2014年8月12日火曜日

弥生時代、古墳時代遺跡の分布 (過去記事再掲)

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その4

前記事に引き続き、ここでは弥生時代、古墳時代の遺跡分布検討記事を1記事に編集して、再掲します。

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2012.07.08記事「花見川流域の弥生時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の弥生時代遺跡合計11個所を地形段彩図にプロットしてみました。

勝田川(=新川あるいは平戸川)の沖積地平野に関わる3遺跡と花見川の沖積平野に関わる8遺跡の2群として認識することができます。

花見川流域の弥生時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

2点について予察します。

1 水田耕作が始まっているのに、遺跡発見場所はほとんど台地上である理由
弥生時代遺跡の分布を地形との関係でみると、ほとんど台地上であり、水田耕作が始まったにも関わらず、低地や河岸段丘上の遺跡がほとんどないことは極めて不自然です。
2012.7.2記事「弥生時代遺跡が極端に少ない理由」では、「弥生時代の居住地の大半は現在の集落と重なる」ため遺跡が消滅し発見されることがないという推測をしました。
こうした問題意識で「千葉市史 通史 原始古代中世編」(昭和49年、千葉市発行)をめくっていると、次のような記述を見つけました。
(沖積低地に立地する弥生遺跡が昭和49年ごろほとんど見つかっていなかった理由として)「それは、当時にあって沖積低地内での集落立地の条件を満たす微高地が、それ以後の時代、特に近・現代においても早くから市街地として発達したために姻滅してしまったためとも考えられる。
だいたい自分の考えと同じであり、情報の少ない約40年前の記述とはいえ、なんとなく自分の思考がむちゃくちゃ間違っていることはないと感じました。

台地上に発見された弥生時代遺跡は、地域の高度な社会機能(祭祀等)に関わる遺跡(別表現すれば、支配者層に関わる遺跡)であり、一般民衆の居住遺跡は沖積地微高地等にあり、その多くは現在も集落となっているため、遺跡としては「発見」されていないと感じています。

2 発見遺跡数が少ない理由
頭の体操で、遺跡の時代区分別の「1遺跡の代表年数(A/B)」を計算してみました。この指標は「時代の長さを考慮して、どれだけ遺跡が発見されているか」を知るために考えたものです。

結果は次の通りとなりました。
花見川流域の1遺跡が代表する年数(その1)


時代

時代の年数

(単位:年)

A

花見川流域の遺跡数

(単位:箇所)

B

1遺跡の代表年数

(単位:年/箇所)

A÷B

(参考)Aの想定

旧石器時代

14000

10

1400

3万年前(※)から16千年前まで

縄文時代

13600

105

130

16千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで

弥生時代

650

11

59

紀元前4世紀ごろから紀元後3世紀中ごろまで

古墳時代

450

68

7

3世紀半ば過ぎから7世紀末ごろまで
※「八千代市の歴史 通史編 上」(八千代市発行)によれば、千葉県内の旧石器時代遺跡はほとんど全て立川ローム層から発見されている。

時代の時間を考慮すると、弥生時代の遺跡数が特別少ないとはいえないかもしれないと感じるようになりました。
弥生時代と古墳時代は同じ水田耕作が行われた時期ですから、合わせてみると次のようになります。

花見川流域の1遺跡が代表する年数(その2)


時代

時代の年数

(単位:年)

A

花見川流域の遺跡数

(単位:箇所)

B

1遺跡の代表年数

(単位:年/箇所)

A÷B

(参考)Aの想定

旧石器時代

14000

10

1400

3万年前(※)から16千年前まで

縄文時代

13600

105

130

16千年前(紀元前140世紀)から紀元前4世紀ごろまで

弥生時代+古墳時代

1100

79

14

紀元前4世紀ごろから紀元後7世紀末ごろまで

丁度一桁ずつ変化し、なにか理由は言葉ですぐ表現できませんが、「やっぱりそうか」と納得できるような感情になりました。

結論から言えば、弥生時代遺跡数が「極端に少ない」と思ったのは、縄文:弥生=1:1という言葉の重さの先入観念を時間にも誤って適用していた自分に気がついたことです。

時代の時間を考慮すれば、花見川流域の縄文時代遺跡105に対して弥生時代遺跡11は「極端に」少ないとは必ずしも言えないと思うようになりました。 発見遺跡数に着目するのではなく、1で述べた地形との関係からみた分布特性に着目していきたいと思います。

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2012.07.19記事「花見川流域の古墳時代遺跡の予察

千葉県埋蔵文化財分布地図(1、3)(平成9年、11年、千葉県教育委員会)から得られた花見川流域の古墳時代遺跡合計68個所を地形段彩図にプロットしてみました。

花見川流域の古墳時代遺跡の分布
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

古墳時代遺跡分布図と弥生時代遺跡分布図を比較すると、弥生時代遺跡の分布地点はその近傍を含めると、全て古墳時代遺跡の分布域と重なることが判りました。(図面は省略します。)

古墳時代遺跡分布図と縄文時代遺跡分布図を重ねて比較すると、古墳時代遺跡分布の特徴が浮かび上がります。

花見川流域の古墳時代遺跡と縄文時代遺跡の分布重ね図
基図は地形段彩図(5mメッシュを地図太郎PLUSで加工)

この重ね図から古墳時代遺跡の特徴の予察を行います。

なお、この予察は個々の遺跡についてその種別、出土物や報告書記載情報を踏まえていません。これまでこのブログの活動で得た花見川流域の地形特性の情報と、遺跡分布そのものの情報に基づいて行っています。 この予察(問題意識)が本当であるかどうかについて、これから各遺跡の情報を詳しく吟味して行うつもりです。

予察の結果を次の図と表に表しました。

予察図

予察結果
1 古墳時代遺跡はほとんど全て台地上にある。
これはこれまで何回か述べているように、沖積地微高地や河岸段丘上の古墳時代集落が現在まで集落として継続していて、遺跡として発見できないこと(遺跡としては消滅していること)が主因であると考えます。
統治の場(支配層の居住地)や祭祀の場など特別な社会的機能が台地上にあり、それだけが古墳時代遺跡として現在発見されているのだと思います。

2 古墳時代遺跡は縄文時代遺跡よりその分布が集約されている
予察図に白い楕円で4個所を囲みました。その場所は縄文時代遺跡はあるが、古墳時代遺跡はない場所です。
それら4個所は谷津の上流部や小さい谷津の部分です。
これらの場所は飲料水を得られ、なおかつ狩猟基地としては好適な場所であるが、水田耕作ができる広い谷底平野が無い場所です。 つまり、古墳時代になると水田耕作適地の周辺にその時代の統治や祭祀の場が集約されていったと考えます。

3 東京湾水系流域の遺跡が増大し、印旛沼水系流域の遺跡が減少した
縄文時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、直感的には大きな差異を感じません。
ところが、古墳時代遺跡の東京湾水系流域の分布と印旛沼水系流域の分布を比較すると、東京湾水系流域の分布が濃いことが直感的にわかります。
なぜ東京湾水系流域の分布の方が多いのか、とても興味深い現象です。
おそらく東京湾側の方は東京湾各地との交流があり、農業だけでなく、交易、広域的統治(地方・国家レベルでの支配-非支配関係)、文化、軍事等の面で印旛沼水系側より地域開発が進んだものと考えます。
(統治、経済交易、軍事、文化などの諸側面で、東京湾側から受ける刺激のほうが印旛沼側から受けるものより大きかったと考えられます。)

4 古墳時代遺跡分布の特性

古墳時代遺跡分布の特性を次のように予察してみました。



予察図内の記号

分布特性(予察)

A

新川(平戸川)谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

B

高津川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

C

勝田川谷底平野の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

D

花見川及び犢橋川の水田と関わる遺跡(統治・祭祀機能)

E

花見川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)

F

犢橋川の源流部に立地した遺跡(祭祀機能?)

G

東京湾(幕張湾)の古代湊付近に立地した遺跡(交易機能?)

H

幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)

I

幕張湾口に立地した遺跡(軍事機能?)

J

台地内陸に立地した遺跡(?)

K

谷津奥に孤立して立地した遺跡(?)

L

台地奥に立地した遺跡(?)

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