花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.336 参考 鳴神山遺跡 穂摘具
船尾白幡遺跡では穂摘具が3点出土し、鎌出土点数(13点)と比べて少なく、生業に占める水田耕作の意義の大きさが小さいことを検討しました。
船尾白幡遺跡で生業に占める水田耕作の意義の小ささの理由は、そもそも船尾白幡遺跡が台地開発のために建設された新規開発地であると考えたからです。
当時水田開発は既存集落住民によって開発が進んでいて、新規開発の余地は少なかったと考えました。
このような状況は船尾白幡遺跡よりもさらに印旛浦から遠ざかる鳴神山遺跡ではもっと顕著であるので、参考までに情報を紹介します。
鳴神山遺跡出土穂摘具は1点だけです。
その出土場所を次に示します。
鳴神山遺跡及び船尾白幡遺跡 穂摘具出土状況
鳴神山遺跡では戸神川谷津の水田耕作と関係があると推定できる位置の竪穴住居から穂摘具が出土しています。
鳴神山遺跡の竪穴住居数は202ですから、鳴神山遺跡集落の生業において水田耕作の占める割合は大変少ないといえます。
穂摘具出土竪穴住居(I007)からは土錘が3点出土していますから戸神川で釣りや網漁もしていて、低地との関わりみられます。また墨書文字「山本山本」が出土しているので、水田開発の胴元だったのかもしれません。
しかし、穂摘具出土1点という数値は、戸神川谷津の水田開発は古墳時代に既存集落によって進展してしまっていて、8世紀9世紀の開発地新住民が水田耕作に関わることはまれであったことを物語っています。
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鳴神山遺跡検討の際に穂積具の紹介をしませんでしたので、この記事で紹介しました。
鳴神山遺跡検討の際には、穂積具は1点しか出土しないので、情報として軽視し、興味対象から外れました。
しかし今になると、たった1点しか出土しないという情報に大いに意味があることが判りました。
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