大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居廃絶時の祭壇跡か
2017.04.18記事「複数竪穴住居の関連性検討」でJ50、J68竪穴住居の関連性を検討し、その中で柱穴分類図を作成しました。
その柱穴分類図をみると主柱穴、壁柱穴とは考えられない柱穴が存在していて、発掘調査報告書では説明されていないことがわかりました。
その説明の無い柱穴の分布をよくみると竪穴住居廃絶時の祭壇跡であるという仮説が思い浮かびましたのでメモしておきます。
居住空間内の柱穴ですから居住している時に存在していたとは考えられにくいことから、廃絶時に柱が建てられたと考えることが妥当です。
また、竪穴住居から土器・石器・獣骨など祭祀に関わると考えられる遺物が出土していますから、その柱が祭祀に関わるものであると考えることが妥当です。
次に説明の無い柱穴を結んで、祭壇の様子を復元してみました。
祭壇イメージの復元
祭壇が北方向を拝むような配置になっている様子として復元できました。
この図を北を上に方位を揃えてみると、復元祭壇が北方向を拝めるようになっているだけでなく、そもそも竪穴住居の主柱設置の際に北方向を意識している様子も感じられました。
さらに、説明の無い柱穴が新段階主柱穴の位置に規制されているので、祭壇は建物が存在していた時(上物が存在していたとき)、その室内に設置されたことが判りました。
祭壇検討図
北方向を意識して竪穴住居を建設し、北方向に向かって拝む祭壇をつくることから、北極星に関する信仰が存在していたことが想定できます。
旧石器時代から北極星が人の移動の目安となり、信仰の対象になっていたことは想像に難くありませんから、縄文時代前期後葉社会でも北極星信仰があり、人の送り祭祀での拝む方向が北であったのだと思います。
祭壇の様子を空想すると次のようになります。
空想 祭壇
(写真説明「(北東から)」は間違っています。南東からです。)
縄文人の祭壇の姿が時代を経てアイヌの祭壇に、いろいろな改変や修飾が加わわりつつ、伝わっていると想像します。
J50竪穴住居で観察できた事柄が他の竪穴住居でも観察できるか、今後検討を深めることにします。
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