2014年8月26日火曜日

コラム 海の道「東海道」 紹介

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その18

2014.08.24記事「古墳時代遺跡密度について考える」に関連して、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)671~672頁に掲載されている「コラム 海の道「東海道」」を紹介して、感想を述べます。
このコラムから刺激を受け、思考が触発されました。

1 コラム 海の道「東海道」  全文紹介
古代の道
 
 日本列島は四分の一が山地である。このため、海路・水路が陸路以上に重要な歴史の道を形成している。弥生文化・古墳文化の東進・交流ルートは海路抜きには考えられないといえよう。特に大和を起点とする伊勢湾沿岸の交通路から東国への海路は、ヤマト王権の東進路として考古学・文献双方の資料から重視されている。また、沿線には河川によって分割された数多くの小地域が存在し、海路でいち早く波及した新たな文化はそれぞれの地域で受容・吸収されて多様化した。奈良時代初めに、都を中心とする主要官道のひとつとして陸路の東海道が整備されるまでは、この海の道が東海道の幹線であった。

 東国の概念や範囲は時代によって異なり、古代以前に限っても大化の東国等国司派遣は信濃・遠江以東を対象とし、壬申の乱で大海人皇子が兵を動員した東国は「三関」(伊勢鈴鹿・美濃不破・越前愛発の関)以東を指している。さらに、万葉集の東歌や東国防人の歌に見える範囲は、信濃・遠江から陸奥を含む。弥生・古墳時代の様相では、天竜川流域・碓氷坂以東、常陸以南を東国の主要範囲としてとらえられる。なかでも、富士山と筑波山を望む東海道駿河湾以東の範囲は、穏やかなまとまりと交流を維持した地域である。その東限に位置する房総は、東海道の東の玄関にあたるといえよう。

 列島を象徴する山として古来聖山とされてきた富士山は、南西は和歌山県那智勝浦町の妙法山、南は八丈島、東は銚子市犬吠崎、北東は福島県二本松市の日山から遠望することが可能で、その可視範囲は約600キロにわたる。東海道は、日常的に富士山を望むことができる広域な交通路であり、弥生文化の東漸以降、この道を通って東西の文物が盛んに行き交うようになる。特に、天竜川以東の駿河湾、相模湾、三浦半島を経て東京湾東岸に至る海道は、弥生時代中期から後期にかけて、交流圏としてのまとまりを形成し始める。逗子市と葉山市にまたがる長柄・桜山古墳群は、三浦半島の渡海地点を知る重要な遺跡である。やがて、道筋はさらに太くなって古墳時代の社会・経済・文化の動脈となっている。この海道の終着点である東京湾東岸は東漸するあらゆる文物の上陸する所であり、西に向かって開かれた地域であった。

 一方、筑波山を望む鬼怒川・利根川下流域は、かつて広大な内海(香取海)を挟んで東海道経由の弥生文化を対峙し、独自の伝統を維持していた。この均衡が破られるのは、古墳時代になって東北へ向かうヤマト王権の強い影響力が波及する時である。その時点でこの地域は、ようやく遠江以東を緩やかに結ぶ交流圏に入ることになる。

 東京湾東岸から鬼怒川・利根川下流域にわたる地域は、東海道の東限として必然的に東北への入り口となった。特に古墳時代後期以降は、ヤマト王権の軍事的・経済的基盤としての重要性が増している。しかし、その一方で、考古学的な資料からうかがえる東国の実態は、王権の傘下にあってもなお独自性を発現するきわめて統制の難しい地域の姿である。このような地域的特性は、海路・水路に恵まれた地理的環境によるところが大きいと思われる。

 古代以降の陸路に視点を置くと、これらの地域は都から遠く離れた最果ての地であり、特に奈良時代後期以降の房総は幹道から外れた袋小路の感がぬぐえない。しかし、海道に視点を移してみると海上に開かれたきわめて自由な道が開けていたことがわかる。

図版、文章とも「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)から引用

2 感想
ア 弥生時代から海道が西方と房総を結んでいた
弥生時代から、西方から逗子葉山を経て三浦半島を超えて東京湾を渡り富津から房総にはいるルートがあったことを知りました。

イ 奈良時代初めに陸路の東海道が整備されるまでは、海の道が東海道の幹線であった
「奈良時代初めに、都を中心とする主要官道のひとつとして陸路の東海道が整備されるまでは、この海の道が東海道の幹線であった」と書いてありますが、奈良時代の交通は陸路と海路(河川路)の双方が使い分けられていたと考えます。奈良時代の官道は権威の象徴であることを含めて建設され、支配のために使われるとともに、それに併置されるような形で水運支路が必ず存在し、陸路では完全に賄いきれない機能をサポートしていたと考えます。
古墳時代にあっても脆弱なものであるかもしれませんが陸路があり、それが海路(河川路)をサポートしていたと考えます。

ウ 東京湾東岸から鬼怒川・利根川下流にわたる地域は、王権の傘下にあっても統制の難しい地域であった
「東京湾東岸から鬼怒川・利根川下流域にわたる地域は、東海道の東限として必然的に東北への入り口となった。特に古墳時代後期以降は、ヤマト王権の軍事的・経済的基盤としての重要性が増している。しかし、その一方で、考古学的な資料からうかがえる東国の実態は、王権の傘下にあってもなお独自性を発現するきわめて統制の難しい地域の姿である。このような地域的特性は、海路・水路に恵まれた地理的環境によるところが大きいと思われる。」

この文章が判るようでわかりません。

考古学的な資料から「なお独自性を発現するきわめて統制の難しい地域の姿である」とする論拠が何であるか、「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県、平成19年)を読んでもすっきりわかりません。房総の支配層の古墳形式などは中央集権的な古代国家の形成過程と表裏の関係にあると書いてあります。
考古学的にみて、何が古代国家の統制から外れているのか、ポイントを十分に理解できません。機会があれば専門家の方にお伺いしたいと思います。

もし何かの事象で、香取海における統制が困難であったということであれば、その理由として「海路・水路に恵まれた地理的環境」というより、弥生時代に奥印旛浦が一つの小世界であったと考えたのと同じ理由「複雑な内海地形」であると考えます。

「複雑に入り組んだ内海地形のため、他所から来た外部権力は自らの警察的軍事的力で内海における在地勢力活動を完全には支配しきれない」ことによるものであると考えます。

もし筆者が東京湾も海路・水路に恵まれているから、東京湾東岸も統制が困難であったという話をしているのなら、私はこのコラムの理解が全くできていないことになります。

エ 図版「古代の道」に追記したくなる海路
上記図版「古代の道」には陸路と海路が併記されている場所があります。
また、長柄・桜山古墳群を通って三浦半島を横断して横須賀付近から海路で東京湾を渡り、富津付近から北東に進む陸路が描かれています。

この図版をみて、東京湾にも陸路と並走する海路があり小糸川、小櫃川、養老川、都川、花見川などの河口に立ち寄っていたに違いないと想像しました。

花見川河口には居寒台遺跡(旧石器、古墳(中・後)、奈良、平安)や玄蕃所遺跡(旧石器、縄文(前)、古墳(後)、平安)等があり少なくとも奈良時代には港湾があったと考えられます。近くの落合遺跡から数隻の縄文丸木舟が出土していますから、古墳時代にも港湾があったことは十分に考えられます。

その想像東京湾海路ルートと、私が検討している水運ルート(一部陸路)を上記図版に追記すると次のようになります。

将来、このような想像図ではなく、しっかりした裏付けのある古代交通路図ができると良いと思います。

想像海路と検討水運路の追記

0 件のコメント:

コメントを投稿