花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.166 印旛における丈部一族に関する疑念
墨書土器文字「丈部」(ハセツカベ)は萱田地区のみならず印西市鳴神遺跡など印旛沼地域の各地から出土しています。
丈部一族が8~9世紀頃には印旛沼地域の支配層であったと考えられます。
その墨書土器を書いた支配層であった丈部一族の出自に関して、自分の疑念がますます深まり、頭から離れない状態になっています。
判ったことを書きとめるのがブログ記事だと思いますが、久しぶりに判らないこと、疑念を記事にします。
丈部一族が阿倍氏の管掌下で北陸・東国に展開した軍事的性格の強い氏族であることは既に学習しました。
この北陸・東国に分布している丈部一族の一支族が印旛沼地域の丈部であると考えます。
その印旛沼地域の丈部の出自に関して次の2点について判らず、疑念を深めています。
1 8~9世紀頃萱田地区などで支配層であった丈部は、もともと村神付近に勢力を持っていた土着グループが丈部に衣替えしたものか、それとも土着勢力とは別に、西方からやってきた新参外来グループであるか?
萱田地区は村神の対岸の「新地」に建設されていること、墨書土器文字が質実剛健の軍事気風をしめすことなどから、在来勢力が丈部に衣替えしたとは考えられにくいのですが、不明です。
2 丈部と秦氏グループとの関係は?
萱田地区でも、鳴神遺跡でも近くに「白幡」という小字が残っています。
「白幡」は新羅系秦氏の居住地(だったこと)にちなみ、後代の人々が付けた地名であると考えます。
印旛沼地域の丈部と新羅系秦氏グループの関係がどうしてもわかりません。
地理的分布からは、丈部と地名「白幡」との間に何かの結びつきがあるように感じてしまいます。
疑念が深まっています。
このような記事は、自分の知識や思考力レベルの低さをさらけ出すことになります。
しかし、この疑念の検討を進めることによって自分の知識の質的向上を図ることができるような気がします。
あるいは今、重要な事実を発見する前段階であるような予感もしますので、敢えてメモしました。
花見川風景
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