第1部 縄文弥生時代の交通 その9
1 縄文時代遺跡の密度算出と密度分布図作成
「ふさの国文化財ナビゲーション」(千葉県教育委員会)からダウンロードした埋蔵文化財リスト(縄文時代)について、書式不備等の部分について最低限の調整をしてから、市区町村別箇所数をカウントしました。
千葉県全体の埋蔵文化財(縄文時代)箇所数は6657箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約33.4%にあたります。
箇所数が多い自治体は千葉市854、成田市605、市原市416、香取市393、佐倉市324、印西市259、柏市256、野田市220、富里市219などとなっています。箇所数がゼロの自治体は浦安市、九十九里町、白子町となっています。
埋蔵文化財(縄文時代)6657箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(縄文時代)密度1.3箇所/km2が算出されます。
そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。
●埋蔵文化財(縄文時代)密度の分級
分級A 2.6~ 箇所/km2
分級B 1.3~2.5 箇所/km2
分級C ~1.2 箇所/km2
なお、千葉市の情報は区別に示しています。
市区町村別埋蔵文化財(縄文時代)密度
2 旧石器時代遺跡密度図と比べた時の意義の違い
上図「市区町村別埋蔵文化財(縄文時代)密度」は縄文時代遺跡密度が相対的に高い場所(あるいは低い場所)を示したものです。
旧石器時代の密度図(2014.0816記事「旧石器時代遺跡密度について考える」掲載図)と比べると分布が似ていますが、意味する内容がだいぶ違いますので、最初にその違いを確認しておきます。
千葉県全体でみると、旧石器時代遺跡数は885箇所、縄文時代遺跡数は6657箇所であり、箇所数は約7.5倍増えています。
旧石器時代人の人口とくらべ縄文時代人の人口が大幅に増え、その分布も拡がっているのです。
二つの遺跡密度図の分布は似ていますが、旧石器時代遺跡密度図は旧石器時代人の活動範囲(生活範囲)を直接イメージすることができる図です。
一方、縄文時代遺跡密度図は、千葉県全域に拡がった縄文時代人の活動範囲(生活範囲)の中で、活動が特に濃密な地域(あるいは希薄な地域)をイメージすることができる図です。
参考までに旧石器時代遺跡密度図を作成したのと同じ分級で縄文時代遺跡密度図を作成すると次のようになります。
参考 旧石器時代遺跡密度図で使用した分級を使って描いた縄文時代遺跡密度図
縄文時代人の活動範囲(生活範囲)は旧石器時代とは異なり、千葉県全域をほぼカバーしたということをこの図は示しています。
3 考察
ア 旧石器時代遺跡密度図と縄文時代遺跡密度図の分布が似通っている
2で検討したとおり、旧石器時代人が生活していた場所と縄文時代人が特別濃密に生活していた場所がほぼ一致します。
旧石器時代人は大型動物を縄文時代人は中小型動物を狩ったと言われていますが、狩猟に適した場所(地形の起伏が少ない台地地域)は基本的に同じ場所であったということだと思います。
そして、縄文時代になると狩猟に適した場所では多くの狩猟生産が可能になり、他の場所と比べてより多くの人を養うことができたということだと思います。
また、狩猟に適したこの場所に生活ネットワーク(集落ネットワーク)が形成発展して、高人口密度を支えたのだと思います。
イ 遺跡密度が高い場所が印旛沼水系流域と根子名川流域を合わせた地域と一致する
遺跡密度が特に高い場所(分級A)が成田市、富里市、酒々井町、佐倉市、四街道市、八千代市、千葉市若葉区、千葉市緑区と連担しています。
この地域は印旛沼水系流域と根子名川流域を合わせた地域とほぼ一致します。
縄文遺跡高密度連担地域と印旛沼水系、根子名川水系の関係
この図から、千葉市若葉区と緑区は印旛沼水系と東京湾水系都川の双方に係っていることがわかります。
つまり、利根川付近から東京湾までの一連の地域が連担した縄文遺跡高密度地域になっているということです。
利根川から東京湾までに一連の地域が連担した縄文遺跡高密度地域になっているということはとても示唆に富む貴重な情報です。
この情報から次のような思考が触発されました。
イ-1 縄文人の本拠地は利根川方面にあるに違いない
高密度連担地域の分布から縄文人の本拠地は利根川方面であり、利根川から印旛沼水系を伝わって分布を広げて、最後は印旛沼水系の最も奥深い源流である鹿島川源流から東京湾水系都川流域に出たというイメージを抱きます。
縄文人の本拠地(地域文化の中心地)は流海(利根川の両岸に広がる海)にあるのであって、東京湾方面ではないという印象を持ちます。
イ-2 印旛沼水系が生活ネットワークの軸になっていたに違いない
縄文時代の台地上は樹林地帯であり人や物の効率的移動は不可能であったと思います。
印旛沼水系の水面(縄文海進で陸地奥深く侵入した印旛沼水面とそこに流れ込む河川)と灌木程度しか生えていない谷津低地が人と物の移動軸であったと思います。
つまり印旛沼水系網を舟(丸木舟)をメインに徒歩を加えて移動することにより、縄文人の生活ネットワーク(集落ネットワーク)が形成されていたと考えます。
逆に考えると、まるでフィヨルドのように内陸奥深くまで入りこんだ水面と河川網が存在していたので、この場所で縄文人が生活ネットワーク(集落ネットワーク)を拡げ形成強化することができたのだと思います。
イ-3 印旛沼水系から東京湾に出たメインの場所は都川付近
密度分布から印旛沼水系と東京湾が連絡するメインの場所は都川付近であると感じます。千葉市若葉区には加曾利貝塚があり、縄文時代に長期に渡って干貝を生産していましたが、干貝の供給地域は当然印旛沼水系の縄文集落であり、印旛沼水系を軸とした生活ネットワーク(集落ネットワーク)の中で流通したものであると考えます。
狩猟活動好適地である印旛沼水系の縄文人は東京湾の干貝など海の幸を入手できるようになり、生活基盤がより安定したに違いありません。
なお、私の問題意識の中心である花見川地峡について考えると、縄文時代にあっては印旛沼水系と東京湾を結ぶ場所としてはサブの役割であったような印象をもちます。
本当にそうであるか、自治体別密度ではないより的確な調査方法で確認したいと思います。
イ-4 印旛沼水系縄文人と東京湾岸縄文人の関係は?
袖ヶ浦市や市原市、木更津市などの東京湾岸縄文人と都川付近で東京湾に出た印旛沼水系縄文人との関係が気になります。
当然大いに関係あると思います。印旛沼水系縄文人が都川から東京湾に出て、南下して袖ヶ浦などに植民したのかもしません。
しかし、ここまでくると、千葉県という狭いくくりではなく、東京湾全体というくくりで情報を検討しないと、判らない問題だとおもます。
イ-5 印旛沼水系縄文人の拠点集落はどこか?
狩猟好適地であり、東京湾の海の幸も手に入れ、人口も多く(=遺跡密度が高く)さらに生活ネットワーク(集落ネットワーク)を形成していた印旛沼水系縄文人の拠点集落がどこであるか気になります。
拠点集落がどこであるかという問題意識をもって、今後の検討を進めて行きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿