2016年4月18日月曜日

船尾白幡遺跡 穂摘具

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.335 船尾白幡遺跡 穂摘具


船尾白幡遺跡出土鉄製穂摘具(手鎌)は3点あります。

他の農業道具と比べて出土数が大変少数です。

その分布を示します。

船尾白幡遺跡 穂摘具出土状況

穂摘具出土が貧弱な理由は、船尾白幡遺跡の集落が奈良時代に建設された新規開発地であり、台地開発の拠点であり、水田耕作は最初から開発メニューに入っていなかったからだと考えます。

戸神川には古墳時代に大規模な可動堰が作られるなど、水田開発がすでに行われていました。
2016.03.07記事「西根遺跡 古墳時代後期から奈良時代前半の出土物」参照

次の図で示すように船尾白幡遺跡付近の谷津は狭小であり、既に古墳時代に大きな堰が存在しているということから、開発が進んでいて、土地所有権や水利権があらかた決定されてしまっていることが推定できます。

新たな水田開発余地はほとんどなかったと考えられます。

船尾白幡遺跡付近の旧版25000分の1地形図

それでも穂摘具が少数出土するということは、古墳時代に開発できなかった劣悪地(谷津の中央部水害常襲ゾーンなど)に開発余地が残されていたのだとおもいます。

船尾白幡遺跡付近の古代空間イメージは次のように表現することができ、当時の既存集落は水運業務や水田耕作を担い、新規開発地は牧業務、養蚕業務、漆業務、麻業務などを担っていて、沖積地と台地のそれぞれの特性を生かして、生業面においても棲み分けしていたと考えます。

船尾白幡遺跡付近空間イメージ

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