡(「忠寺」)などは独立した寺院として存在していたのである。
ただし、須田勉が提唱した「村落内寺院」は以上のような遺跡ではなく一般村落において堂のみが存在する「寺院」や仏教関速遺物を出土する村落において使用できる用語ではある。
しかしながらその定義付けは根本的な変更が必要になる。」
要約すると、白幡前遺跡のような寺院は既存集落から独立した寺院であり、その寺院を支える「村落」を従えていた、ということになります。
白幡前遺跡2Aゾーンの寺院はもともとその周辺にあった村落の内部から育ったようなものではなく、いわば計画的に設置されたものであり、その寺院を支える同じく計画的に配置された村落がその近くに存在すると考えるべきだという思考です。
このブログで考えている白幡前遺跡の出自(兵站基地として計画的に配置された)と合致する(整合する)思考方法です。
遺跡発掘調査報告書(「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター))で使われている「村落内寺院」という言葉が、村落の発展の中で生まれた寺院という印象を持つので、このブログではこれまで意識的に避けてきました。
その言葉の代わりに、遺跡全体を集落として捉え、集落内寺院(集落区域内=遺跡区域内に存在する寺院)という言葉を使ってきましたが、上記論文の記述から自分が形成した寺院イメージが正しいことがわかりました。
(さらに、1で引用した「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)の文章中「村落内寺院」と鍵カッコを付けている理由もわかりました。)
またこのブログでは、寺院のある2Aゾーンに隣接する2Bゾーンを、掘立柱建物の比率が小さいことや墨書土器の出土が少ないことから「一般農業集落的性格の強い集団の居住地だったような印象を受けます。近くの谷津における水田耕作や台地における麻栽培などに従事していたのかもしれません。」(2015.04.15記事「八千代市白幡前遺跡 掘立柱建物を指標とした集落イメージの検討」)と記述しました。
この記述は、2Aゾーン(寺院)を支える機能として2Bゾーンが配置されたと考えることの裏付けになる情報になる可能性が濃厚となりました。
参考 竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分
これまで、2Bゾーンが食料生産部隊だとすると、それは集落全体(基地全体)のためであるに違いないと考えてきましたが、そうではなく、2Aゾーンのためであると考えを変更することになります。
思考をさらに発展させれば、これまで寺院を主として戦勝祈願・士気鼓舞施設として考えてきましたが、もっと広い視野から、例えば僧侶の力を借りて食料生産など基地維持運営に必要な地域開発を推進する社会装置として考えることも必要であると感じるようになりました。
遺跡(集落=軍事兵站・輸送基地)のなかで寺院の占める役割が自分が考えていた以上に大きなものであることがわかりました。
この論文(石田広美・小林信一・糸原清(1997)「古代仏教遺跡の諸問題-重要遺跡確認調査の成果と課題1-」(千葉県文化財センター研究紀要18))から刺激を受け、兵站基地と寺院がセットで存在している理由や意義についてより一層興味が深まりました。
また、白幡前遺跡が「一般農業集落」ではないことがますます明白になりました。
つづく
予定(2-2 小字「寺谷津」について、2-3 寺院廃絶の理由)
既存の文化財行政内部の言論のみで構成される歴史観に対して、大変丁寧に報告書や県史を考察された内容で考え方も私の中に「一考」すべき内容として受取りました。
返信削除私は、「村落内寺院」の用語に反対意見を持っております。
何故なら、この時期は「村」の定義が出来ないのでは?と考えております。
単位として
国、郡、郷、里、戸です。
またムラを漢字表記するならば「邑」を使うべきだと考えております。
ですので、ここでの「集落内寺院」の表現は私の表現と同じです。
八千代市、船橋市に多数発見される墨書土器について、私の住んでいる神奈川県内の文化財系職員の見解ては、背景に僧侶が多く居たのでは?との事を言っておりました。
下総地域の古代仏教について
集落構造からの視点での考察は
仏教の地域への浸透過程の解明
仏僧の構成
等、古代社会の市民層に近いところでの、「仏教」が観えてきそうな気がしました。
匿名様 とても有益なコメントありがとうございます。もう10年前の記事で、今の自分の興味対象からみるとだいぶ遠方になってしまったコンテンツです。しかし、次のような背景から、いつかチャンスがあればもっと学習を深めたいと考えています。
削除八千代市白幡前遺跡が新川(現在の川名、印旛沼水系)沿いにあり、新川の上流と花見川(東京湾水系河川)源流との間に船越(二つの水系を結ぶ短区間の運搬陸路)があった可能性が幾つもの証拠から言えるという仮説(東海道水運支路仮説)を自分は持っています。この仮説実証を念頭においた学習の中で、それととても整合的で重要な拠点遺跡が白幡前遺跡です。単にそこで開発があったというのではなく、東京湾から印旛沼-香取の海を経て東北へと通じる国家戦略ルートの中で重要な役割を担った白幡前遺跡の特徴を深く知りたいというのが私の学習内容です。そういう中で、匿名様のおっしゃるような仏教の役割、浸透過程、支配層・役人や被支配層と仏僧との関係などの把握が重要になると思います。
匿名様がもし古代仏教に取組んでいるようでしたなら、いろいろ教えていただければありがたいです。
ありがとうございます。