2014年8月24日日曜日

古墳時代遺跡密度について考える

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その16

1 古墳時代遺跡の密度算出と密度分布図作成
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした埋蔵文化財リスト(古墳時代)について、書式不備等の部分について最低限の調整をしてから、市区町村別箇所数をカウントしました。

千葉県全体の埋蔵文化財(古墳時代)箇所数は10440箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約52.5%にあたります。
箇所数が多い自治体は市原市2041、君津市934、袖ヶ浦市424、木更津市607、成田市554、印西市476、千葉市458、香取市435、富津市414、佐倉市413などとなっています。箇所数が少ない自治体は浦安市0、九十九里町2、御宿町5、白子町7などとなっています。

埋蔵文化財(古墳時代)10440箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(古墳時代)密度2.0箇所/km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(古墳時代)密度の分級
分級A 4.0~ 箇所/km2
分級B 2.0~3.9 箇所/km2
分級C ~1.9 箇所/km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

市区町村別埋蔵文化財(古墳時代)密度

2 考察
ア 2つの高密度があるという地域構造が表現されている
市原市、袖ケ浦市、木更津市の3つの地域を中心として君津市と富津市を加えた遺跡密度が高い地域が東京湾岸に拡がり、最も特徴的な分布となっています。
一方佐倉市と神崎町が挟むような形で印西市、酒々井町、成田市、芝山町、栄町、我孫子市が分布し千葉市若葉区を加え、遺跡分布密度が高い地域が拡がっています。
巨視的な視点でみると、千葉県には、東京湾岸と印旛浦とその香取の海出口付近という2つの遺跡高密度地域が存在しているという地域構造が読み取れます。

イ 弥生時代遺跡密度図と比べると地域構造に微妙な変化がみられる
次の図は弥生時代遺跡密度図と古墳時代遺跡密度を並べて対照できるようにした図です。

弥生時代と古墳時代の遺跡密度図の対照

この対照図から判る様に、弥生時代の東京湾岸と奥印旛浦地域という二つの目玉のような地域構造から、古墳時代の地域構造は次のような微妙な変化を見せています。

1 弥生時代から古墳時代にかけて東京湾岸の高密度地域が大きく拡大している

2 弥生時代の高密度地域である奥印旛浦地域のうち、その中心と考えられる佐倉市は古墳時代にあっても高密度地域であるが、八千代市、四街道市が高密度地域から脱落している。

3 香取の海(現在の利根川流路付近)に面した神崎町が高密度地域になり、成田市や我孫子市が平均以上の密度となりそれらの地域と印西市、佐倉市、千葉市若葉区が連担している。この様子から弥生時代に存在した高密度地域の重心が北方向に移動したように見える。

ウ 東京湾から都川-鹿島川を経由して印旛浦に至る交通ルートが推測できる。
佐倉市が高密度地域となっていて、千葉市若葉区が平均以上の密度となっていることから、都川-鹿島川ルートで東京湾と印旛浦がつながっていた様子を推測できます。

市町村遺跡密度という大ざっぱなデータで、このように推測することは危なっかしいと思っていますが、旧石器時代、縄文時代、弥生時代とこのデータを検討してきて、思った以上に有益なデータであるので、あえて現在はこのような推測をしておきます。

いずれ、遺跡データを地図にプロットしてより精度の高い検討をしますので、その時に明らかにすべき作業上の仮説として「古墳時代には都川-鹿島川ルートが使われていた」を設定します。

市町村別遺跡密度という大ざっぱなデータでみると、縄文時代以降の東京湾と印旛浦の2つ移動ルートのメインルートは次のように変化したことになります。

●市町村別遺跡密度からみた東京湾と印旛浦をつなぐメイン移動ルート
縄文時代 都川-鹿島川ルート
弥生時代 花見川-平戸川ルート
古墳時代 都川-鹿島川ルート

(なお、このブログでは奈良時代に花見川-平戸川ルートに国家が建造した直線道路と船着場・港湾よりなる古代東海道水運支路の存在を仮説して調査を行い、多数の記事にしています。)

このような変化はデータの(くくりの)大ざっぱさに起因するもので、ルート消長という実態はなかったということかもしれません。一方時代の社会情勢によってルート消長があり、それが表現されているのかもしれません。

現時点では、データの(くくりの)大ざっぱさにも関わらず、遺跡密度という情報は1級の情報であり、その分布は大いに意味があると考えています。ルート消長はあったと考えています。

寄り道を終えたあとの本来検討で結果は出ると思います。

また、奈良時代につくられた官道(古代東海道)が奈良時代以前からあった、つまり古墳時代に存在した幹線道路ルートとなんらかの関係があるということは十分に考えられます。

したがって、古墳時代の「都川-鹿島川」ルートを考える視点として、縄文時代から存在していた水運ルートという視点からだけでなく、古代東海道の原型陸路という視点から考えることも大切だと思います。

古墳時代には東京湾岸と佐倉市や成田市を結ぶ幹線陸路が出来ていた可能性があります。

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