花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.337 参考 竪穴住居10軒当たり穂摘具出土数
参考までに、遺跡別穂摘具出土数と竪穴住居数の情報から遺跡別竪穴住居10軒当たり鎌出土数を調べて見ました。
穂摘具出土数
竪穴住居10軒当たり穂摘具出土数
船尾白幡遺跡では穂摘具の用途は主に稲の刈り取り用であると考えました。
稲に限らず雑穀の収穫にも使われたと考えます。
竪穴住居10軒当たり穂積具出土数を見ると、白幡前遺跡の値が大きく、船尾白幡遺跡、井戸向遺跡がそれに続きます。
この3遺跡はある程度水田耕作を行っていたと考えます。
ただし、別の記事で書きましたが、これら3遺跡の水田耕作は当時の水田耕作全体の中では極めて限られた部分であり、大半は古墳時代から存在していた既存集落が耕作していたと考えます。
(古墳時代・奈良時代の既存集落は現在の既存集落へと継続していますから、その土地で遺跡発掘調査が行われることはほとんどありません。従って、学習した遺跡が少ないこともあり、私はまだ当時の既存集落の発掘情報を学習できていません。)
北海道遺跡は白幡前遺跡の約半分の値です。北海道遺跡は他の指標でも「低レベル」の場合が多く、また集落の空間構造も特異であり、これまでの検討では同じ新規開発集落といっても特別な条件が関わっている集落であると疑っています。
鳴神山遺跡は極めて値が低く、権現後遺跡は値がゼロです。
この二つの遺跡は水田耕作及び雑穀栽培を、はじめから開発メニューに持たない台地における活動に特化した遺跡であると考えます。
権現後遺跡は土器生産をテーマとする遺跡で問題はないと考えます。
鳴神山遺跡は牧をメインテーマにして、養蚕も行う遺跡であると考えています。
ただし、養蚕業務に対応してその道具である紡錘車や鎌が出土するような関係を、牧について私はまだ見つけていません。
牧業務の存在を示す遺物(それもある程度遺跡をカバーして分布するような複数出土物)は何か、毎日考えてます。
参考 遺跡の位置
0 件のコメント:
コメントを投稿