花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.338 作業メモ 土錘と土製円盤の共伴出土
別件で鳴神山遺跡のGISデータを見ていた時、土錘と土製円盤が4遺構で共伴出土している状況を見つけました。
土錘は全部で7遺構から、土製円盤は5遺構から出土しているのすぎません。
土錘から見ると57%の遺構から土製円盤が出土します。
土製円盤からみると、80%の遺構から土錘が出土します。
この共伴出土の状況は特段の興味の対象になります。土錘と土製円盤の空間的出土状況の間には強い相関があります。
この情報は鳴神山遺跡の特性の影の側面を知ることが出来そうなので、忘れないように記事としてメモしておき、今後検討を深めることとします。
今後の検討のために、その分布状況だけを見ておきました。
鳴神山遺跡 土錘出土状況
鳴神山遺跡 土製円盤出土状況
なお、土錘と土製円盤が共伴出土する遺構の1つから穂摘具が出土していて、その遺構は水田耕作との関わりがあると考えています。
土錘は釣りや網漁でおもりとして使われるものだと考えます。
土錘の分布域は集落が戸神川に降りる場所として使った枝谷津(8世紀末頃まで存在した直線道路が戸神川沖積地に降りる場所)を囲むように分布していますから、土錘の意味と分布状況が整合します。
穂摘具も出土しているのですから、水田耕作もしていたのでした。
鳴神山遺跡のメインの生業は牧や養蚕であったと考えますが、少数の集団は戸神川に降りてそこで水田耕作を行い、川魚を獲っていたことになります。
そして、その集団が土製円盤を使っていたことになります。
土製円盤は祭祀道具と考えられていますから、鳴神山遺跡では沖積に降りて水田耕作したり川漁をする小集団だけが土製円盤をつかう祭祀を行っていたことになります。
そのように考えると、その小集団の出自がどのようなものであるのか(同時にメインの大集団の出自も)知りたくなります。
鳴神山遺跡の台地から降りて沖積地で生業活動を行った人々ははたして既存集落出身住民であるのか、どうか?
またその小集団の書いた墨書文字からどのような情報を得られるかということにも興味が湧きます。
今後土錘や土製円盤についても興味を持ちたいとおもいます。
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