2014年8月19日火曜日

縄文時代遺跡密度についての追考

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その11

2014.08.17記事「縄文時代遺跡密度について考える」で考察した内容(見かけ上旧石器時代と同じように印旛沼流域付近の遺跡密度が高く、それに対応して水系を軸としたネットワークがあったに違いない等)について、裏を取ろうしました。

図書「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)が千葉県の縄文時代について最も詳しいと考え、その内容と対照しようとしたのですが、残念ながら、裏をとることが出来ませんでした。
この図書では、千葉県の縄文時代遺跡密度や分布に関する地理的考察がされていないからです。そのような視点が欠落しています。
他の書籍をいろいろ探したのですが、縄文時代遺跡分布あるいは密度に関する考察を見つけることはできませんでした。

裏を取ることが出来なかったのですが、千葉県というくくりで縄文時代遺跡分布や密度を考察対象とした記述は一般人が利用できる図書等ではないということが判り、それは一つの大切な情報であると感じました。

要するに、千葉県の縄文時代遺跡に関して、その地理的分布や密度について考察するということが専門家の間での主要な興味にはなっていないということが判ったのです。

なお、当然ですが、今後このテーマにいて専門研究論文等があるか、探して行きたいと思います。

裏を取ることはできなかったのですが、もちろんのことですが、自分の考察内容が否定されたということでは全くありません。

むしろ、専門家が行うべき基礎的な検討分野が空白となっているとすれば、私の遺跡分布や密度に関する考察は、そのレベルの高低は別にして、大いに意義があるに違いないと勝手にプラス方向の感情を持ちました。

なお、裏を取ることとは別に、図書「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)には大変興味ある記述が多く、次の3点を紹介します。

●大規模な貝塚の形成
中期から後期にかけて大規模な貝塚の形成要因については、交易用の干し貝づくりによるものであるという考えもあるが、その実体は必ずしも明らかになっているわけではない。
中期の貝塚で環状集落を伴うものは、環状集落が同一地点での反復居住・集合居住ととられている。遺跡の数としては少数である環状集落に、周辺地域の集団のうちの多くが居住していた可能性が高い。
このように考えると、海のめぐみを享受していた彼らの日常的な貝採集の結果として大規模な貝塚が形成されたとしてもなんら不自然ではない。交易用の干し貝づくりを否定する根拠があるわけではないが、少なくとも中期の環状集落に伴う大規模な貝塚については、現段階では交易用の干し貝づくりのみの結果であると断定できないのである。
後期の大規模貝塚については、…代表例としては千葉市若葉区加曽利貝塚が挙げられる。…現段階では後期の大規模な貝塚の形成要因についても中期同様に、日常的な貝採集の結果が基本であったという以上の結論は導きだせないでいる。

→他書では加曾利貝塚などは交易用の干し貝づくりの場として紹介されていますが、最近刊で千葉県公式歴史書であるこの図書では交易用干し貝づくりという点ではトーンダウンした記述になっています。
このような見解が千葉県縄文時代研究者の大勢であるのか、単なる1個人意見であるのか、確かめたいと思います。
この図書の著者が、なぜ環状集落が成立したのか、東京湾の生貝が印旛沼周辺に流通していることの意義等について、どのように考えているのか知りたいところです。

●古鬼怒湾沿岸の塩づくり
製塩をおこなった条件を備えている遺跡は霞ケ浦沿岸の3遺跡だけである。千葉県では製塩遺跡は発見されていない。製塩がおこなわれた有力な理由は塩蔵説である。
千葉県内では、製塩土器を少量出土する遺跡が数多く存在している。この土器は、魚などの塩蔵品とともに運ばれた可能性が高いと考えられる。

製塩土器が出土した遺跡の分布
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

→なぜ霞ケ浦沿岸の遺跡が製塩の中心であったのか、とても興味があります。霞ケ浦の製塩の勃興と加曾利貝塚などの凋落が同じ時期であったということをいろいろの本で読むことが多く、どのような関係があるのか興味を引きます。

●石器と石器材料の入手
石器は一部が陸路のみで運ぶことが可能であるが、大多数は丸木舟に載せ、水路・海路を漕いで運ばれた。
打製石斧・磨製石斧などの礫核石器は完成品として、剥片石器の多くは素材として運び込まれている。

石材の市川市向台貝塚への動き
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

石器や海産物をはじめとする物資の交換原理には、不足物交換原理だけでなく、良好な社会関係維持のため等により交換行為そのものに大きな価値をおく交換原理もある。
自らつくり、足りているのに他者がつくった物があり、不足物の補充ではなく、受け取る義務があった。
このような交換は贈る義務と受け取る義務の調和により成立していた。

縄文時代に定住する人びととは別に、物を運びながら集落を渡り歩き漂泊する人がいたとすれば、遠隔地産の石器・石材・装身具・食料などの異地性産品の広範な広がりは彼らの行動の軌跡を示すことになる。はたして、縄文時代に「運び屋」と類別される専従の人がいたのか、解決すべき課題であろう。

→多くの興味のある情報が記述されています。

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