2017年2月11日土曜日

上谷遺跡関係全記事のpdf作成

自分自身の作業用にブログ花見川流域を歩くに掲載した上谷遺跡関連記事の集成版pdfを作成しましたので、参考までに公開します。

記事数は89です。

目次から記事に跳べます。

上谷遺跡関連記事集成 pdf(13M)

上谷遺跡関連記事集成の画面

上谷遺跡関連記事集成の画面
自分の4画面環境で利用する時の画面(サムネイルで読むときの画面)

2017年2月10日金曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代早期前葉 追補

2017.02.09記事「千葉県の貝塚学習 縄文時代早期前葉」でその時代の貝塚がなぜ残っているのかという素朴な疑問をメモしました。

その素朴な疑問に答える資料を見つけましたのでメモしておきます。

次の図は利根川下流域の沖積層基底地形を表現している地図です。

利根川下流部沖積層基底図
貝塚爽平他「日本の地形4 関東・伊豆小笠原」(東京大学出版会)から引用

この地図に縄文時代早期前葉の貝塚と-30m等深線を記入すると次のようになります。

仮に-30等深線の位置に海があった時の貝塚と海との関係図

仮に海面の高さが-30mにあった時、鴇崎遺跡は大須賀川の谷に入り込んだ海のすぐ近くに位置します。

現在の台地上に縄文早期前葉の貝塚が存在していることと、海面の高さが-30mであったことと平仄が合う(整合する)関係を理解することができます。

初学の者の疑問はひとまず解消できました。


2017年2月9日木曜日

千葉県の貝塚学習 縄文時代早期前葉

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項の学習をしています。

この記事では縄文時代早期前葉の学習をします。

1 図書の記述

図書では次の貝塚分布図と説明文が示されています。

縄文時代Ⅰa期(早期前葉・撚糸文期) 貝塚分布図

説明文の概要
・貝塚は約9000年前のⅠa期に現れた。
・遺跡は古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に集中している。この時期としては竪穴住居跡の検出例も多い。
・この付近に遺跡が集中するのは、旧石器時代末から続く傾向といえる。
・一方、最古の貝塚として知られる西之城貝塚と、やや遅れて現れた佐原市鴇崎貝塚は、いちはやく海水が浸入古鬼怒湾の湾奥部付近に形成されたものであろう。
・鴇崎貝塚では汽水域(海水と淡水の混じった水域)のヤマトシジミが主体となるが、ハマグリ・マガキ・アカニシの大きな個体も数多く混じる。味のよい貝種の大きな個体を選んで採取した可能性が高い。
・獣骨や魚骨もかなり多い。
・この時期の貝塚は、縄文時代の定住生活の開始を象徴するものとして評価されている。

2 疑問・興味
2-1 縄文海進以前の貝塚がなぜ現存しているのか?
約9000年前の海面が現在より低かった時代の貝塚が、なぜ現在の地表面に存在しているのかという素朴な疑問が生まれます。

9000年前の海岸線の東京湾付近の姿は次の図に示されています。

縄文早期の海岸線

東京湾側では現在の台地からみて9000年前の海岸線は高度的、距離的に離れていてその当時の貝塚は現在の台地には存在していなかったと理解します。

一方、西之城貝塚や鴇崎貝塚がなぜ現存しているのか、その理由を調べたいと思います。

次のような理由があるのかもしれないと想像します。
・海面上昇速度と同等程度の地殻上昇があった。
・貝塚形成された位置が海面より特段に高かった。
・撚糸文土器が出土しているが、貝塚形成時代は撚糸文土器期の中でも新しい時代のものである。

文献を読んだり、専門家のご意見を聞けばある程度の理由は判ると思います。

現時点では、想像に想像を重ねれば、最終氷河期の古鬼怒湾の谷は東京湾の谷よりはるかに急峻であったことが関係していると考えます。

つまり、海面上昇が始まった初期には、現在台地端と海岸線までの直線距離は東京湾と比べて古鬼怒湾の方がはるかに近いので、高度差は同じでも古鬼怒湾の方が東京湾より海漁に出やすかったと思います。

台地狩猟を生業とする人々の一部が台地の端に活動域を移し、急峻な谷底に浸入した海域まではるばる降りて海漁を行い、収穫物を全部台地まで運んだのだと想像します。

2-2 (貝塚以外の)遺跡がなぜ特定域に集中するのか?

古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に遺跡が集中していることに強い興味が湧きます。

次の図は旧石器時代遺跡分布図です。

旧石器時代遺跡分布図

確かに旧石器時代にも古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に遺跡が集中していますが、旧石器時代には別の場所…村田川流域とか市川市付近など…にも遺跡集中域があります。

縄文時代早期前葉に古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近に遺跡が集中した理由について学習を深めたいと考えます。

現時点では次のような想像をメモしておきます。

旧石器時代遺跡分布図は海の影響がゼロの時代の狩猟好適場所分布図であると考えます。

縄文時代早期前葉になると台地狩猟民の生活と海漁が切り離すことができないほどの関係になり、台地狩猟民が距離的に近い場所にある急峻な谷底の海に時々出て漁をしたのではないかと空想します。

古鬼怒湾水系と九十九里水系の分水嶺付近から台地開析谷底を下りて、はるか下に存在する古鬼怒湾や九十九里の海(現在はともに埋没)に出て漁を行うことがあり、その漁に出やすい場所でもあった陸域狩猟好適地が主な活動拠点となり、遺跡集中域になったのではないかと空想しておきます。

遺跡集中域には貝塚は無いけれども、海との関係があるに違いないという空想です。




2017年2月8日水曜日

千葉県の貝塚学習 時期対応

大膳野南貝塚発掘調査報告書の学習をするための基礎知識習得のために「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項を学習します。

1 全国標準時期区分と千葉県現場における時期区分の対応関係

この図書には次の縄文時代の時期区分(表)と8枚の貝塚分布図が掲載されていています。

縄文時代の時期区分
「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

8枚の貝塚分布図
(図書では6ページにわたって掲載されている図を引用者が1つの画像に編集)
「千葉県の歴史 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

表「縄文時代の時期区分」は千葉県の縄文時代遺跡全てを見渡して総合考察した結果であると考えられます。

全国との対比で表の左端に草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の区分がありますが、千葉県縄文時代遺跡から読み取れる「大きな変化・画期」から区分される時期はⅠ期~Ⅷ期ということになります。

縄文時代の全国標準時期区分と考える草創期~晩期区分と、千葉県現場における時期区分Ⅰ期~Ⅷ期とは1:1では対応しませんので、詳しい対応は土器形式レベルで行うことになります。

つまり否が応でも土器形式に関する知識が無ければ縄文時代の時期区分つまり縄文時代内部のでの時期的感覚、時間感覚を持つことは不可能であることを理解しました。

これまであまりに専門的過ぎて敬遠していた土器形式について、今後泥縄式になりますが学習を始めることにします。

2 大膳野南貝塚発掘調査報告書の記述時期区分と貝塚分布図との対応

大膳野南貝塚発掘調査報告書の記述時期区分と貝塚分布図(Ⅰ期~Ⅷ期区分)の対応関係を図解で整理しました。

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の縄文時代時期区分別記述と「千葉県の歴史」時期区分、貝塚分布図、古地理の略対応

大膳野南貝塚発掘調査報告書の記述を理解するために千葉県の貝塚について学習するのですが、そのためには発掘調査報告書の時期記述単位と全国標準時期区分と千葉県現場時期区分(Ⅰ期~Ⅷ期区分)の3つの時期単位を対照させる必要があります。

その3つの対照を可能にする指標が土器形式ということになります。

土器形式変遷の基礎知識が無ければ学習の進展は望めないことを思い知らされます。

次の記事から千葉県貝塚分布図の学習考察を行います。

2017年2月7日火曜日

大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代後期

大膳野南貝塚の遺構分布を通しで概観してみて、自分なりの遺跡イメージを構築しようとしています。

この記事では縄文時代中期末葉~後期中葉の遺構分布を概観してみます。

なお、この前の時期(縄文時代前期末葉~中期後葉)は土器は出土していますが、遺構は出土していません。

次に、竪穴住居祉、土坑、北・南・西貝層、地点貝層の分布図を示します。

大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 竪穴住居祉分布図

この分布図を概観する限りでは竪穴住居の分布は北・南貝層付近で密であり、全体として2重環状分布のように見えます。

この情報に土器形式情報をオーバーレイして時代変化などについて分析学習したいと思います。

大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 土坑分布図

土坑分布も2重環状分布しているように観察できます。

また列状の分布している場所が各所に見られます。

恐らく詳しく分析すれば竪穴住居と土坑との対応関係をどこかのレベルで知ることができるような予感のする分布です。

大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 北・南・西貝層分布図

メインの貝塚を形成する貝層は3か所に分かれて分布していて、竪穴住居・土坑の2重環状分布の外側環状と一致します。

発掘調査報告書では貝層は弥生時代以降の改変により現在の姿になり、もともとは環状をしていたと記述されています。

しかし、後世の開発により削られたと発掘調査報告書が想定していると考えられる場所は台地中央部であり、場所の地勢からして、その場所にもともと貝塚があったとは考えずらく、発掘調査報告書の記述に違和感を持ちますので、学習において検証したいと考えます。
大膳野南貝塚 縄文時代中期末葉~後期中葉 地点貝層分布図

地点貝塚の分布は外環状をきれいに示すように観察できます。

発掘調査報告書ではこの他に、漆喰使用遺構分布図、人骨検出遺構分布図もありますが、本学習の中で検討します。
  

2017年2月6日月曜日

大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代前期後葉

大膳野南貝塚発掘調査報告書で作成されている遺構分布図を通しで見てみて、自分なりに遺跡概要のイメージを深めようとしています。

2017.02.05記事「大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代早期」では「草創期~前期中葉の遺構と遺物」で掲載されている縄文時代早期遺構分布図を概観しました。

なお、記事掲載後発掘調査報告書の「まとめ」を読むと、旧石器時代、前期後葉の記述はあるのですが、その中間の「草創期~前期中葉」記述がないことに気が付きました。

「まとめ」に「草創期~前期中葉」の記述がないことに、どのような背景があるのか、一般人には理解不能ですので、記録しておきます。

この記事では「前期後葉の遣構と遺物」で掲載されている遺構分布図を概観します。

大膳野南貝塚 縄文時代前期後葉 遺構分布図

竪穴住居祉16軒と土坑113基の分布図が示されています。

発掘調査報告書のまとめでは、竪穴住居祉土坑を合わせた分布が略環状になっていて、それがその時期の集落構造を表しているという分析を行っています。

発掘調査報告書ではサンプル調査した全ての土坑からオニグルミ核が出土していて、土坑は貯蔵庫であると推定しています。

またこの集落の土坑墓は西方隣接遺跡のバクチ穴遺跡にあるのではないかと推定しています。

遺構位置をGISで全てプロットしたので、今後発掘調査報告書記載情報を遺構別に整理して、GIS空間分析をいろいろと試みたいと思っています。

縄文時代草創期~前期中葉までは、遺構分布から大膳野南貝塚遺跡空間は狩場であったと考えることができますが、前期後葉には居住空間(集落空間)に変化したことを理解できました。

また貝層と獣骨の出土がありますから、この時期から海の幸と山の幸の双方を利用していたことが判明します。

この集落の縄文人の狩場はこの集落内でないことは明白になりましたから、どこを狩場にしていたか?、つきとめなければなりません。

また生活における海の幸利用割合がどの程度であったのか、次の時期(貝塚形成期)と比べみたくなります。

今後詳しい検討を行います。



2017年2月5日日曜日

大膳野南貝塚 遺構分布概要 縄文時代早期

大膳野南貝塚発掘調査報告書で作成されている遺構分布図を通しで見てみて、自分なりに遺跡概要のイメージを深めつつあります。

詳しい分析的検討の前に全体像を見てみます。

この記事では「1草創期~前期中葉の遺構と遺物」で掲載されている縄文時代早期遺構分布図を概観して自分なりの問題意識、検討課題を整理してメモしました。

1 遺構の位置データ取得

縄文時代早期遺構分布図をGISにプロット(貼り付け)し、その画面で遺構別(炉穴、陥し穴別)にその位置をプロットしたレイヤを作成しました。

大膳野南貝塚 縄文時代草創期~前期中葉 遺構分布図のGISプロットと遺構位置データ取得

この作業の後、遺構別レイヤをcsv形式で出力すると、位置データを取得できます。


陥し穴レイヤのcsv出力結果

このcsvファイルをExcelに読み込み、陥し穴番号毎にデータを記入すれば、そのデータの分布図をGIS上で作成することができます。

今回の学習で行うGIS分析の最も基本的作業となります。

2 炉穴分布図

大膳野南貝塚 縄文時代草創期~前期中葉 炉穴分布図

7か所の炉穴が分布しますが、平坦面中央付近の2つの炉穴と斜面に分布する3つの炉穴の違いが気になります。

とりあえず、これまでの旧石器時代学習等の印象から次のような作業仮説を設け、詳しい検討における使い捨ての道具としたいと思います。

【作業仮説】

平坦面中央の炉穴(2カ所)

平坦面中央の炉穴は少なくとも、そのそばに分布する陥し穴を使った狩と両立しないことは確かです。

旧石器時代のブロックは平坦面中央から出土してます。

旧石器時代の狩は動物を追いかけ台地面から崖に落とし、狩ったと考えます。

狩の後(活動の区切りがついた後)、台地面で食料が続く限りキャンプしたと考えます。

このように考えると、平坦面中央の炉穴は旧石器時代と同じように崖を使った狩を行った縄文人のキャンプ跡であり、時代的に斜面の炉穴より古いものであると考えます。

斜面の炉穴(5カ所)

斜面の炉穴は平坦面に分布する陥し穴と両立できる関係にあると思います。

動物を追って陥し穴に落とすという狩場(狩施設のある空間)から離れ、かつ、地形上(高度上)動物から見えない位置にあります。

斜面の炉穴は陥し穴を使った縄文人のキャンプ地であり、それ以前の地形(崖)だけを使った狩より新しい時代の進化した狩形式であると考えます。

2 陥し穴分布図

大膳野南貝塚 縄文時代草創期~前期中葉 陥し穴分布図

陥し穴が平坦面と斜面の双方の分布していることが気になります。

平坦面の陥し穴と斜面の陥し穴ではその狩方法が違うのではないだろうかと考えます。

陥し穴は細長い形式のものが多いのですが、その長軸方向を見ると特定方向のものが平坦面に群として分布しています。

特定の方向性を備える陥し穴群

特定の方向は、動物を追ってきて、障害物等で陥し穴に動物を追い詰めていた活動の方向性を示していると考えることができます。

つまりこの付近の台地中央部から南南西の方向に動物を追ってきて、狭まった台地平坦面(大膳野南貝塚遺跡付近)に陥し穴施設を設けておき、そこで仕留めたのだと思います。

旧石器時代には崖から落として仕留めていたのですが、縄文時代になると陥し穴という狩施設を設けるという進歩があったのだと思います。

同時に、特定の方向性は陥し穴の利用がアクティブな活動を物語っています。

たまたま通る動物が落ちるという趣旨ではなく、追ってきた動物を仕留める場という意味が長軸の方向性から読み取ることができます。

なお、群として陥し穴があるのですが、それぞれ別の時間に別の人々によって利用されたものであると予想します。

施設として陥し穴群(列)を作った例の学習は千葉市内野第1遺跡で行ったことがあります。

ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.20記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代大規模落し穴シカ猟」など

参考 千葉市内野第1遺跡の土壙列(落とし穴列)の工夫の相違
新旧土壙列の狩における工夫の相違を説明した図



次の記事では縄文時代前期後葉の遺構分布について概観してみます。

2017年2月4日土曜日

大膳野南貝塚 土器形式から見た遺跡概要

大膳野南貝塚の出土土器形式リストを作成しましたので、これを使って遺跡概要をざっと眺めてみました。

発掘調査報告書における各時期別概要記述引用、出土土器形式一覧リスト、土器例を並べてみて、遺跡に関する自分のイメージを少し具体的にしました。

1 草創期~前期中葉の遺構と遺物

発掘調査報告書記述
……………………………………………………………………
本時期に属する遺構は、炉穴7基と陥し穴33基であった。

炉穴からは野島式や茅山下層式、早期後半条痕文土器が検出されており、早期後半の所産と推定される。

陥し穴は遺物が検出されておらず詳細な時期は不明で、覆土や出土遺物から早期~前期という時期幅でしか捉えられなかった。

出土遺物は、井草式から黒浜式までの各型式にわたる土器が出土したが、早期後半条痕文土器と前期中葉黒浜式土器がまとまっている他は極わずかな出土量であった。
……………………………………………………………………

土器形式一覧(草創期~前期中葉)

黒浜式土器の例

2 前期後葉の遣構と遺物

発掘調査報告書の記述
……………………………………………………………………
検出された遺構は、竪穴住居趾16軒と土坑113基で、台地平坦面に広く分布する。

土坑群は主に調査区南西部に集中的に分布し、これを取り囲むような形で竪穴住居趾群が検出されている。

住居の分布範囲がやや散漫ではあるが、環状を呈する集落と考えられ、住居と土坑が場所を区別して構築されたものと推定される。

また、遺構から検出された土器は、諸磯b式ないしは浮島1~Ⅱ期にほぼ限定されることから、短期間に営まれた集落趾と考えられる。

出土した遺物は、土器、土製品、石器、石製品、獣骨、貝類で、総量は中テン箱にして約90箱を数える。
……………………………………………………………………

土器形式一覧(前期後葉)

諸磯b式土器の例

3 前期末葉~中期後葉の遺物

発掘調査報告書の記述
……………………………………………………………………
前期末葉では諸磯c式、十三菩提式、興津式、そして前期末葉から中期初頭にかけての東関東に見られる縄文を多用した土器群が出土している。

また、大木5式土器がわずかであるが出土した。

中期では、五領ヶ台式から加曽利E3式までの土器が出土し、調査区全体で68点を数える。

いずれも遺構外からの出土である。各型式とも出土量は少量であった。
……………………………………………………………………

土器形式一覧(前期末葉~中期後葉)

中峠式土器の例

4 中期末葉~後期中葉の遺構と遺物

発掘調査報告書の記述
……………………………………………………………………
大膳野南貝塚は後期初頭称名寺式期から前葉堀之内式期にわたる貝塚で、とくに堀之内1式期を最盛期とする。

貝の分布密度からみると、大きく3ヵ所の貝層(北貝層、南貝層、西貝層)として把握されるが、古墳時代以降の土地改変等を考慮に入れると、元来は環状に近い形状を呈する貝塚であった可能性が想定される。

環状貝塚と考えた場合の貝塚の規模は直径80m前後と推定される。

発見された遣構は、竪穴住居趾93軒、土坑墓1基、土坑264基、屋外漆喰炉8基、小児土器棺6基、単独埋甕12基、埋葬犬骨2体、鹿頭骨列1ヵ所などである。

検出された人骨は30体(住居内20体、土坑墓1体、土器棺6体、単独出土3体)を数える。

北・南・西貝層を除去した後に確認された貝層ブロックは大小160ヵ所を数え、このうち遺構に伴う貝層(地点貝塚)は78ヵ所(住居内26ヵ所、土坑内52ヵ所)である。

出土した遺物は土器、土製品、石器、骨角器、貝製品、人骨、獣骨、貝類などで、総量は中テン箱で約720箱を数える。

集落の成立時期は貝層が形成された時期より先行しており、中期末葉加曽利E4式期に属する住居が3軒検出されている。

続く後期初頭称名寺式期も小規模な集落が継続し、次段階の後期前葉堀之内式1式期に遺構数が爆発的に増えて集落の最盛期を迎える。

堀之内1式期の遺構群は南北貝層直下で密に分布している一方、中央平坦面では分布がやや希薄になっており、集落の形態は環状集落に分類される。

その後、堀之内2式期になると集落は縮小傾向となり、続く後期中葉加曽利B1~2式期では住居と土坑が散見されるのみとなる。

なお、加曽利B3式期以降に属する遺構は検出されていない。

特筆される発見としては、称名寺式~堀之内2式期の遺構で検出された「漆喰」があげられる。

一部の住居の貼床・炉趾および屋外炉などで検出された白色粘質土について分析を行った結果、生石灰(酸化カルシウム)を含有する方解石(炭酸カルシウム)が主成分であることが判明し、貝殻を素材として焼成→粉砕→加水の工程を経てペースト状にした「漆喰」と同様の物質であるとの所見が得られたものである。
……………………………………………………………………

土器形式一覧(中期末葉~後期中葉)

堀之内1式土器の例




2017年2月3日金曜日

大膳野南貝塚 出土土器形式リスト作成 

千葉県大膳野南貝塚発掘調査報告書の縄文時代記述部分を全ページめくって、記載されている出土土器形式をリストアップしてみました。

発掘調査報告書に記載されている出土土器形式
……………………………………………………………………
1 草創期~前期中葉の遺構と遺物
・条痕文土器
・無文土器
・野島式土器
・茅山下層式土器
・井草式土器
・田戸下層式土器
・茅山上層式土器
・花積下層式土器
・関山式土器
・黒浜式土器
・植房式土器
・釈迦堂Z3式土器
2 前期後葉の遺構と遺物
・諸磯a式土器
・諸磯b式土器
・浮島Ⅰ式土器
・浮島Ⅱ式土器
・浮島Ⅲ式土器
・北白川下層Ⅱ式土器
・釈迦堂Z3式土器
3 前期末葉~中期後葉の遺物
・諸磯c式土器
・十三菩提式土器
・興津式土器
・大木5式土器
・五領ヶ台式土器
・阿玉台式土器
・勝坂式土器
・中峠式土器
・加曽利E式土器
4 中期末葉~後期中葉の遺構と遺物
・称名寺古式土器
・称名寺式土器
・堀之内1式土器
・堀之内2式土器
・加曽利B1式土器
・加曽利B2式土器
・加曽利E4式土器
・無文土器
・三十稲葉式系土器
5 中期末葉~晩期末・弥生初頭の包含層・遺構外出土遺物
・称名寺式土器
・堀之内1式土器
・堀之内2式土器
・加曽利B1式土器
・加曽利B2式土器
・加曽利E4式土器

千葉県大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成
……………………………………………………………………

このリストと千葉県出土縄文時代時期区分別土器形式一覧表を略対応させると次のようになります。

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書で記述されている土器形式一覧
(4と5は重複しているので5の対応線は省略)

この対応表から土器に関しては早期、前期、中期、後期とほぼ切れ目なく土器形式が出土していて、大膳野南貝塚のある場所付近が縄文時代1万年を通じて絶えず人に使われていた可能性の強さを感じ取ることができました。

旧石器時代遺物が出土していて、また弥生初頭の遺物が出土しているので、この付近は旧石器時代から弥生時代まで継続して人に利用された土地であると考えられます。

縄文時代前期土坑から貝層が見つかっていますから、この時期には既に海漁をしていたことが証明されます。

縄文時代前期、中期にはこの場所が狩猟の場であったのか、生活の場であったのか、遺構・遺物から学習したいと考えています。

縄文時代後期にはこの場所が生活の場(集落の場)となり貝塚が作られました。遺構(竪穴住居)の数も急増しています。

縄文時代晩期から弥生時代にかけて貝塚を形成した集落がどのように、なぜ凋落したのかという点にも興味が湧きます。


今後の検討では遺跡内における時期別土器形式分布図を作成してみて、何か有用な情報を得られるかどか確かめたくなりました。


2017年2月1日水曜日

大膳野南貝塚 縄文時代時期区分

大膳野南貝塚発掘調査報告書は時代区分別に記述されていますので、縄文時代区分について基礎的な学習をしました。

1 縄文時代時期区分

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)では土器形式の変化を基礎にした縄文時代時期区分研究史を紹介しながら、小林達雄の提唱した草創期、早期、前期、中期、後期、晩期という6時期区分を採用して記述しています。

縄文土器の移り変わり
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

縄文時代の時期区分案
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

縄文時代上限の案
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

縄文時代の時期区分と絶対年代の対応については精度の高い情報が得られていない様子が述べられています。

縄文時代と測定値等
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)から引用

2 縄文時代時期区分の概要

「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項に説明書きのある縄文時代時期区分表が有りますの、この表により縄文時代の概要をイメージすることができます。

千葉県の縄文時代遺跡全体を俯瞰できる大変便利な表です。

縄文時代の時期区分
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

3 縄文時代時期区分と古地理との関係

「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の貝塚の項には古地理図も掲載されていますので、時期区分表と古地理図の対応図をつくってみました。

縄文時代時期区分と古地理との対応

この対応図で千葉県縄文時代の概要を把握することができるようになりました。

草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の大まかなイメージを持てるようになりました。

4 千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の記述区分と時期区分の対応

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書は幅を持たせた時期別に記述していますので、その記述区分と時期区分との対応表を作成しました。

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書の縄文時代時期区分別記述と一般時期区分との略対応

この対応表により発掘調査報告書の記述区分の時期イメージを大まかに持つことができます。

今後の発掘調査報告書内容学習で何度もふりかえる表になると思います。