シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その17
2014.08.24記事「古墳時代遺跡密度について考える」で掲載した密度図について自分なりに考察しましたがその考察を補強するために、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から得られる情報をピックアップして、密度図との関連を考察してみました。
1 古墳時代出現期の主要遺跡分布
次に「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)に掲載されている「出現期から前期古段階の遺跡分布図」を引用します。
出現期から前期古段階の遺跡分布図
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)より引用
この遺跡分布図から、自分が感じていた素朴な疑問がいくつか解決しました。
ア 上総の東京湾岸の古墳時代遺跡高密度地域は東京湾の他の場所から伝播したということではない
遺跡初心者のつらさですが、千葉県だけの遺跡分布図をみていては、千葉県内の地域構造は検討できるにしても、関東地方のなかでの関係が判りませんでした。
上総の東京湾岸古墳時代遺跡高密度地域と東京や神奈川の東京湾岸との関係がこれまでさっぱりわかりませんでした。
しかし、この地図をみて、上総の東京湾岸古墳時代遺跡高密度地域が関東地方の中でも最も規模の大きな高密度地域であることが判りました。
近くに母地域があり、そこから上総に伝播したというイメージではないことを理解しました。
むしろ上総の東京湾岸古墳時代遺跡高密度地域が母地域となって文化や情報が各地に伝播したに違いないと感じることができます。
近畿のヤマト王権と直結して上総に高密度地域が形成されたと考えました。
イ 下総の古墳時代遺跡高密度地域の北の香取の海沿岸には高密度地域はない
下総の古墳時代遺跡高密度地域が茨城県側の地域とどのように連担するのか、しないのか、その関係が判りませんでした。
しかし、この地図をみて、下総の高密度地域が独立して存在していて、香取の海全体に高密度地域が広がっているということではないことが判りました。
判ってしまえば当たり前の事実として首肯できますが、この地図をみるまで解決できない疑問でした。初心者はつらいです。
房総付近における古墳時代の政治支配・文化情報等の流れは近畿→上総東京湾岸→下総印旛浦→香取の海(千葉県側、香取市付近など)という方向であることが判りました。
こうした政治支配・文化情報等の流れは外来土器の出土状況等で確認できているそうです。
初期のころは香取の海の対岸(茨城県側)は外来系土器の出現はすくないそうです。
ウ 上総と下総を結ぶメインルートが都川-鹿島川ルートであることが示されている
この地図では上総と下総の高密度地域の間の遺跡が都川-鹿島川ルート上にあることが示されています。
このルート上に実際は陸運ルート(道路)と水運ルートの2つが併置されて存在していたと考えます。
このころ、馬の生産使用が始まっています。また古代東海道ルートがこのあたりを通っていました。
(古代東海道については次記事で情報紹介予定です。)
2 馬の犠牲土壙や馬具、玉造り遺跡の発見
佐倉市の遺跡から馬の犠牲土壙や馬具が発見されていて、中世まで遡ると考えられていた佐倉牧の起原が古墳時代まで遡る可能性があるそうです。
高津馬牧や浮嶋牛牧について興味をもっているので、大変刺激をうける記述です。
また、玉作り遺跡も印旛浦周辺に集中しています。
このように佐倉市や成田市付近は古墳時代の産業文化の中心地であったと考えられ、遺跡密度が高い理由の一つになっていると考えます。
3 古墳時代後期の印波郡の首長
古墳時代後期の印波(印旛)郡の豪族が、ヤマト王権の軍事部である杖部(はせつかべ)直であり、その豪族が営んだ古墳群が公津原古墳群であると考えられる。
「公津原古墳群の名称は公津によったもので、この地名が古代のものか中世のものかは不明であるが、この地が香取海につながる印旛浦の重要な港津にほかならなかったことを物語っている。原東海道ルート沿いの拠点でもあるこの地の豪族が、ヤマト王権の関東北部からさらに陸奥の地域に対する軍事的諸活動に際して重要な役割を果たしたであろうことは容易に推測することができる。」
こうした記述を読むと、1で検討した古墳時代初期の「古墳時代の政治支配・文化情報等の流れは近畿→上総東京湾岸→下総印旛浦→香取の海(千葉県側)という方向」から、古墳時代後期には政治軍事的に印旛浦が関東北部→陸奥へと支配を拡げる拠点であったことが判ります。
古墳時代の房総を巡る政治支配・軍事・文化情報の流れの方向
「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から得た情報に基づく
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