花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.165 古代氏族「丈部」(ハセツカベ)と萱田地区の丈部一族
萱田地区遺跡から丈部の姓が多出し、丈部一族が支配層であったことがわかりました。
古代氏族の丈部は佐伯有清編「日本古代氏族事典」(雄山閣)に次のように説明されています。
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丈部 はせつかべ
杖部・丈使にも作る。丈部の氏名は丈部という部民名に因む。「新撰姓氏録」左京皇別下に「丈部。天皇彦国押人命孫比古意祁豆命之後也」とみえる。丈部の分布は、東海道では遠江国・駿河国・伊豆国・甲斐国・相模国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国、東山道では近江国・美濃国・上野国・下野国・陸奥国・出羽国、北陸道では越前国・越中国・越後国・佐渡国にみとめられる。このほか山陰道の出雲国、山陽道の周防国にもみられるように丈部は東国に重点をおいて設置されたとみられる。東国には「続日本紀」天応元年(七八一)正月乙亥条にみえる下総国印幡郡大領外正六位上丈部直牛養のように直姓をもつ郡司層が多見できるが、彼らの祖は大化前代、国造あるいはそれに準ずる豪族であり、丈部の伴造と考えられる。丈部の性格は、令制下の駈使丁の前身で、その意味は「走り使い部」で宮廷における雑用に使役されるものとする見解が定説化していたが、昭和五十三年(一九七八)、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に「杖刀人」と刻まれていることが判明して以来、「杖刀人」が丈部=杖部に通じ、軍事的性格が強いとの新説が出された。「万葉集」に、大伴三中が自殺した部下史生丈部竜麻呂を悼んで、「天雲の、向伏す国の、もののふ(武士)と、言はるる人は、天皇の、神の御門に、外の重に、立ち候ひ、内の重に、仕へ奉りて、玉かづら、いや遠く、祖の名も、継ぎ行くものと、母父に、妻に子どもに、語らひて……」(巻三-四四三)と歌った。ここから、丈部氏が昔から歴代宮廷の警護・雑使に任じられ、単に走り使いをする部民ではなく、軍事的部民であるとみられている。また丈部造子虫は「正倉院文書」に使部子虫とみえ、丈部が使部と書き表わされていることから、丈部は令制下の駈使丁ではなく、軍事的色彩の強い使部の前身と説き、鉄剣の「杖刀人」こそが杖部の前身とする所説がある。
【参考文献】太田亮「姓氏家系大辞典」、栗田寛『新撰姓氏録考証」、大塚徳郎「平安初期政治史研究」、同「みちのくの古代史」、佐伯有清「丈部氏および丈部の基礎的研究」(「日本古代史論考」所収)、同「新撰姓氏録の研究」考証篇第二、岸俊男「万葉集からみた新しい遺物・遺跡ー稲荷山鉄剣銘と太安万呂墓1」(日本古代の国家と宗教」上所収)〔関口〕
佐伯有清編「日本古代氏族事典」(雄山閣)から引用
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また同書の「阿倍」(アベ)の項では丈部が阿倍氏管掌下にあり、丈部の分布が広く東国・北陸に及んでいることから、阿倍氏が大和政権の東国・北陸経営に深く関与していたことが記述されています。
平凡社世界大百科事典では次のように説明されています。
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はせつかべ 丈部
古代の部の一つ。丈部氏は出雲,美濃,尾張,遠江,駿河,相模,武蔵,下総,上総,常陸,上野,下野,越中,越前,佐渡,越後,陸奥などに分布しており,出雲をのぞいて東国に多く集中している。姓〘かばね〙は臣,連,造,直,史などがあるが,このうち丈部臣は出雲と京にしかみえない。連,直の姓をもつものは,東国の地方豪族であったらしく,下野国河内郡上神主廃寺の瓦を寄進している知識(連姓)や下総国印幡郡大領(直姓),武蔵国足立郡出身の同国国造(直姓)などがみえる。丈部は▶阿倍氏の部民であったとされ,〈はせつかう〉の意味で丈部を名のらされたのだといわれている。丈部氏と阿倍氏とは密接なつながりがあったらしく,8世紀には,しばしば丈部氏に阿倍氏への改氏がみとめられている。出雲以外は東国に丈部氏が広く分布していることも,大和政権が統一的,全国的に設定した職業部民とは異なって,阿倍氏という特定の氏族に隷属していたからで,同氏が東国への大和政権進出に際して活躍したからだといわれている。
鬼頭 清明
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ
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「「続日本紀」天応元年(七八一)正月乙亥条にみえる下総国印幡郡大領外正六位上丈部直牛養のように直姓をもつ郡司層」の丈部直牛養と萱田地区出土墨書土器の丈部姓の者との間には密接な関係があったと考えます。
古代氏族丈部に軍事的性格が強く、その一族の者が萱田地区の支配層であり、萱田地区が軍事兵站・輸送基地であったという一連の事実は整合的合理的に捉えることができます。
墨書土器文字「生」を「白兵戦で生き残る」、「継」を「都と戦地を繋ぐ」と解釈しましたが、こうした解釈が基地支配層が軍事的性格が強いと知り、的確な解釈であるという感想を持ちます。
丈部一族が軍事・兵站に仕える愚直でひたむきな気風を持っていたことを感じます。
花見川風景
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