2014年8月22日金曜日

小世界に見立てた奥印旛浦の範囲

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その14

2014.08.21記事「奥印旛浦を小盆地に見立てる」で弥生時代遺跡密度が高い地域が奥印旛浦の沿岸地域に該当するということを述べましたが、奥印旛浦とはどの範囲を指して使っているのか説明が欠けていたので、追加記述します。

1 印旛浦の位置
次の図は吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)に掲載されている「衣川流海古代(約千年)水脈想定図」です。

衣川流海古代(約千年)水脈想定図(吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)掲載地図)

吉田東伍が明治43年(1910年)に、その時点から約1000年前を見つめて作成した湖沼・河川分布図です。

吉田東伍は、この一体全部が流海あるいは香取の海と呼ばれていた一続きの海であることを表現するとともに、その中で印旛浦、葦原(谷原)、榎浦、香澄流海(内海)、(東條浦)、香取浦、板東洲、鹿島流海、浪逆海、(海上潟)、若松浦等の名称を示しています。

印旛浦の位置
基図は標高8m以下抽出図(縄文海進最盛期海面イメージ)

2 奥印旛浦の範囲
奥印旛浦という用語はこのブログの造語です。
奥印旛浦の範囲を次のように設定します。

奥印旛浦の領域
基図は標高8m以下抽出図(縄文海進最盛期海面イメージ)

奥印旛浦という地域概念をつくると、弥生時代遺跡密度の説明に使えるだけでなく、古代~近世の歴史検討の道具にも使えると想定しています。
奥印旛浦は舟運幹線交通路であるとともに、外部からは入りにくい場所でもあり、小盆地みたいな性格があると思います。一つの小世界、小宇宙としてまとまりがある地域です。

奥印旛浦という用語を使うと、土地の過去のイメージを豊かに想起できる可能性が高まります。

私自身も含めてほとんどの千葉県民が、奥印旛浦という地域範囲を、かつて入海であったという感覚でイメージすることに強い抵抗感を持ちます。

その抵抗感が生じる原因の一つに利根川とか印旛沼という河川水系をイメージする言葉(概念)が土地にかぶさっているということがあると思います。

「印旛沼は細長く河川であり、そこに水が溜まって沼になっている。」とだれでも無意識的に考えてしまいます。海概念が入りこむ隙間がありません。

しかし、奥印旛浦という言葉を使えば、印旛沼ではなく印旛浦ですから海であることが判ります(強制的に示される)し、奥という言葉から上流下流という河川の捉え方ではなく、内海が奥深くまで入っているというイメージを持つことが出来る可能性が高まります。

参考 標準地図と標高8m以下抽出図のオーバーレイ図
奥印旛浦は成田市、酒々井町、佐倉市、印西市のみならず白井市、船橋市、八千代市、四街道市の谷津の奥深くまで広がっていました。

参考 旧版2.5万地形図と標高8m以下抽出図のオーバーレイ図
この地図により、大正年間測量地図による印旛沼分布と標高8m以下抽出図(縄文海進最盛期海面イメージ)を対照できます。
奥印旛浦が、海面低下、土砂堆積、埋立等により6000年間程の間に縮小した範囲(=ブルー塗り沖積地)がわかります。

0 件のコメント:

コメントを投稿