花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.325 高津比咩神社参拝
八千代市高津にある高津比咩神社を参拝してきました。
宗像三女神の一神である多岐都比賣命(タキツヒメノミコト)が祭神であり、以前から気になっていた神社です。
高津比咩神社
祭神や由緒の書いてある看板がありました。
由緒等の書いてある看板
祭神は次の通りで、多岐都比賣命以外は昭和26年に境外神社を合併するときに併せて祀られたと理解しました。
高津比咩神社 祭神
多岐都比賣命
大己貴尊 (合併境外社 子ノ神社祭神)
木花開耶姫命 (合併境外社 浅間神社祭神)
北斗北辰 (合併境外社 妙見神社祭神)
間宮庄五郎源高秀 (合併境外社 高秀霊神社)
由緒は明応元壬子年9月創立と書いてあります。西暦1492年創建です。
15世紀末に、この地になぜ宗像三女神の一神である多岐都比賣命(タキツヒメノミコト)が祀られたのか、人々から信心を集めたのか、興味が湧きます。
また下総二宮神社の三山七年祭ともかかわると考えられる高津姫伝承があります。
どのような経緯の下で多岐都比賣命がこの地に祀られ信心をあつめたのか、わかりませんが、突然のことではなくその前史があるに違いないと考えて、次のような実験的思考をしてみました。
【実験的思考1】 宗像13社が創建された時からの影響
おそらく古墳時代早期頃九州から宗像海洋族がはるばる印旛浦までやってきて定着し、印波国の国造りに参加しました。
その際の移動経路、あるいは定着後九州と連絡を取るときの経路は花見川-平戸川(新川)船越を通る東京湾ルートであったと考えられます。銚子を経由する太平洋ルートではなかったと考えます。
参考 印旛古代4氏族の印旛到達ルートと順番
2015.10.29記事「参考メモ 房総古代の開拓に関する空間大局観」参照
つまり、宗像海洋族は花見川-平戸川(新川)船越を通過しているのですから、高津比咩神社のある八千代市付近の土地には宗像海洋族通過の痕跡が残っていても不思議はないのです。
宗像神社という明確なものはできなかったけれども、その信仰が八千代の地に細々と受け継がれていた可能性はあります。
そのような素地があって15世紀末にそれが表に出て、見える形の神社になったと考えることができます。(思考実験)
→高津比咩神社創建の由来説明としては説得力に欠けますが、宗像13社圏域から東京湾に出る地勢上の要所に位置することからして、この地が宗像13社の影響圏にあったことは十分に考えられます。
【実験的思考2】 古代における印西と八千代の密な交流の影響
8世紀9世紀には印西・白井付近の開発集落(鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡など)と八千代付近の開発集落(萱田遺跡群)とは密接な関係・交流が存在していた考えます。
1 水運による交流
東京湾から花見川-平戸川(新川)船越を通り、印旛浦を経由して香取の海-常陸国-陸奥国と結ばれる水運ルートが存在していて、それは東海道水運支路といえるような機能を果たしていたと考えます。
このルート上で隣接する鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡の集落と萱田遺跡群の集落は密接な交流関係があったと考えます。
2 陸運による交流
蝦夷戦争時代までは鳴神山遺跡を横断する直線道路が存在していて、東京湾岸の馬牧牛牧と結ばれ、香取の海までつながり、陸奥国方面へ牛馬を搬送する機能を果たしていたと考えられます。
つまり、陸路で萱田遺跡群(高津馬牧)と鳴神山遺跡が結ばれてたと考えます。
従って、萱田遺跡群と鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡は密接な交流が存在していたと考えます。
蝦夷戦争時代までの陸路及び東海道水運支路イメージ(仮説)
3 印西と八千代の出土墨書土器文字の類似性
船尾白幡遺跡から墨書文字「生」や則天文字「生」が出土していますが、萱田遺跡群の白幡前遺跡からも多量の墨書文字「生」や則天文字「生」が出土していて、人間関係上のつながりが濃かった可能性が推察されます。
1~3を背景にして、古代において宗像神社圏の信仰が八千代市付近に影響を及ぼし、その後高津比咩神社が成立した可能性があります。(思考実験)
→印旛浦の伝統ある老舗集落(宗像神社圏域)の文化的影響力が、8~9世紀の大規模地域開発期に、印旛浦最奥地の萱田遺跡群地域に及んだ可能性は大いにあると考えます。
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