2016年4月2日土曜日

鳴神山遺跡 墨書文字「依」再考

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.320 鳴神山遺跡 墨書文字「依」再考

船尾白幡遺跡の検討の最中、墨書文字「子」「小」が蚕(コ)であることに気が付きました。

重要なことが判ったので、船尾白幡遺跡の検討を一時中断して、鳴神山遺跡に戻って、養蚕(絹生産)について検討しています。



鳴神山遺跡出土文字「子」「小」(=蚕)と共伴出土する墨書文字を整理してみました。

鳴神山遺跡 子、小と共伴出土する墨書文字

鳴神山遺跡の主要集団の一つであると考えてきた「依」の共伴があります。

「依」集団については過去に検討していて衣服に関する集団であることまでは突き止めていますが、養蚕についての情報は持ち合わせていなかったので、結果として深考になっていませんでした。
(掘立柱建物を被服廠と考え、その管理集団と考えていました。)
2015.10.18記事「墨書文字「依」の意味深考

ここで鳴神山遺跡出土文字「依」「衣」について養蚕に関連付けて考察します。

「依」「衣」はイと発音するのではなく、キヌと発音する言葉であると考えます。

キヌ「衣」という言葉は8世紀9世紀では一般衣服を指し、絹を指していません。

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きぬ【衣】

〖名〗
① 衣服。着物。特に、上半身からおおって着るものを総称していう。また、衵(あこめ)、かずきなどもいう。⇨きぬ(衣)着す。
*万葉(8C後)一四・三四五三「風の音の遠き我妹子が着せし伎奴(キヌ)たもとのくだりまよひきにけり」

語誌
⑴上代では日常の普段着。旅行着や外出着は「ころも」といった。そのため「きぬ」は歌ことばとはならなかったようで、複合して「ぬれぎぬ」以外は三代集以降姿を消す。

⑵院政期以降は衣服の総称でなくなり、「絹」の意の例が見えはじめ、軍記物語では上層階級や女性の着衣の意味で用いられている。下層階級の衣服は「いしゃう」であった。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
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しかし蚕(コ)を当て字で子(コ)、小(コ)と書いたように、絹(キヌ)について、音が同じでかつ衣料品というジャンルが同じであることから、当て字として衣(キヌ)と書いたと考えます。

また絹(キヌ)をつくる人という意味で衣に人偏をつけて造字して「依」をつくり、キヌと読んだと考えます。

墨書土器 「衣」「衣」「子」「小」の解釈(2016.04.02)

つまり、「依」集団とは養蚕集団(絹生産集団)であると考えます。

参考 文字「依」出土分布図

「依」2カ所の他、主要生業集団の文字「大、大加」が4カ所、久弥良が2カ所で出土します。

従って、「依」集団以外の生業集団も何らかの形で養蚕に関わっていたと考えることができます。

一方、「馬牛子ヵ身軆ヵ」はその場所で養蚕がおこなわれていたと考えることができません。むしろ牧業務を示す証拠です。

そして、その場所から「大、大加」が大量に出土していることから、逆に牧業務を担った主な集団が「大、大加」集団だったと考えています。

「大、大加」と「久弥良」は共伴出土する例が多く集団としての関係が強いように感じますから、とても大ざっぱなイメージ的捉え方になりますが、「依」集団は主に養蚕を、「大、大加」集団、「久弥良」集団はどちらかというと牧業務をメインにしていたと考えます。

つづく


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