2016年11月12日土曜日

上谷遺跡 竪穴住居覆土層出土遺物は廃棄物か?

上谷遺跡の竪穴住居の覆土層から墨書土器や鉄製品などが多量に出土する例があります。

上谷遺跡に限らず、これまで検討してきた萱田遺跡群、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡などでも状況は同じです。

竪穴住居覆土層から出土する遺物について、上谷遺跡発掘調査報告書では「廃棄」されたものとして記述され、発掘調査担当者の方は遺物はゴミであったと考えているようです。

しかし、本当にゴミであったのか疑問をもっていますので、発掘情報を子細に分析することによってゴミであるのか、祭祀のお供え物であるのか、あるいは別の性格のものであるのか試行錯誤しながら、学習(検討)を深めたいと思っています。

この記事では、発掘調査報告書に掲載されている遺物出土分布図を子細に分析することが意味があるかどうか、予察してみました。

予察分析の対象は被熱ピットが存在していて、かつ遺物出土数が最も多いA102a竪穴住居としました。

次の図は発掘調査報告書の遺物出土分布図を土器、鉄製品、石製品別に色分けしたものです。


A102a竪穴住居 遺物分布図

この図では番号や指示線が多くて分布の様子を直観的に捉えがたいので、それらの不用物を全部取り除いて、分布が生で見れるようにしてみました。

A102a竪穴住居 遺物分布図 2

まず、全体の平面分布をみると竪穴住居境界付近に比較的密に分布し、中央部には少ないことがわかります。

確実に言えることは竪穴住居の中央部に密であるという分布でないことは確実であるということです。

今後詳しく検討しますが、竪穴住居跡が穴であり、そこが「ゴミ捨て場」であるとすれば、ゴミは投げ込まれ、竪穴住居跡中央部ほどゴミが密になると考えられます。

従って、平面分布から出土物は単純にゴミとして穴に投げ込まれたのではないと言えそうです。

さらに鉄製品の分布をみると、より明瞭に竪穴住居跡の周辺部に密になっています。

「投げた」「置いた」「埋めた」かという行為は別として、手に持った鉄製品を足元近くの竪穴住居跡に移動させたのです。

鉄製品が不要になったからといって、穴中央めがけて捨てたのでないことは、この分布からわかります。

なお断面図をみると、出入り口ピットの底に鉄製品が出土します。これは完形紡錘車です。

また床面に石製品の出土があります。これも完形紡錘車です。

これらはゴミでないことは確実です。

意図をもって使える道具(紡錘車)を置いた(埋めた)ことが推察できます。


A102a竪穴住居 墨書土器「得、万」分布図

土器のうち、墨書土器「得、得ヵ」と「万、大万」を色分けして示してみました。

平面分布は住居跡周辺部に多くなっています。

また断面をみると、「万、大万」の出土層位が「得、得ヵ」より高いところにあり、二つの文字がここに置かれた年代に差があるように読み取れます。

祈願文字として「得」を使った集団も、「万」を使った集団も墨書土器片を同じように住居跡周辺部に置いていますから、土器片をこの住居跡に置いた心性は同じで、ゴミとして投げ込んだのでないと考えられます。


以上、予察的に遺物出土データを分析しましたが、そのデータから遺物がゴミとして捨てられたものか、それとも祭祀のお供え物か、あるはい別の性格があるのか、その検討に有益な情報を提供してもらえる可能性を感じ取ることができました。

今後本格的に検討してみたいと思います。

2016年11月11日金曜日

遺跡全体を見渡すGIS式学習の効果

上谷遺跡の発掘調査報告書は次の6冊が刊行完結しています。

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊-」(2001、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊本文編-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

これら6冊は発掘区域の年次別に順次発行されたものです。

これら6冊の情報を通しでまとめたもの、あるいは考察した成果はありません。

このような発掘調査特性を備える上谷遺跡の学習をGISを使って進めていて、学習に遺跡全体を見渡す効果があることに気が付きました。

被熱ピットのある竪穴住居の検討を2016.11.08記事「上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居の紙上観察」で行いました。

この検討(学習)で、被熱ピットのある竪穴住居は小鍛冶遺構であるという想定を行いました。

発掘調査報告書の記載を詳しく検討(学習)した結果を記事にしたのです。

ふりかえって、発掘調査報告書の記載を再確認すると、次ようになります。

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居 発掘調査の順番と記載の特徴

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居 発掘調査の順番と特徴的記載のある竪穴住居の位置


発掘調査の最初の段階では被熱ピットを用途不明としています。

発掘調査の途中段階では被熱ピットについて「火の使用」という言葉で小鍛冶をほのめかす記載をしています。

発掘調査の最終段階では被熱ピットについて小鍛冶を想定しています。

私の学習では小鍛冶遺構としての被熱ピットを当初発掘作業では用途不明とし、出土例が増えるに従って小鍛冶遺構であるとことを疑い、最終的には小鍛冶遺構として想定したという現場担当者の認識変化があったのではないかと想像します。

発掘調査報告書が6分冊であり、そのまとめ編が存在しないという遺跡では、遺跡・遺物をGISにプロットして、空間的に遺跡全体を見渡して行う学習の効果が大あると感じました。

被熱ピット(小鍛冶)に限らず、すべての遺構・遺物に関する諸事象についても、遺跡全体を空間的に見渡してみるというGIS式学習方法が大きな意義をもっていると感じます。



2016年11月9日水曜日

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居からの出土物の多さ

上谷遺跡に存在する17の被熱ピットのある竪穴住居は鍛冶遺構であると想定しています。

その17竪穴住居からの遺物出土量が多いので検討しておきます。

金属製品の出土数を遺構別にみると次のようになります。

上谷遺跡 被熱ピット出土竪穴住居の金属製品出土数

平均値でみると被熱ピットがある竪穴住居は全体の値の約2.4倍となります。

墨書土器の出土数を遺構別にみると次のようになります。

上谷遺跡 被熱ピット出土竪穴住居の墨書土器出土数

平均値でみると被熱ピットのある竪穴住居は全体の約3.5倍となります。

被熱ピットのある竪穴住居は鉄器修繕の場であり、その場は同時に商品としての鉄器流通の場であり、鉄器修繕リサイクル技術が存在する場であり、さらには木炭生産を指揮管理する場であったとも考えます。

従って、被熱ピットのある竪穴住居で小鍛冶活動を行っていたのは集落の上層部、指導層に属する家族であったと考えます。

被熱ピットのある竪穴住居が廃絶したということは集落上層部、指導層の人間が死んだ(一家を継ぐ者がいなくなった)ことを意味します。

ですから、その住居跡(穴としての空間)で死んだ人やその人が果たした役割をしのぶ祭祀が関係者によって繰り返し行われ、そのとき金属製品や墨書土器がお供え物として置かれた(埋められた、投げられた)と考えます。

発掘調査報告書では覆土層から出土する遺物を祭祀に関わるものとは見立てておらず、ゴミ捨て場のゴミのような想定をしていますが、発掘情報を子細に分析すればそのような見方(ゴミ)は根拠のない思い込みであることが判明すると考えています。

墨書土器をわざわざ割って竪穴住居跡に置く、貴重な鉄製品等を(壊れたものであるとはいえリサイクル可能にもかかわらず)わざわざ竪穴住居跡に置く、竪穴住居跡で東京湾からわざわざ取り寄せた貴重な貝を食べその貝殻を残すことなど、出土物自体が祭祀のあったことを物語っています。

参考 上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

2016年11月8日火曜日

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居の紙上観察

2016.10.28記事「資料精査による鍛冶関連情報再ピックアップ」で被熱ピット等のある竪穴住居をピックアップして、鍛冶関連遺構の可能性を検討しました。

この被熱ピット等のある竪穴住居を詳しく紙上観察してみました。

発掘調査報告書による記述と平面図は次の通りです。

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居(平面図) 1

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居(平面図) 2

発掘調査報告書ではA188について「火の使用」に注目していて、A242では小鍛冶を想定しています。

A188もA142も浅い被熱ピットです。

同様の浅い被熱ピットは別に11箇所の竪穴住居から出土しています。(上図で赤字記述)

住居中央部に存在する浅い被熱ピットは鉄器修繕のための小鍛冶場跡と考えて大きな間違いはないと思います。

浅い被熱ピットではない被熱ピットもおそらく鞴の使い方が異なる別タイプの小鍛冶場であると想像します。

しかし不確かさが増す想像となります。

浅い被熱ピットは鞴送風を炭の上からおこなうタイプ、穴を掘った被熱ピットは鞴羽口を土に埋め込み、炭の下から送風するタイプと空想しています。

被熱ピットのある竪穴住居の分布図を見ると、浅い被熱ピットのある竪穴住居の分布が2カ所に分かれるように分布していて竪穴住居や掘立柱建物の分布密集と対応します。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

浅い被熱ピットのある竪穴住居はほぼ小鍛冶場であると考えて間違いないと思いますが、この分布図には恐らく8世紀初頭頃~10世紀初頭頃の200年間ぐらい(*)の遺構が全部プロットされているので、ある時間断面をとれば平均して1/6の2カ所程度の小鍛冶場が稼働していたのかもしれません。

*近隣の萱田遺跡群の例から類推(2016.11.09追記)
2016.02.11記事「鳴神山遺跡と萱田遺跡群の出土土器数比較」掲載図「萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分」参照

2016年11月1日火曜日

上谷遺跡 多数の「不用材焼却竪穴住居」の真相

上谷遺跡を検討している最中の感想です。

上谷遺跡の竪穴住居には、覆土層の最下部に焼土層があり、床面に焼けた木材が直接載っているものが多数あります。

発掘調査報告書ではこれらの遺構について「不用材を焼却した」という記述で統一記載されています。

「不用材の焼却」は存在せず、廃絶後ただちに埋められと考えられる竪穴住居も多数あります。

ですから、「不用材の焼却」は必ず行われる住居廃絶時イベントでないことははっきりしています。

なにか理由があって「不用材の焼却」をしたものと考えます。

「不用材の焼却」はその現場写真が掲載されていないので、もちろん発掘現場も見ていないので、自分としてはなんで「不用材」と呼んでいるのか、確実なことは言えません。

しかし、竪穴住居が廃絶して直後の焼却ですから、もともとその場所に建てられていた住居そのものか、その一部の建材であると推察できます。

ここで疑問1が生じます。

発掘調査報告書では何故「不用材」を燃やしたと判断できたのでしょうか?

1 住居そのもの(全体)が不用になって廃絶したのだから、そこの住居の部材は「不用」になったのだから、「不用材」と呼んだ。

2 「不用」と判断できるような証拠が現場にあり(それは発掘調査報告書には当たり前すぎて記述されていないが)、有用←→不用の対比における不用の意味で「不用材」と判断している。

例1 有用と考えられるような太い部材は明らかに持ち出されていて、燃やされたのが転用部材にできないような細い部材などであることが明白である。

例2 住居部材ではない燃料用薪に類するような木材が持ち込まれ燃やされている。

次いで疑問2が生じます。

発掘調査報告書では「不用材」を燃やしたと記述していますが、この焼却はごみ処理をしたという想定を発掘者がしたことになります。

竪穴住居廃絶の時、ごみ処理の焼却が必要なら、ほとんど全ての竪穴住居に「不用材焼却」跡があってもよさそうなものですが、「不用材焼却」跡は限られています。

祭祀として木材(おそらく住居そのもの)を燃やしたという可能性がなぜ論じられないのか、疑問です。

材木を別の用途に転用することは奈良時代にあっては一般的であり、おそらく古代社会では「不用材」などは存在しなかったと考えます。

古代社会とは、一旦製材された木材は次々に使えなくなるまで転用されたリサイクル社会であったと考えます。

そのリサイクル社会で有用物の木材を燃料としてではなく、焚火のように気前よく燃やして消費すのですから、理由があるはずです。

その理由とは祭祀にかかわるものだと思われてしかたがありません。

もがりなどがあり、焼却は葬送と関係するのかもしれません。


疑問1と疑問2から上谷遺跡の多数の「不用材焼却竪穴住居」の真相を検討していきたいと思います。

覆土層最下部の「不用材焼却」層の意味が本当にごみ処理なのか、祭祀の結果であるのか判明させることの意義は大きなものがあると考えます。

その意味が判明すれば、覆土層の中部とか上部に存在する焼土層の意味解明にもつながります。

覆土層中部とか上部に存在する焼土層とその周辺から、多量の墨書土器、鉄器などの遺物が出土することがかなりあります。貝層が出土することもあります。

これらの焼土と遺物がごみ処理跡なのか、祭祀跡なのか、「不用材焼却」跡の意義がわかればそれに連動してわかる可能性が高まります。


これまで、発掘調査報告書全6冊を何度も(奈良平安時代編だけですが)読み直してきて、ごみ処理としての焼却か、それとも祭祀としての焼却かは発掘情報を子細に検討すれば、さらに一定の統計処理をすれば、識別できるに違いないという感触を、素人考えですが、持ち始めています。

発掘調査報告書には出土物や覆土層別などの微細情報が平面的、断面的に満載されていて、それらの分析はおそらくだれも行っていないので、その価値をまだだれも知りません。

多量の炭化材が床面上から出土した「不用材焼却」竪穴住居の記載例 A135竪穴住居

平面図中央付近アミが焼土層 この住居の消火用覆土から鉄滓が出土している。

2016年10月28日金曜日

資料精査による鍛冶関連情報再ピックアップ

このブログでは現在、上谷遺跡の鍛冶関連遺物・遺構の検討(学習)をしています。

検討を進めるに従い発掘調査報告書精査の必要性に気が付き、鍛冶関連情報について発掘調査報告書全6冊について詳しく読み直しました。

鍛冶関連遺物情報が(鍛冶に限らず他の対象も全てですが)遺物観察表やスケッチに掲載されているとは限らず、文章中に単に「多くの鉄滓が出土した」などとさらりと書かれている場合もあるからです。

また、鍛冶関連遺物が出土しないけれども鍛冶行為が疑われる被熱ピット等が存在する遺構についてはこれまで詳しく調べてこなかったからです。

1 鞴羽口・鉄滓出土遺構

発掘調査報告書精査の結果、次の15個所の遺構から鞴羽口あるいは鉄滓出土情報を確認しました。

上谷遺跡 鞴羽口・鉄滓出土遺構

遺構種類別にみると、竪穴住居11カ所、掘立柱建物2カ所、土坑2カ所の内訳になります。

遺跡区域の北端部には出土しません。

遺跡区域の南部に出土が密であるような分布となっています。

なお当初調査では次の8遺構の情報でしたから2倍近く情報が増えたことになります。

参考 2016.10.09記事「上谷遺跡 鍛冶関連出土物」掲載 上谷遺跡 鞴羽口、鉄滓出土遺構

2 被熱ピット等のある竪穴住居

被熱ピット等のある竪穴住居をピックアップしました。

なお、「不用材を焼却した」と発掘調査報告書で書かれている竪穴住居が多数あります。遺構の床面上の覆土層に焼土がある遺構です。

このような覆土層(たとえその最下部でも)に焼土層があるものは、別に被熱ピット等が無ければ、それだけでは「被熱ピット等のある竪穴住居」には含めていません。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

遺跡区域北端部を除き、ほぼ全域から17ケ所ピックアップできました。

これらの被熱ピット等のある竪穴住居がほんとうに鍛冶遺構であるかどか、これからの検討課題となります。

この17遺構のうち次の2遺構はすでに検討しています。

A133竪穴住居 2016.10.24記事「上谷遺跡 鍛冶遺構を疑う竪穴住居

A102a竪穴住居 2016.10.10記事「上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討

なお、17遺構のうち次の2遺構は発掘調査報告書の記述の中で鍛冶行為の存在を疑っています。

A188竪穴住居(火床状赤化ピット、鉄滓出土、本来の使用目的が「火の使用」)

A242竪穴住居(鉄滓と強い火熱痕、小鍛冶想定)


掘立柱建物に関連して存在する被熱ピットは存在しないようです。

土坑で被熱しているものの検討は2016.09.21記事「上谷遺跡 被熱土坑」で行っていて、現状では鍛冶に関連しているものはないと考えています。


3 被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構のオーバーレイ

被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構のオーバーレイ図を作成しました。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構

考察

●被熱ピット等のある竪穴住居はそのほとんどが鍛冶遺構であると想定しますが、その検証が必要です。

●被熱ピットの様式が2つに分割できるような印象を持っています。(浅い被熱ピットと小さいがえぐられた焼土充填ピット)

この様式の違いが鍛冶様式の違いによるものかどうか検討が必要です。

●被熱ピット等のある竪穴住居と鉄滓等が一緒に出土している遺構は鍛冶遺構である可能性が一段と濃厚であると考えます。

したがって、その遺構状況を詳しく調べれば、その結果を被熱ピット等のある竪穴住居が鍛冶遺構であるかどうかの判断材料に使える可能性があると考えます。

●被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構が重なる割合が少ない理由を次のように考えます。

ア 鍛冶遺構であった竪穴住居が廃絶する時、他の竪穴住居と同じように、ほとんど全ての什器や道具を持ち出している。

イ 規模の大変小さな小鍛冶であり、もともと残るような遺物が少ない。

従って、アとイから、鍛冶遺構から鍛冶関連遺物が出土しにくいと考えます。

ウ 鞴羽口や鉄滓が一種の威信財のような記念物として扱われ、廃絶した竪穴住居で行われる祭祀の際に、その場所に墨書土器、鉄器などと同じようにお供え物として埋められた(置かれた、投げ込まれた)

従って、覆土層から出土している鞴羽口や鉄滓はほとんど全てお供え物であると考えます。(「流れ込んだ」という安易な考えに反対します。)




2016年10月26日水曜日

上谷遺跡 土坑底から壁にへばりついていたのは草のカヤ

2016.09.22記事「上谷遺跡 カヤ実貯蔵用土坑」及び2016.10.23記事「上谷遺跡 鉄滓が出土している燈明皿多出土坑」で検討したD268土坑のカヤ材については常緑高木のカヤ(榧)であると想定してきました。

しかし、八千代市立郷土博物館からのアドバイス等により草本のカヤ(イネ科のススキ、チガヤ、アシ、ヨシ等)のことである可能性が有力になりましたので記事にして報告します。

1 八千代市立郷土博物館からのアドバイス

10月始めに八千代市立郷土博物館にD268土坑出土カヤが草のカヤか、常緑高木のカヤか質問させていだだきました。

昨日、八千代市立郷土博物館からアドバイスをいただき、D268土坑のカヤは草のカヤの可能性が高いとのことでした。より正確には解像度の高い写真を探して確認していただけるとのことでした。

2 報告書写真の拡大

このアドバイスをいただき、報告書の写真の判断ができないと思い込んでいるだけではなく、自分自身が積極的に写真を拡大して確認してみることが可能であることに気が付きました。

次の報告書写真を拡大してみました。

発掘調査報告書のD268土坑写真
(文中の番号D269は報告書の過誤)

Photoshopで写真を拡大すると、ストロー状の材が丸い束になっている様子が写っていることが判明しました。

上谷遺跡 D268土坑底の写真

この写真から、D268土坑の底から壁にかけて炭化したカヤ材が貼り付くように出土しているという記述のカヤ材が草本のカヤであることがほぼ確実になりました。

ススキやアシなどを束ねてそれを土坑の底から壁にかけて敷きつめた様子が浮き彫りになりました。

同時に常緑高木のカヤ実の処理機能という想定は棄却されました。

常緑高木のカヤと草本のカヤでは土坑の利用についてその解釈が大きく異なってきます。

上記記事の訂正は別途行います。

2016年10月24日月曜日

上谷遺跡 鍛冶遺構を疑う竪穴住居

上谷遺跡の鍛冶遺物、鍛冶遺構について学習を進めています。

これまで鞴羽口あるいは鉄滓が出土した遺構が9カ所あり、そのうち8カ所は鍛冶遺物は出土しているものの鍛冶遺構ではないことが確認できました。

残るA102a竪穴住居は炉状ピットが存在することから鍛冶遺構であることを疑っています。

これ以外に、鍛冶遺物が出土しないすべての遺構について、それが鍛冶遺構の可能性があるかどうか検討しています。

その検討の際中ですが、A133竪穴住居が鍛冶遺構である可能性を感得できましたので、メモしておきます。

1 A133竪穴住居の位置

A133竪穴住居の位置

2 A133竪穴住居の記述
……………………………………………………………………
A133

検出地区

L7-47-2g、L7-48-1・1gにて検出した。

遺構

長軸3.60m×短軸3.32m×壁高0.57m、主軸方位はN-27°-Eを示している。

平面形は隅丸方形である。

床はハードロームに暗褐色土が混じる、よく踏み固められた貼床である。

住居跡中央部にて硬化面を平面屈曲して認めたが、その脇では火熱により床表面が損壊していた。

床には、焼土粒や炭化粒が散っていた。

床面でピットを3基検出したが、主柱穴は不明であり、壁柱穴を確認したにとどまっている。
P1・P3が出入口施設のピットであろうが、P2が柱穴としてよいか迷うものであった。

ピットの覆土は暗褐色土であったが、P1はロームを多く含み、P2・P3は焼土粒子が包含されていた。

周溝は、竈袖下まで巡っており、住居跡全体を巡るものであった。

しかし南東壁では二重に周溝が巡っていた。

竈は北西壁の中央に築かれており、壁を浅く掘込み煙道部としていた。

竈は袖の基礎部にロームが壁から張り出し、その上に白色粘土と黒色土を混合させたものを積んでいた。

また、袖の内壁は赤化していた。

火床は緩やかな傾斜を持ち、強く赤化していた。

なお、住居廃絶後に不用材などの焼却が行われ、壁から住居跡床中央に向かって炭化材が出土している。

覆土は、住居廃絶時にこの不用材の焼却による火の使用と投入土(7・8層)、覆土中層(5層以上)以上の暗褐色土を主体とした自然堆積によって埋没していた。

7・8層からは炭化材を検出しており、焼土も混入しているものである。

遺物

竪穴住居全体に散在して、遺物は出土している。

2・3・4・7はいずれも床面から出土しているが、7は横倒した状態で、3は伏せた状態であった。

1は竈右袖の外に置かれた状態であったが、竈の崩壊粘土で埋没していた。

所見

本住居跡は、南東壁下に二重に巡る周溝より、住居の若干の拡張が行われていたことが捉えられた。

また、それに伴う出入口の改替が行われたのか、P1・P3が平面配置上検討すべきことになる。

竈等からの配置的にはP1であるが、P3の覆土は焼土粒子を含み、住居廃絶時の覆土に近似することから、P1からP3への出入口施設の改替があったと考えたい。

本住居跡の住居廃絶時の不用材の焼却に関わる投入土では、遺構が完全に埋戻されてはいなかったことが覆土の堆積状況から捉えられた。

覆土中位まで埋め戻した住居跡はその後しばらく「穴」として放置され、自然の堆積に任せたような遺構であった。

A133

A133

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

アンダーラインは引用者

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3 A133竪穴住居の検討

発掘調査報告書ではこの竪穴住居が鍛冶遺構である可能性は検討されていません。

その背景にはこの住居が廃絶後焼却されていることがあると思われます。

記載では「火熱により床表面が損壊していた。床には、焼土粒や炭化粒が散っていた。」となっていて、廃絶後の住居焼却によるものではない事象を観察していた可能性を感じます。

他の焼却住居の記載では「床に焼土粒や炭化粒が散らばっていた」というような記述はされていません。

一般的住居焼却跡の観察結果記載は、この報告書では焼土層が存在するという記述になります。

また、焼土粒子が包含されるピット2とピット3は鍛冶遺構そのものではないだろうかと考えます。

住居中心に近いピット3が鞴羽口を使って高温を得る炉本体、周溝に近いピット4は炉から取り除いた灰を一時的に貯める穴と考えることができます。

A133竪穴住居の2つの鍛冶関連と想定するピット



2016年10月23日日曜日

上谷遺跡 鉄滓が出土している燈明皿多出土坑

2016.09.22記事「上谷遺跡 カヤ実貯蔵用土坑」で強い興味をもったD268土坑から鉄滓が出土していますので検討します。

1 D268土坑の位置

D268土坑の位置

2 D268土坑の出土遺物

D268土坑出土遺物

3 鉄滓出土の解釈(想像)

発掘調査報告書における鉄滓出土の記載は次の通りで、遺物観察表の記載や図示等はありません。

「この他に鉄滓も出土している。」


2016.09.22記事「上谷遺跡 カヤ実貯蔵用土坑」では次のような検討(想像)を行いました。

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遺物に燈明皿転用坏が3つ含まれ、さらに「破換面」が摩滅している坏(片)が7点出土しています。

摩滅している土器片ということですから、土器片として長期間使い込まれてきていることを示しています。

摩滅している土器片とは燈明皿として使っていた可能性を考えることができます。

これらの出土物から次のような土坑の歴史と廃絶時状況を推察します。

●D268土坑はカヤ実の果肉除去機能装置として利用された。

●カヤ実から採れる油は燈明皿を使って夜間照明に使われた。

●土坑内環境の悪化をリセットするために坑内焼却などが行われた。(焼土の存在)

●土坑は繰り返し利用され、堆積物で浅くなった。(下層、中層の存在)

●土坑が浅くなって使えなくなったとき、廃絶の儀式が行われ、使っていた燈明皿をもちより、感謝の念を込めて土坑に投げ込み埋めた。
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この検討と鉄滓出土を結びつけると次のような状況を想定できます。

●D268土坑は夜間照明用油生産に関連した施設であった。

●生産した油は転用燈明皿を使って夜間照明につかった。

●鍛冶施設でも夜間照明により生産の促進が行われていた。

●D268土坑廃絶の祭祀の際、鍛冶施設で使った転用燈明皿と鉄滓をお供えの品、捧げ物として土坑の底に置いた、埋めた、投げた。

D268土坑から出土した鉄滓は「偶然近くにあった鉄滓が土坑に流れ込んだ」という無意味さを前面に出した想定ではなく、「祭祀の捧げ物として入れられた」という有意味さを全面に出した想定をすべきものと考えます。


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度々引用させていただいている次の復元図もよく見ると、「照明」が当たっているように見えます。

参考 古代の鍛冶工房復元図
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

どう見ても、この復元図は夜間作業であり、日中の太陽光を入口から採り入れた状況ではありません。

燈明皿にカヤ実から精製した油を燃やして照明とし、鍛冶作業に精を出した古代人の姿の想像が私の頭の中でよりリアルになりました。

2016年10月22日土曜日

上谷遺跡 鞴羽口出土竪穴住居(遺物多出土遺構)

上谷遺跡の鍛冶関連遺物出土遺構の検討(学習)を継続しています。

この記事では遺物多出土遺構であるA233竪穴住居について検討します。

1 A233竪穴住居の位置

A233竪穴住居の位置

A233竪穴住居はこの遺跡の「西」側の掘立柱建物群の中央部付近に位置しています。

2 A233竪穴住居の特徴と出土物

A233竪穴住居は竈の改替を行っています。

A233

A233竪穴住居は建物の主要施設の竈の改替を行っている、つまり建物の改築を行っているのですから、その情報から、この住居に居住していた家族は集落の中で裕福であり、恐らく支配層、リーダー層に位置する家族であったと想像します。

A233竪穴住居からの出土物は極めて多く、墨書土器も多数出土しています。

A233

A233

A233

A233竪穴住居の住人が集落の支配層、リーダー層クラスであったという想定と、A233竪穴住居廃絶後にその遺構を覆った堆積層(覆土層)に多数の遺物が含まれていることは強く関連する事象として捉えることができると考えます。

つまり、A233竪穴住居の住人が集落の中で重要な役割を果たした人物であることから、その人物が死亡して家長が途絶えてその住居を廃絶した後、その住居跡空間(窪地)がその人物やその人物が果たした機能を弔い、あるいは感謝するなどの祭祀の場になったと想定します。

A233竪穴住居廃絶後、その空間を通じて思い起こすことができることを共通心理として人々の祭祀が行われたと想定します。

その祭祀の際に、お供え物として各種鉄器や墨書土器が置かれた、埋められた、投げられたのだと思います。

「西」と墨書された土器の文字「西」が残るように土器を割って、それを供えた(置いた、埋めた、投げた)祭祀が行われたと考えます 。

ですから、文字「西」を共有する集団と関わる人物、恐らく「西」集団のリーダー格の人物がA233竪穴住居の家長であったと考えます。

このような状況の中で、鞴羽口出土を考える必要があります。

3 鞴羽口出土状況と解釈(想像)

鞴羽口の記載は次のようになっています。

長(76)×径-×厚32、依存度が小さく、内径は復元できず、淡褐色、普、砂質、断片

鞴羽口

鞴羽口の出土層位は床面あるいは床面に近接する覆土層のように読み取ることができます。

鞴羽口の出土位置

2の考察を踏まえ、A233鞴羽口出土を次のように解釈(想像)します。

・A233竪穴住居には墨書文字「西」を共有する生業集団のリーダー格人物が住んでいた。

・そのリーダー格人物が死んで家長が途絶えたため、住居を廃絶(取り壊し)した。

・住居廃絶空間はすぐに覆土して平地利用空間に戻すのではなく、穴として残して祭祀的空間として一定期間利用できるようにした。

・住居廃絶時に鞴羽口破片が床面に置かれた。あるいは廃絶後の祭祀の際に鞴羽口破片が置かれた。

・鞴羽口破片が置かれたのは、A233に住んでいた「西」集団リーダー格人物が鍛冶業務にも何らかの形で関わっていたからであると想像します。

・出土物に鉄製品が多いことと鞴羽口出土が関連していると捉えると、「西」集団の各種鉄製品の補修やリサイクルを行う鍛冶業務を、この死んだリーダー格人物が統括、支配していたと想定できます。

・出土鉄製品には刀子、鏃が多いことから、死んだリーダー格人物は治安や防衛にも関わっていたと考えることができます。従ってその格(位)はかなり上であったと考えることができます。

なお、覆土層の各細層記述には各所に焼土粒混入が含まれています。

この記述からA133竪穴住居跡(穴)で行われた祭祀では火が使われた可能性が濃厚です。

また、打ち欠きして「西」がよく見えるようにした土器片や鉄製品等を供えた祭祀は、死んだリーダー格人物の記憶が人々に残っている期間、繰り返しておこなわれたと考えます。

現代の1回忌、3回忌、7回忌、13回忌みたいな心性で、A133竪穴住居跡(穴)空間が祭祀の場になったと空想します。

なお、墓ではない家跡という空間が祭祀の場になっていたという自分の仮説に、自分自身が大いに興味を持っています。

空間(場所)に対して、共通の記憶をたよりにして、人々が強い意味を与える事象として興味を抱きます。

リーダー格でない一般住民が居住した竪穴住居を廃絶する場合、その場所を生活空間として別利用するために即座に埋め立てする場合もあったと考えます。

2016.09.12記事「上谷遺跡 一気埋戻し竪穴住居が馬歩行空間を示す」参照