花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.171 萱田遺跡群の紡錘具 その1
萱田遺跡群の紡錘具について検討します。
紡錘具は紡錘車ともよばれ、麻や絹の繊維を糸に紡ぐ道具です。
井戸向遺跡Ⅰゾーン出土紡錘具の例
「八千代市井戸向遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅳ- 図版編」(1987、住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用
萱田遺跡群の紡錘具出土状況は次の通りです。
萱田遺跡群の紡錘具出土状況
白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡の各発掘調査報告書から集計
この表から竪穴住居100軒あたり紡錘具出土数をグラフにすると次のようになります。
竪穴住居100軒あたり紡錘具出土数
紡錘具の出土状況は竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数と類似した状況になっています。
参考 竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数
紡錘具は農業開発集落(北海道遺跡)で最も少なく、逆に農業とはもっとも縁遠いと考えた白幡前遺跡で最も多いことから、紡錘具という道具は農業生産とは別次元の道具であると考えざるをえません。
麻を栽培し麻繊維という原料を生産すること、あるいはカイコの飼育と繭を生産することは農業生産プロパーであったと考えます。その部分は農業専業的集団が担当したと考えます。例えば北海道遺跡が担当したと考えます。
しかし、その原料を使って糸を撚り、糸から織物をつくり、さらに被服をつくるという作業は農業専業的集団とは離れ、掘立柱建物を共有する小集団毎に自給自足的作業で対応していたと考えます。
例外を除いて(集落=軍事基地の指導トップクラスや寺院を除いて)全ての小集団(特定ミッションを持つ組織集団)が糸撚りと機織りを自ら行い、自分達の日常的被服を調達していたと考えます。(例外については次記事で説明予定。)
そう考えると、権力の強弱(つまり掘立柱建物の多少)と紡錘具出土量が比例することが合理的に理解できます。
なお、権力の中心であった白幡前遺跡でのみ鉄製の紡錘具が出土します。
紡錘具には鉄製、石製、土器リサイクル製の3種類がありますが、鉄製が最も重いため回転慣性力が強く、糸撚りを最も効率的に行うことができます。つまり鉄製紡錘具は同じ紡錘具でも最も高機能品です。
鉄製紡錘具の割合
鉄製紡錘具が白幡前遺跡でしか出土していないということは、白幡前遺跡の住民が権力(財力)を持っているため高機能品を入手でき、被服に関する自給自足生活を最も効率的に行えたことを示しています。
同時に、白幡前遺跡には被服廠の存在が推定されることから(2Fゾーンの墨書土器文字「廿」(ツヅラ)出土から推測)、鉄製紡錘具は住民の日常的被服作成のためではなく、軍服作成のための道具だったとも考えることができます。
鉄製紡錘具を使って効率的に糸を撚り、掘立柱建物の広い空間で効率的な機織りをして布をつくり、その布で軍服を作成していたという被服工場があった可能性も考えられます。
「廿」(ツヅラ)という墨書土器文字は単に被服の倉庫があったという意味ではなく、紡績・機織り・縫製工場併設も意味するのかもしれません。
北海道遺跡は農業開拓集落と考えていますが、北海道遺跡のような集落が麻栽培と麻繊維をつくっていた、あるいはカイコの飼育と繭生産を行っていたと考えます。
しかし、繊維から糸を撚り、機織りして布をつくり、さらに被服をつくるという自給自足工程では、社会的地位が低いために(権力や財力が弱いため)道具である紡錘具の数が僅かしかなかったと考えます。
従って、住民の被服は近隣と比べてお粗末であったと考えます。
つづく
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