2015年7月1日水曜日

八千代市権現後遺跡の活動活発時期イメージ

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.159 八千代市権現後遺跡の活動活発時期イメージ

八千代市権現後遺跡のゾーン別年代イメージを把握しておきます。

1 萱田地区遺跡の竪穴住居消長図
「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に萱田地区遺跡の竪穴住居消長図が掲載されています。

その図に、竪穴住居活動が活発であった時期が前半期(主に8世紀代頃をイメージ)のものと、後半期(主に9世紀代頃をイメージ)のものに2分した色分けをして、検討図を作成してみました。

権現後遺跡及び近隣遺跡の竪穴住居消長

この2分割塗色の目的は、あくまでも遺跡消長の最初の大局観を得るためであり、正確な遺跡消長を知ろうとしているのではありません。

2 竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分
この図に基づいて、権現後遺跡及び参考として北海道遺跡、白幡前遺跡・井戸向遺跡の活動活発時期区分色分け図を並べてみました。

権現後遺跡 竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分

参考 北海道遺跡 竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分

参考 白幡前遺跡・井戸向遺跡の竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分

権現後遺跡の活動活発時期は4a期(9世紀前半)から5期(9世紀中葉)ということになります。

萱田地区全体の時代感覚を現時点では次のようにイメージしていますので、メモします。

●1期(8世紀中葉)~3期(9世紀初頭)
蝦夷戦争の最盛期。
律令国家による東国からの将兵、軍需物資の大量徴発・動員が行なわれる。
花見川-平戸川筋が東京湾と香取の海を結ぶ軍事水運路(東海道水運支路)として建設される。
東海道水運支路の最大中継拠点(軍事兵站・輸送基地)が計画的に建設される。(白幡前遺跡1A・1B・2A・2Bゾーン、井戸向遺跡Ⅲ・Ⅳゾーン、北海道遺跡Ⅶ・Ⅷゾーン)

●4期(9世紀前半)~5期(9世紀中葉)
蝦夷戦争のための将兵や軍需物資の直接大量徴発・動員は無くなっていた。
しかしまだ戦争下という緊張感があり、俘囚の反乱などがあった。
律令国家はまだ手を引いたわけではなく、軍事兵站・輸送基地の強化に取り組んでいた。
その一環としての基地機能拡大と基地を支える地域開発(農業開発)の双方が元々の基地周辺で計画的に行われた。(白幡前遺跡2C・2D・2E・2F・3ゾーン、井戸向遺跡Ⅰ・Ⅱゾーン、北海道遺跡Ⅰ・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴゾーン、権現後遺跡Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳゾーン)

●6期(9世紀後半)~7期(9世紀末)
蝦夷戦争が去り、その緊張感がなくなった。
軍事兵站・輸送基地の存在意義が消滅し、律令国家が萱田地区から手を引いた。
基地機能は廃絶した。(白幡前遺跡2Aゾーンの寺院の廃絶などに見られる。)
同時に東海道水運支路も廃絶した。
一部集落の活動が残った。(白幡前遺跡2Cゾーンなど)

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