2014年12月24日水曜日

地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.30 地名「検見川」は俘囚尋問に由来する

2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」で、花見川河口津に古代律令国家の治部省玄蕃寮の出先機関があった可能性がきわめて濃厚であることを述べました。

玄蕃寮は国内の夷狄(蝦夷・隼人等)の管掌を行っていたことから、花見川河口津に陸奥国から送られた蝦夷戦争俘囚の移送中継施設があり、それが小字名「玄蕃所」として現代にまで伝承してきていると考えました。

さて、小字名「玄蕃所」は近世「検見川村」に位置します。昭和初期検見川町の大字検見川にふくまれます。検見川は少なくとも中世から地名として存在しています(角川日本地名大辞典)。

近世検見川村の領域

この地名「検見川」の意味説明は、私はこれまで納得のいくものがありませんでした。

ところが、この検見川の地に玄蕃所という特殊施設(俘囚一時収容施設)があることに気がつくと、私は、一気に検見川の意味が脳裏に浮かびあがりました。

自分の感情レベルでは「検見川」語源を探り当てたと思うようになりました。

陸奥国から送られてきた俘囚は、玄蕃所で検見(「よく見て調べること」精選国語大辞典、小学館)されたのです。

俘囚は花見川河口津まで水運で運ばれてきて、玄蕃所で尋問され(検見され)、その思想性や健康状態などを検査され、隼人などのように精強な軍事組織に組み入れるグループ、貴族の使役奴隷に回すグループ、各地の地域開発の労働力奴隷として回すグループ、…などに分類されたのだと思います。

つまり、花見川河口津の「玄蕃所」における検見(けみ)で俘囚の運命が決まったのだと思います。

俘囚とはいえ、同じ人間の運命が、それも多人数の運命が「玄蕃所」で決まることは、恐らく近隣の人々に一種の心理的影響を与えたと考えます。

その心理的影響から、玄蕃所のある地域一帯の地名が「検見川」となったと考えます。

俘囚は遠く陸奥国から水運で運ばれ、印旛浦、花見川-平戸川船越、花見川を経由して花見川河口津に到着し、そこで検見され、運命が決まったのです。

運命が決った俘囚は花見川河口津から東京湾に船出し、西方各地に送られて新しい境遇人生が始まったのです。

花見川河口津付近の人々は、俘囚が水運で運ばれてくる花見川を、俘囚の運命が決ることに思いを深めて、検見川と呼んだのだとの思います。

検見川とは自然現象の川、風景としての川ではなく、俘囚が運ばれてきて、この地でその運命が決ってしまうという、その俘囚の運命に移動経路の川を重ねた一種の比喩語です。

アフリカ大陸を暗黒大陸などと比喩するのと同じ言葉使いです。

その比喩語検見川が地名となったのです。

その後玄蕃所がなくなって検見川の意味は全く忘れられてしまったのだと思います。

ただ地名は、恐ろしく愚直に現代まで伝承してきているのです。

8 件のコメント:

  1. 「ケミ」(検見・花見)という語根は、湿地や氾濫原を表しているという説を、国土地理院併設の「地図と測量の科学館」で紹介しています。文字に引っ張られて、いろいろ想像をたくましくするのも楽しいですが、ちょっと牽強付会ですね。

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  2. 匿名さん コメントありがとうございます。国土地理院サイトを見ました。「川や湿地などを表す地名の一例」として「ケミ」(例 検見川・花見」として紹介されていました。出典として遠藤(2013)とありますから遠藤宏之著「地名は災害を警告する」(tanQブックス、2013)からの引用です。国土地理院サイトの趣旨は地名から川や湿地を、あるいは災害の予兆を読むことができるということだと思います。国土地理院という社会的権威が千葉市花見川区の地名検見川の語源を語っているわけではありません。遠藤さんという方は花見川区検見川の語源を川や湿地を表す「ケミ」と考えたのだと思います。特定場所の地名語源を自然科学のように証明することは不可能の場合が多いです。どの語源説が多くの人から「その通りだ」と受け取られるかという社会状況があるだけです。地名辞典などを見ると花見川区検見川の語源説がいろいろと説明されています。匿名さんから花見川区検見川の地名語源が確かに川や湿地に由来すると感じられる理由や感想をお聞かせいただければありがたいです。

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  3. 印旛沼~新川~花見川(検見川)がつながったのは昭和40年頃なので、古代には東北から検見川への水運は開かれていなかったと思います。

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  4. 匿名さん コメントありがとうございます。古代に花見川と新川流域を結ぶ直線短区間陸路(船越)が整備され、花見川と新川の水運が結ばれていたという仮説「東海道水運支路仮説」が大前提にあります。このブログを「東海道水運支路仮説」で検索してください。当方の考えを理解していただけると思います。

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  5. 荒木様

    大変興味深く、拝見させて頂きました。
    当方、検見川出身で地名の由来が気になっていましたが、「検見=役人が年貢高を調べること」ぐらいの認識でした。

    ただ、玄蕃所があったことは事実として、時代が下ると俘囚の地位を特別視することはなくなった点や玄蕃寮の職掌として「外国使節の送迎・接待」とあることなどから必ずしも玄蕃所があったからといって“検見”とは限らないとも感じました。


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  6. 匿名様 コメントありがとうございます。俘囚=外国人捕虜ということでその対応役所が玄蕃寮だったのだと思います。俘囚が能力に応じて多様な職種・地域に労働力として配布されたのは事実ですが、その選別場所が花見川区検見川の玄蕃所であったという判断は私の想像です。その想像は花見川‐新川-印旛沼-香取の海ルートが古代東海道の水運支路であったという私の持論(仮説)に基づきます。小字「玄蕃所」の隣の小字は「居寒台」(いさむ=勇む)で軍事的な地名となっています。玄蕃所は外国人軍事捕虜の検見(尋問)の場であったと地名から想像できます。この付近の遺跡出土物からは官人存在を示す鉸具及び丸鞆も出土しています。ただし歴史専門家による検見川とか玄蕃所とかの地名にふれた研究はこれまでないようです。

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  7. 荒木様

    ご返信誠にありがとうございます。

    荒木様の自説に基づいた筋道だったご主張、大いに納得致しました。

    私の育った土地をこれほどまでに深く考察された説は見たことがなかったので、とても嬉しく思います。
    今後も地域に根差した研究をどうぞよろしくお願い申し上げます。

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  8. 匿名様 ありがとうございます。地名「検見川」の由来についてのこのブログ記事は7年前のものです。しかし、その後継続して閲覧数が続いています。また匿名様はじめいくつかのコメントをいただき、皆様の関心の高い話題です。そこで、近々改めて地名「検見川」由来仮説をまとめて記事にしたいとおもいますので、よろしくおねがいします。

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