シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その21
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)に「古代の交通路」という章があり、興味深い情報が掲載されていますので、その情報と遺跡密度図との関係を考察してみました。
1 駅路の変遷
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)には駅路(えきろ)図が時代別に3枚掲載されていますのでその紹介と感想を述べます。
なお、駅路網については、類似の情報を題材に2013.06.29記事「紹介 東国駅路網の変遷過程」等の検討を過去に行っています。
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
塗色しました。
駅路網を3期にわけ、変遷が分かりやすく理解できます。
Ⅰ期は古墳時代末期(飛鳥時代)から奈良時代の後期までの時期の駅路網です。
東海道の本路線は三浦半島から海路浦賀水道を渡り、東京湾岸を陸路ですすみ、千葉市付近から成田市付近を通り当時の香取の海にでて対岸に渡り常陸国に入ります。
このルートは律令国家が駅路を整備するはるか以前から使われてきたものです。
支路がネットワーク状につながっています。
Ⅱ期は奈良時代末期から平安時代始期のころの駅路網です。
浦賀水道を通るルートが廃止され、本路線は西から陸路井上駅(下総国府近く、市川市)に到達し、そこから東京湾岸を東に進み、河曲駅(千葉市)からⅠ期と同じルートを北に進みます。
Ⅲ期は平安時代以降の駅路網です。
本路線は井上駅から手賀沼付近を通りそこから香取の海を渡っています。印旛浦付近を避けるルートとなっています。
Ⅰ期、Ⅱ期において東海道本路線が香取の海の中央付近に出るルートであり、Ⅲ期になるとルートがより合理的になり東国と都を結ぶようになります。(ルートが短縮されます。)
この理由について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では征夷(蝦夷征夷)と弓削道鏡のかかわりの2点から説明しています。大変興味深い説明です。
この中で、Ⅰ、Ⅱ期の時代では香取の海沿岸が征夷の出撃拠点、兵站基地として重要な時期であったということと、Ⅱ期では道鏡政権が人脈上武蔵国と上総国を重視していたということを詳しく説明してます。
駅路ルートの変遷理由はとても詳しく、かつわかりやすく書いてあります。
2 浮島駅の場所
さて、駅家(えきか)の推定位置一覧表があるのですが、浮島駅がこの書では習志野市津田沼・鷺沼付近となっています。
吉田東伍は幕張町付近(花見川河口)と推定して、このブログでも吉田東伍の推定が合理的であると判断して、思考を組み立てきています。(2014.04.04記事「花見川地峡が古代交通の要衝であったことに気がつく」など多数)
浮島駅の推定が吉田東伍の推定と異なる理由については説明されていません。この書における浮島駅の場所推定根拠を詳しく知りたいと思いました。
縄文時代以来使われてきた花見川地峡(花見川-平戸川[印旛浦])の交通を考えた時、浮島駅が花見川河口を外して、その近くの津田沼付近につくられた合理的理由を考えることは困難です。
3 河曲駅から荒海駅までのルート
河曲駅から荒海駅までの陸路ルートの地図上での概略位置を知りたくなりました。またそのルートと都川-鹿島川水運ルートとの関係も知りたくなりました。
今後調べたいと思います。
4 駅路網図と遺跡密度図のオーバーレイ
駅路網図と遺跡密度図をオーバーレイして並べてみました。
Ⅰ期駅路網図は古墳時代遺跡密度図と奈良時代遺跡密度図の2つにオーバーレイしています。
Ⅱ期駅路網図は奈良時代遺跡密度図とオーバーレイしています。
Ⅲ期駅路網図は平安時代遺跡密度図とオーバーレイしています。
駅路網図と遺跡密度図のオーバーレイ図
「古墳時代・1期ルート」図は東海道本路線が上総と下総の高密度地域をつないでいるように見えます。
しかし、「平安時代・Ⅲ期ルート」図をみると、下総の高密度地域の分布と東海道本路線ルートの位置とは関係が無くなっています。
こうした関係から、次のような思考が生れました。
・古代の駅路網の最高機能は中央集権国家の情報伝達であり、駅路網を使って中央による地方支配をより強固にしようとしたと考える。
・当初の駅路網は当時の現実幹線道路・水運網を基本に設置されたが、時代とともに陸路を中心にして合理的短縮、単純化の方向に向かった。
・一方、変遷する駅路網(律令国家が運営した本路線、支路線)ではあるが、それを主軸にして地域物流を担う陸運・水運網も時代とともに展開発達したはずである。
・その地域の陸運・水運網が明らかになれば、地域開発の様子がより鮮明に見えるにちがいない。
花見川地峡の交通について、このような視点から取り組みたいと考えました。
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