「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)[以下報告書と略称します]の情報を素人なりに咀嚼して、自分の問題意識を投影しながら、この遺跡から新たなインタレストを生み出す行為をしばらくします。
複数の記事を通じて良い結論が予定調和的に生まれる保証はどこにもありませんが、興味深い材料満載の遺跡ですので、先ずは第1歩を踏み出してみます。
1 八千代市白幡前遺跡の集落内ゾーン
報告書では建物群の平面図上の分布特性に着目して1~3群に分け、1群は2小グループに、2群は6小グループに細区分し、結局全部で9つにグループ分けしています。
各グループは「群内においても建物の構築等に独自性が、認められ、何らかの意味を含んだ単位であったようだ。」としています。
このブログではこの建物グループの範囲が分布上意味を有しているので、地域的ゾーンと捉え直して考察することにします。
八千代市白幡前遺跡の集落内ゾーン区分
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)の建物群グループを括った図
参考までに、このゾーン区分図を地形段彩図とオーバーレイしてゾーン毎の地形を見てみます。
参考 集落内ゾーン区分と地形段彩(現在地形)
地形段彩図が現在地形ですから正確ではありませんが、大局的にゾーン1Aと1Bは標高15~17mの河岸段丘上に、それ以外のゾーンは標高20m程度の台地(下総下位面)に立地していることがわかります。
参考 八千代市白幡前遺跡の現在地図の対応
参考までに、集落内ゾーン区分図を現在地図にプロットしてみました。現地では古代遺跡の状況を感じることは全くできません。
ゾーン別にみた竪穴住居跡数と掘立柱建物跡数は次のようになります。
竪穴住居跡数と掘立柱建物跡数
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)から作成
各ゾーンの建物は、それぞれが竪穴住居と掘立柱建物の双方から構成されていて、ゾーン毎にそれぞれをある単位活動やある単位集団と対応させて考えることが可能です。
ゾーンとゾーンの間には数十mの住居や建物が存在しない緩衝帯があります。この緩衝帯が耕作されていた可能性はありますが、それが各ゾーンのメインの生業であったとは到底考えることができません。
ですから、各ゾーン集団の生業(メイン活動)は何か、その生業(活動)の場はどこであるかということが重要な検討テーマとなります。
2 八千代市白幡前遺跡は一般農業集落か?
報告書では「集団の構成要素は水利・耕地・山野等を共有する一農業共同体として存在していたと考えられる。」としています。
また別の場所で「一般集落」としています。(「墨書土器の点数としては非常に多いもので、一般の集落遺跡としてはこの数は膨大と言っても過言ではない。」)
しかし、墨書土器の件も含めて、報告書を仔細に読むと次のような項目で、この集落を一般農業集落とは捉えがたく感じます。
1 密集集落が連担する。(権現後遺跡、北海道遺跡、井戸向遺跡、白幡前遺跡)
2 竪穴住居跡数(合計279)に対して掘立柱建物跡数(合計150)が多い、
3 官人の服制品である銙帯が各ゾーンから出土する
4 分水界を越えて東京湾から生鮮食料品であるハマグリが運ばれてきている
5 膨大な墨書土器が出土する
6 建物方向等を規制して計画的に建物を配置したゾーンがある
7 丈部姓の人面墨書土器が出土している
8 区画施設を伴う集落内寺院が出土し関連遺物(瓦塔等)が検出されている(2015.04.14追記)
発掘調査で判明した上記事項は、この集落が一般農業集落ではなく、蝦夷戦争下に形成された花見川-平戸川筋軍事兵站基地ゾーンに位置する特殊集落(軍事兵站・輸送基地機能を有する集落)であるということを証明する材料になると思います。
次以降の記事でこれらの項目を順次具体的に検討します。
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