2016年8月17日水曜日

上谷遺跡 遺構分布図作成

上谷遺跡の奈良・平安時代竪穴住居、掘立柱建物、土坑、溝状遺構の分布図を八千代市教育委員会の技術アドバイスも得て、やっと作成しました。

次の発掘調査報告書の情報を1枚の分布図に集成しました。


「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊-」(2001、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第1分冊本文編-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)

発掘調査報告書は発掘調査区毎の細分された分布図とその検討のみが行われていて、遺跡全体の分布とりまとめや考察はありません。

1 遺構分布図作成

1-1 竪穴住居分布

次に上谷遺跡奈良・平安時代竪穴住居分布を示します。

上谷遺跡 竪穴住居 基図は地理院地図(標準地図)

基図を地理院地図(標準地図)にすると現代開発前の台地・谷津地形の概況が判りませんから、このブログでは基図を旧版2万5千分1地形図(大正年間測量)とします。

上谷遺跡 竪穴住居 基図は旧版2万5千分1地形図

竪穴住居は発掘区域に一様に分布するのではなく、明瞭な分布上の粗密が読み取れます。

1-2 掘立柱建物分布

上谷遺跡奈良・平安時代掘立柱建物分布を示します。

上谷遺跡 掘立柱建物

掘立柱建物の分布は竪穴住居以上に分布が偏在しています。

1-3 土坑分布

上谷遺跡奈良・平安時代土坑分布を示します。

上谷遺跡 土坑

土坑分布も粗密に特徴があります。

1-4 溝状遺構分布

上谷遺跡奈良・平安時代溝状遺構分布を示します。

上谷遺跡 溝状遺構

2個所に見られ、1個所は台地を東西に走り、1個所は台地崖脚部に存在します。


2 遺構分布ヒートマップ作成

遺構分布の特性つまり分布粗密の特性を把握するための分析資料として遺構別ヒートマップを作成しました。

ヒートマップ作成はカーネル密度推定(半径パラメータ50m)によりQGISの機能を利用して作成しました。

2-1 竪穴住居ヒートマップ

上谷遺跡 竪穴住居ヒートマップ

竪穴住居密度が高い空間が赤色で示されています。

赤色の空間は6つのゾーンに区分できそうです。

2-2 掘立柱建物ヒートマップ

上谷遺跡 掘立柱建物ヒートマップ

掘立柱建物密度が高い空間、つまり赤色の空間は大局的にみれば2個所であり、それぞれがまた2つから構成されているように観察できます。

2-3 土坑ヒートマップ

上谷遺跡 土坑ヒートマップ

遺跡西部に大きな高密度空間(赤色空間)が、遺跡中央にも赤色空間があります。

遺跡北部にも赤より色の薄い空間が存在します。



遺構のヒートマップを作成することにより、遺構の空間分布特性を把握して操作できるよになりました。

この情報を操作して、次の記事で遺跡(集落)のゾーン区分推定(機能や集団単位の推定)を行います。

集落ゾーン区分推定(機能や集団単位の推定)を念頭において出土遺物の検討を行うことにより、集落の特性をより合理的かつ深く把握できると考えます。


2016年8月15日月曜日

上谷遺跡 遺構分布と遺構番号の対照作業

2016.07.29記事「千葉県八千代市上谷遺跡の学習検討方針」で書いた通り上谷遺跡の発掘調査報告書全6冊のうち、第4分冊の遺構分布図には遺構番号が出ていません。

八千代市教育員会(八千代市遺跡調査会の母体)に遺構配置図と遺構番号の対照方法を問い合わせたところ、次のような方法を教えていただきましたのでメモしておきます。

なお、竪穴住居については対照結果を分布図として提供していただきました。

八千代市教育委員会に感謝申し上げます。

1 遺構分布と遺構番号の対照方法

報告書中の大グリッド位置図及び中グリッド番号体系図(今回教育委員会から提供していただく)を遺構分布図にプロットする。

そのグリッド番号書き込み遺構分布図と報告書文章記述を対照させて遺構の番号を確定する。

遺構分布と遺構番号を対照させるために使える情報

2 遺構分布と遺構番号の対照作業

大グリッド位置図と遺構分布図のオーバーレイをIllustrator上でおこないました。

遺構分布図にはグリッド情報が全くありません。

同時に大グリッド位置図の遺跡境界線が東側で合いません。

その不都合とはまた別に、大グリッド位置図の縦横の縮尺が変動してしまっていて、大グリッドが正方形ではありません。

従って各種地図技術上の工夫補正はしましたが正確性に著しく疑問が生じるプロットしかできません。

大グリッド位置図と遺構分布図のオーバーレイ結果(Illustrator)

大グリッド位置図にグリッド番号をプロットして、大グリッド位置図を消すと遺構分布図にグリッド番号をプロットできます。

遺構分布図にグリッド番号をプロットした結果(Illustrator)

この資料と報告書文章記述(および報告書掲載遺構スケッチ図)にもとづいて、遺構番号を図上で対照させ、書き込んでいきます。

Illustrator上で遺構番号を書き込んだ地図画像ができれば、それをGIS(地図太郎PLUS)にプロットして、遺構データをGIS化します。

3 感想

上谷遺跡は珍しいヘラ書人面土器が出土している八千代市の中でも有名な遺跡です。

それにも関わらず遺構番号を地図上で確認できない発掘調査報告書がそのままになっていることが残念でした。

行政が行う一般各種調査で、もしこのようなことがあれば、報告書の基本的利用が阻害されてしまいますから、仮に出版されてしまっても正誤表を作るなりすると思います。

実務担当者もその管理者も知らなかったということはあり得ないことです。

このような業務管理問題が放置されていることから、発掘調査報告書というものが世の中でほとんど利用されていないという実態を垣間見てしまったのかもしれません。

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参考 第4分冊掲載 有名なヘラ書人面土器







2016年8月13日土曜日

参考 墨書文字「万」が構成する熟語

上谷遺跡の墨書文字「万」の検討の事前調査の一環として、全国墨書土器データベース(明治大学)から文字「万」を含む事例を全部抽出して統計的に分析してみました。

次の表は「万」が熟語中のどの部分に現れるか整理して、出現頻度の高いものだけを事例的に示したものです。

釈文に万が含まれる墨書土器文字 一部

全国墨書土器データベース(明治大学)による


この表から墨書土器「万」の特徴について検討し、箇条書きでまとめてみました。

1 語尾出土と単独出土「万」の重要性 

語尾に万がくる熟語が最多(1671)であり、次いで万単独出土(1332)、語頭に万(426)、語中に万(242)という順番になります。

語尾に万がくる熟語と万単独出土の数が他より特段に多く、その二つの語法に万の主要な意味が隠されていると考えます。

2 □や○で囲まれた「万」の意味

万の単独出土には「□で囲む」「○で囲む」や記号で囲むものが7-8%含まれていて他の文字には見られない特徴となっています。

万を「□で囲む」「○で囲む」のは、万の意味が単純な豊かさ祈願・福徳祈願ではなく、祈願すべき社会的機能の存在を暗示しているように感じます。

万を「□で囲む」「○で囲む」のは万が政所(マンドコロ)を指しているという仮説を支持する情報であると考えます。

近世から現代でも、質屋は質に○、酒屋は酒に○などがあり、囲み文字が屋号となったものがあります。

万を○で囲む例 北海道遺跡

万を□で囲む例 大網山田台遺跡群 猪ヶ崎遺跡

現代の質屋、酒屋、米屋のロゴ例

3 語尾「万」の前の文字には意味がある 

語尾に万がくる熟語では万の前の文字の多くは数詞を含めてそれぞれ意味があると考えます。

数詞はその読み(音)からその意味をたどることができると考えます。

数詞が意味のない「多数を表すにすぎない」とする上谷遺跡発掘調査報告書の説明には賛成できません。

上記表に出ている万の前の文字の意味を全て解釈することは出来ませんが、上谷遺跡近隣遺跡の検討を参考にすると次のように解釈できる可能性があります。

千…銭(取引)
廿(廾)…ツヅラ(衣服)
中…上中下の中(組織の中の位置)
大…「大」を祈願文字とする集団
上…上中下の上(組織の中の位置)
六…陸奥
七…質、漆(シチ)
生…生糸
得…犢(子牛)
牛…牛
山…耕地
稲…稲
寺…寺

語頭の同じ文字の意味が遺跡によって異なる可能性があると考えます。

特に数詞は文字をほとんど知らない人も読める可能性が高い文字ですから、その読み(音)を利用して数とは別の意味を表現するという方法が墨書土器では一般的であったと考えます。

4 語尾「万」がつくる熟語の2つの解釈 

語尾に万がくる熟語の解釈候補として次の2つをあげることができます。

ア 豊かさ(数量の多さ…福徳)の祈願

イ 政所(マンドコロ…社会統治機構末端の現場拠点)活動の発展祈願

語頭の文字と万の組み合わせは、イの場合(政所の場合)すべて解釈することができます。

しかし、アの場合(数量の豊かさの場合)、中、大、上、六、七(質の場合)、山、寺では祈願の解釈が困難です。あるいは複雑な思考を前提とすることになります。

アの祈願であるか、イの祈願であるかの直接判断は遺跡毎に他の出土物との関係等を踏まえておこなうしか方法はないと考えます。

しかし、近隣遺跡の既学習から、集落が大発展した時期が9世紀中葉から後葉であると考えられます。

その時期には俘囚の反乱などがあり集落の武装化も進んでいますから、現場の末端統治機構(つまりマンドコロ)の役割は大きくなってきています。

集落の生産活動組織と統治機構とは同じと考えてよいと考えられますから、私は「~万」の解釈はほとんど全てイの政所(マンドコロ)活動の発展として考えることが適切であると考えます。

5 語頭「万」熟語は豊かさ祈願

語頭に万がくる熟語は豊かさ(福徳)の祈願として解釈できるものが多いという印象を持ちます。

最多出土文字の万足はマンゾク(満足)と読めます。

(自分が願っている物、活動等が)十分であること、たりることを祈願していると考えます。

万足を「政所の活動がたりること、十分であることの祈願」として解釈するこは論理的に不可能ではありません。

しかし、そのような思考(祈願)は積極性に欠け、現状維持のような印象を受けますからおそらく正解としての可能性は低いと考えます。

6 文字に挟まれた「万」の多くは人名 

熟語の中に挟まれている万のほとんどは~万呂であり人名であると考えます。

人名以外に重要な事例もこの中に含まれています(例 山邉万所 など)がすでに検討しました。

2016.08.11記事「墨書文字「万」が政所(マンドコロ)を意味している事例」参照




2016年8月11日木曜日

墨書文字「万」が政所(マンドコロ)を意味している事例

上谷遺跡の墨書文字「万」について、発掘調査報告書では多くの富を得たいという願望に関わる福徳の祈願であると考えています。

このブログでは近隣遺跡でも多く出土する「万」の多くが政所(マンドコロ)の意味であると考えています。

今後上谷遺跡のデータを詳しく分析しますが、それに先立ち、視野を千葉県全体に広げると「万」を政所(マンドコロ)の意味で使っている可能性が極めて濃厚な遺跡事例がありますので、参考に学習した結果を紹介します。

1 大網山田台遺跡群の位置

大網山田台遺跡群の位置を次に示します。

大網山田台遺跡群の位置

大網山田台遺跡群は古代上総国山辺郡に位置し、近くの郷は山口郷、高文郷です。

2 大網山田台遺跡群から出土する墨書文字「万」

大網山田台遺跡群から出土する墨書文字「万」を整理しました。

大網山田台遺跡群 墨書文字「万」

●万所は政所(マンドコロ)である

「万所」3、「山万所」1、「山邉万所」1、「万所□□」1点の合計6点の万所は漢字の読みから、政所(マンドコロ)と解釈して間違いないと思います。

この場所が古代山辺郡に属していて「山邉万所」が出土するのですからこの解釈の蓋然性は高いものがあると考えます。

また、「山万所」の山は山辺郡の山か、山口郷の山のどちらかだと思います。

●万も政所(マンドコロ)である

「山口子万」が出土します。

山口は山口郷と考えて間違いないと思います。

子はこのブログで蚕(コ)であることを突き止めました。

2016.03.26記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」参照

従って万の解釈は次のような構造の中で行う必要があります。

地名(自分がいる場所)+蚕+万

もし万を富を増やしたいという祈願語として考えると次のような解釈になります。

「山口郷の繭の生産を増やしたい。」

墨書土器は、それで、個人が自分の願望を祈願するものですから、平仄があいません。

山口郷の繭生産を増やしたいという行政的、計画的、統治的願望が墨書文字で書かれるということはあり得ないと思います。

万を政所(マンドコロ)という意味で考えると次のような解釈になります。

「(私が所属して活動している)山口郷繭生産を取り仕切っている政所の発展を祈願する。」

山口郷で、住民や俘囚・奴婢を働かせて繭生産を取り仕切っている生産単位が政所(マンドコロ)と呼ばれていて、その生産単位の活動発展の祈願が「山口子万」(ヤマグチコマンドコロ)になったのだと解釈します

この検討から万は1語でもマンドコロと読み、政所と解釈できることが判ります。

●万(政所(マンドコロ)の階層性

「文万」2点、「文万坏」1点が出土します。

文は地名高文郷の文であると考えることが合理的であると考えます。

そのように考えると、上で検討した「山万所」は山口郷に対応してと考えることができそうです。

つまり次のような郡・郷に対応した政所(マンドコロ)が墨書されていたと考えます。

上総国山辺郡に対応した政所…「山邉万所」

山辺郡山口郷に対応した政所…「山口子万」、「山口万」

山辺郡高文郷に対応した政所…「文万」、「文万坏」

このように考えると、万=政所(マンドコロ)という概念は階層的であることがわかります。

社会統治(生産統治)は階層的であり、現場の政所(マンドコロ)から郡全体を束ねるような政所(マンドコロ)まで存在したと考えます。

隣組的現場生産単位までマンドコロと呼んでいたならば、祈願語「万」を書く人数は膨大に上ると考えます。

また、子万にみられるように生業集団別にマンドコロが存在していたと考えます。

私は次のようなマンドコロの存在を想像しています。

生万…養蚕(生糸)
田万…稲作
廿万…布生産(ツヅラ)
千万…取引(銭)

現時点の私の学習段階では、大網山田台遺跡郡の墨書文字「万」は単独出土を含めてほとんど政所(マンドコロ)の意味であると想定します。

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参考

まんどころ 【政所】

①財政や訴訟など日常的政治実務を処理した政庁。

政所の語は奈良時代の史料にもみえ,8世紀中期には〈造東大寺司政所牒〉〈筑前国政所牒〉などもみえる。

大宰府や国などの政府出先機関や半ば公的性格をもっていた大寺社などは,早くからその財政に関する収納や給田などの実務と,訴訟の受理・裁断,人事の管理,使者の発遣,文書の受理・発給・保管などの日常的政治支配を行う機関として政所を設置し,またその庁舎である政所屋〘まんどころや〙をもときに政所とよんでいた。

荘園制が盛行する11世紀以降には,荘園の現地に政所をおき,日常的な徴税や荘民の訴論を処理したところも少なくない。

②諸家の家政機関。

律令制では親王および職事の三位以上の家は,〈家令職員令〉に規定された▶家司〘けいし〙によって家事を処理する一種の公的機関でもあったが,平安中期になると親王・公卿家の家政機関として別当以下の役員をそなえた政所が整えられる。

おそらく地方土豪の托身などによる家人〘けにん〙の増加や,家領荘園の拡大による家政の膨張がその原因だろう。

特に摂関家政所では別当,令,知家事,案主,従などに分掌化した多くの家司を抱え,彼らは殿下御領,家領荘園,氏人の進退などのほか一般政治にも関与した。

11世紀には下達文書として〈摂関家政所下文〉の様式も定まるが,これは家産の領域を超えて諸権門の利害調停という国家的機能をも果たした。

貴族社会では三位となって資格を得ると政所を置くのが普通となり,婚姻や▶移徙〘わたまし〙があると政所始〘まんどころはじめ〙の儀式を行った。

妻は無位でも夫が資格を得ると政所を置いたが,その政所は夫とは別であった。

後世,摂関家をはじめ貴族の妻を政所,北政所〘きたのまんどころ〙と称するようになる理由はここにあったと考えられる。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
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この記事の検討は千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)のデータだけで行いました。

発掘調査報告書は閲覧していません。

後日発掘調査報告書を閲覧して、そこで墨書文字「万」がどのように解釈されているか学習し、ブログ記事で報告します。






2016年8月10日水曜日

上谷遺跡 墨書文字「万」の事前検討 その1

上谷遺跡で4番目に出土数が多い墨書土器文字は「万」です。

この記事は上谷遺跡出土墨書土器文字「万」に関する事前予備検討の第1回目です。

1 上谷遺跡出土主要墨書文字の全国出土数

次に上谷遺跡出土主要墨書文字「得」「西」「竹」「万」の全国出土数を整理してみました。

上谷遺跡出土主要墨書文字の全国出土数 表

上谷遺跡出土主要墨書文字の全国出土数 グラフ

全国的にみれば上谷遺跡の「得」「西」「竹」出土数割合は高く、上谷遺跡の検討が全国のその文字の検討と直結することが想定されます。

ところが、「万」は全国の出土数が多く、上谷遺跡での検討を安易に全国に敷衍するような発想は許されないことが想定されます。

全国レベルでの「万」の検討と上谷遺跡における「万」の検討を同時並行的に進める必要性があると直観できます。

「万」の出土数は全国的に見ても多いのですから、その検討を深めることができれば全国レベルの墨書土器文字検討にとっても大きな意義があることになります。

「万」の検討を上谷遺跡の情報だけに限定して、そのローカルデータの範囲内で解釈しようとするれば、あまり成果を期待できないと考えます。

2 上谷遺跡出土文字「万」の特性

上谷遺跡出土文字「万」の釈文別文字を次に示します。

上谷遺跡 釈文 万

「万」1文字で観察されたデータが61で最も多いのですが、「億万」「七万」「十万」「大万」「廿万」(廾万)「八万」という6つの熟語も同時に出土しています。

3 発掘調査報告書における「万」解釈

発掘調査報告書(第5分冊)では「万」について次のような解釈を行っています。

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多数の「得」「福」「富」や「万」「七万」「八万」「廿万」「大万」などは、いずれも福徳の祈願と関係するものだろう。

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

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発掘調査報告書の「万」解釈は、万が「非常に多くの数」「よろず、たくさん、すべて」という意味に着目して、多くの富を得たいという祈願であると考えたのだと思います。

しかし、なぜ「万」だけではなく「七万」「八万」「十万」「廿万」「億万」「大万」というバリエーションがあるのか説明はありません。

発掘調査報告書では、それらは具体的な数量ではなく、福徳祈願の意味だとだけ記述しています。

以上の発掘調査報告書の「万」解釈は、このブログでこれまでに検討してきた近隣遺跡における「万」解釈と対照させると、残念ながら次の2点から満足できるものではありません。

1 「万」が政所(マンドコロ)を意味する場合があるという認識が欠落している。

2 「万」熟語の数詞(例「七」)等にはそれぞれ具体的意味があるという認識が欠落している。

例えば、鳴神山遺跡では「七万」はシチマンドコロと読み、質政所の意味で解釈しました。

同時に鳴神山遺跡出土「七・知益」の解釈を、漆(シチ)・汁液の意味としました。

2016.04.04記事「漆業務発展祈願の墨書文字を認識した瞬間」参照

「万」解釈を福徳祈願で十把一絡げで処理してしまうのは思考節約が過ぎると考えます。

4 参考 墨書文字「政所」(マンドコロ)、「万所」(マンドコロ)の出土状況

上谷遺跡の「万」の検討において、「万」がたくさんの意味とは別に、それとは全く異なる政所(マンドコロ)の意味が含まれているかどうかが一つの重要な焦点になります。

そこで、参考として、墨書文字「政所」(マンドコロ)、「万所」(マンドコロ)の出土状況を調べて分布図にしてみました。

墨書・刻書土器「政所」「万所」出土遺跡

この分布図から「政所」「万所」が墨書土器文字として出土していたことが確認できます。

大網山田台遺跡群№10地点(小西平台遺跡)の「山邉万所」の山邉(ヤマノベ)は和名抄にみえる上総国山邉郡に対応していると考えますから、「山邉万所」の万所が古代郡行政とかかわる政所であることは確実です。

2016.05.27記事「古代地名「~ベ(部)」の千葉県検索結果」参照

つまり万所=政所です。

さらに「万」一文字で政所(マンドコロ)と読み、意味するかどうか、次の記事で検討します。



2016年8月9日火曜日

上谷遺跡 墨書文字「竹」の事前検討

上谷遺跡で3番目に出土数が多い墨書土器文字は「竹」です。

この記事では上谷遺跡出土墨書土器文字「竹」に関する事前予備検討を行います。


1 古代の竹に関する学習

現代社会における竹の意義と古代社会における竹の意義は根本的といっていいほど異なっているので、その面の学習を行いました。

次に『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』の竹の項の一部を引用します。

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【タケと人間】

[日本]

竹は,歳寒〘さいかん〙の三友〘さんゆう〙,すなわち,〈松竹梅〉の一つとして,日本では慶事に用いられるので,日本人と竹との密接なかかわりはよほど古い時代にまでさかのぼるかのように考えられがちであるが,その〈松竹梅〉の取合せが文献に登場するのは室町時代のことでしかなく,竹が庶民生活と離れがたく結びつくのもその時代以後のことである。

もちろん,竹は古代日本にも存在していた。竹の類を用いたと思われる遺物が発見されているし,マダケの日本自生説もある。しかし,古代の文献や古典において竹がどのように表現されているかをみる限りでは,竹はもっぱら貴族支配層によって占有され,賞美されていたものと考えざるをえない。

竹は記紀神話にはやばやと登場する。

《古事記》上巻,黄泉国〘よみのくに〙の段に,伊邪那美〘いざなみ〙命が黄泉醜女〘よもつしこめ〙をつかわして伊邪那岐〘いざなき〙命を追わしめたときに伊邪那岐が〈右の御美豆良〘みみずら〙に刺せる湯津津間櫛〘ゆつつまぐし〙を引き闕〘か〙きて投げ棄てたまへば乃ち笋〘たかむな〙生〘な〙りき〉とある。

笋は竹芽菜〘たかめな〙の義。投げた櫛がたけのこになったというのだから,櫛は竹製だったのであろう。

そして,〈斎〘ゆ〙つ爪櫛〘つまぐし〙〉というのだから,これはたんなる装飾具ではなくて鬼神や邪霊を避け退けるための呪具〘じゆぐ〙だったのであろう。

しかし,そんなに霊験を発揮する呪具だとすると,この竹製品が簡単に古代人のだれしもの手に入ったとは考えられない。

祭祀遺跡から出土される宝石や宝剣がだれしもの手に入ったと考えられぬのと同様である。


竹が呪具=祭器に用いられた例証は《万葉集》にもみえている。

巻三の〈大伴坂上郎女,神を祭る歌〉に〈ひさかたの天の原より 生〘あ〙れ来る神の命〘みこと〙 奥山の賢木〘さかき〙の枝に 白香〘しらか〙つけ木綿〘ゆう〙とりつけて 斎瓮〘いわいべ〙を斎ひほりすゑ 竹玉〘たかだま〙を繁〘しじ〙に貫〘ぬ〙き垂り 鹿猪〘しし〙じもの膝折り伏せて 手弱女〘たわやめ〙の襲衣〘おすい〙取り懸け かくだにもわれは祈〘こ〙ひなむ 君に逢はじかも〉とある。

ここに歌われている〈竹玉〉は,竹を短く切ってひもで貫いたもの,もしくは,玉籠の類であったろうが,いずれにしても,そこに神霊が宿ると信じられた。

当然,竹は貴重品でなければならないし,これを所有しうる人といったら,ごく一部の特権階級のみに限られてくるのもやむをえなかった。


《万葉集》には,竹に関する歌が,長歌,短歌合わせて20首ほどみえる。

ところが,純然たる植物としての竹を詠んだ歌は,このうちわずかに4首しかない。

残りの歌は,直接的に竹を詠んだのではなくして,比喩として用いられたり,枕詞として使われたり,それを材料にして作られた呪具=祭具である〈竹玉〉〈竹珠〉について歌われたりしたものばかりである。

これらは,明らかに,自然界の一部として存在する竹を諷詠〘ふうえい〙したものではなく,律令宮廷社会に関係をもった人物および事がらを表象するシンボルとしてのみ歌われている。

植物である竹そのものを詠じた短歌も,その3首までは,律令文人官僚貴族によって産みだされた諷詠であった。

すなわち,巻五に載る小監阿氏奥島の1首〈梅の花散らまく惜しみわが苑の竹の林に鶯〘うぐいす〙鳴くも〉と,巻十九にみえる大伴家持の2首〈御苑生〘みそのう〙の竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ〉〈わが屋戸のいささ群竹〘むらだけ〙吹く風の音のかそけきこの夕〘ゆうべ〙かも〉である。

これら例歌が〈わが苑の〉〈御苑生の〉〈わが屋戸の〉というふうに〈竹の占有〉を宣言していることが注意される。

長岡京の遺跡から排水溝に使用されたマダケが発見されたが,これも権力者によって占有されていた証拠といえよう。

正倉院御物のなかにある笙,尺八,筆などはハチクで作製されたものであるが,これらが特権階級の占有に属していたことも冗言を要しない。

(後略)

斎藤 正二

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用

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この百科事典には、墨書土器が書かれていたころの古代にあっては、竹は民衆が自由に利用するものではなく、特権階級が使う装身具、道具や楽器、重要工事で使う土木資材などに用いられて、呪具=祭器の性格を帯びていたものもあったことが述べられています。

その当時、竹は貴族支配層が占有・賞美していて、一般民衆の生活と密接に結びつくのは中世になってからのことであると述べられています。

古代における社会と竹との関係をこのように捉えると、上谷遺跡における墨書土器文字「竹」の検討もその知識が無かった時と比べて異なってくることは当然です。


2 発掘調査報告書における「竹」解釈

発掘調査報告書(第5分冊)では「竹」について次のような解釈を行っています。

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多数みられる「竹野」は一文字の「竹」と同じく地名をさすと思われる。

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

参考 上谷遺跡の墨書土器「竹」、「竹野」の例

千葉県墨書土器データベース(明治大学)から引用
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古代社会の竹の意義を学習したので、発掘調査報告書が一言で処理する、「竹」と「竹野」は地名であるという見解には到底満足できません。

「竹」、「竹野」は貴族や支配層が占有する貴重産物である竹の栽培とか、竹製品の作成などに関わる集団が使った祈願語である可能性を第一に検討したいと思います。

「竹」、「竹野」は林産物としての竹と関わる墨書土器文字であると考えます。

「竹」、「竹野」が竹製品産出と関わるとすれば、付加価値の高い製品が作られていた可能性が高まります。

「寺竹」が出土していますが、上谷遺跡に存在した「寺が占有した竹林」に関わる祈願語として考えることができると思います。

なお、現代に伝わる小字では、この付近に文字「竹」は見当たりません。

3 「竹」出土数が多い遺跡

全国墨書土器データベース(平成10年、明治大学)から「竹」を含む墨書土器が10点以上出土する遺跡を把握して、その分布図を作成してみました。

墨書・刻書土器「竹」10点以上出土遺跡 表

墨書・刻書土器「竹」10点以上出土遺跡 分布図

墨書土器文字「竹」が10点以上出土する遺跡は全国に4つしかなく、最大出土数の遺跡が上谷遺跡になります。

また4つの遺跡が静岡、千葉、宮城と離れて分布していて、その配置にストーリーを重ねることができそうな印象を受けます。

そのストーリーがどのようになるか、それは今後の検討課題としますが、上谷遺跡の「竹」、「竹野」を、単なるローカルな地名由来として捉えてしまうのはあまりにもったいない思考だと思います。

上谷遺跡の「竹」、「竹野」について、律令国家全体を視野に入れた検討、竹が支配階級占有物であり、呪具=祭器の素材として珍重されたという視点からの検討が可能かどうか、今後考察を深めたいと思います。

2016年8月8日月曜日

上谷遺跡 墨書文字「西」の事前検討

上谷遺跡の墨書文字で出土の多いものは「得」「西」「竹」「万」などです。

この記事では文字「西」について、その分布や共伴出土する遺物との関係を検討する前の事前予備検討を行います。

1 東西南北の出土数

最初に、参考までに全国墨書土器データベース(平成10年、明治大学)から文字「東」「西」「南」「北」を検索してカウントしてみました。

墨書・刻書文字「東」「西」「南」「北」出土数

千葉県の出土数のパターンは西が最も多く、自分が予想するパターンと一致しました。

西は次の説明にあるように吉祥感覚を呼び覚ます文字であると考えます。

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参考

にし【西】

日本の民俗にとって,〈西〉といえば,もはや遠い距離にある漠たる方角である以上に,自分のうつしみ(現実存在)と平面感覚的に連続する場所と考えられた。

日本人の他界観念の代表といえる▶極楽〘ごくらく〙は西方の浄土であり,そのゆえに〈西〉は浄土信仰にとって重要な方角となったが,この西方極楽浄土は大阪の▶四天王寺のすぐ先の海であると考えられ,また〈補陀落〘ふだらく〙〉は紀州熊野のすぐ先の海であった。滅びた生命もただちに〈更新〉するはずだった。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
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方角を好みで分けるとすれば古代人も西を最も好んでいたと考えます。

なお、全国の墨書土器文字は東が最多になります。

そのデータの内訳をみると、石川県金沢市の上荒屋遺跡から「東庄」という文字が338出土していて、全体の1/3を占めています。

この特異な遺跡を除いて考えれば、全国的にも方位では西という文字が好まれると考えることができます。

2 「西」出土数が多い遺跡

全国墨書土器データベース(平成10年、明治大学)から「西」を含む墨書土器が10点以上出土する遺跡を把握して、その分布図を作成してみました。

墨書・刻書土器「西」10点以上出土遺跡 表

墨書・刻書土器「西」10点以上出土遺跡 分布図

全国的な分布をみると東国に西の出土が集中しています。

恐らく西方浄土などという西の概念と、西に存在する都のイメージが混在して、東国では西が祈願文字として好まれたのだと思います。

千葉県では西が10点以上出土する遺跡は上谷遺跡だけです。

福島県の矢玉遺跡と上吉田遺跡は「得」も多出しましたから上谷遺跡と共通性があり、何らかの関係性があるのかどうか興味が湧きます。

なお長岡京出土の「西宮」は内裏の西宮を意味しているようなので、方位とか方角ではなく宮城における位置を示しているようです。

また、平城宮跡、平城宮の「西」の中にも位置を示すものが多く含まれているような印象を受けます。

3 発掘調査報告書における「西」解釈

発掘調査報告書(第5分冊)では「西」について次のような解釈を行っています。

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上谷遺跡出土の(3)や(5)は「身召代」を含む文字を薄くした上に、新たに濃く「西」と墨書し、住居跡の南隅の壁際から同様の墨書土器と2枚重ねた状態で出土しており、何らかの祭祀の場であった可能性が推測されているが(13)、「西」の文字は疫神の侵入を防ぐための結界を示すものかも知れない。

古代の建物遺構からは東西中南北の方位を記した墨書土器が銭貨などと一緒に出土する例が各地にみられ、地鎮に関わるものと解釈されているが(14)、上谷遺跡では方位を記した墨書土器は「西」に集中し、権現後遺跡では「南」が4点、井戸向遺跡では「中」が出土しているので、集落を越えた広範囲に及ぶ祭儀が営まれた可能性もある。

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用


参考 長文土器に「西」が上書きされた例

千葉県墨書土器データベース(明治大学)から引用
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発掘調査報告書の「西」解釈は西側から侵入する疫神を阻止するための結界としての意義を推定しているようです。

しかし、文字「西」は西方極楽浄土を連想させるような、人々が好む文字です。

上谷遺跡では文字「西」が書かれた土器が87点も出土しています。

上谷遺跡だけ多数の民衆が特殊的に「西」の疫神を恐れ、多くの墨書土器に「西」を書いて災厄から逃れようとしていたと考えるのは困難です。

長文土器と「西」の重ね書は、別の機能が重なって表現されていると単純に考えた方がよいと思います。

文字がかすれて役割の終わった長文土器を再利用して、新たな祈願文字「西」を書いて土器が再生したのだと思います。

長文土器は個人の延命を祈願していますが、「西」は生業発展を祈願(生業に関わる集団の発展を祈願)しているものと考えます。

「西」が単純な西方に対する一般好感情を表現しているにすぎないのか、もっと具体的な意味が隠されているのか、これからじっくり検討します。

なお、集落を超えた祭儀の可能性は、地図に西、中、南をプロットすると、空間的にどうしても捉えることが出来ないので、検討の出発点に到達できません。

発掘調査報告書では「西」(上谷遺跡)、「南」(権現後遺跡)、「中」(井戸向遺跡)の空間的位置関係を確認していないと想像します。

「西」、「中」、「南」の位置

2016年8月7日日曜日

上谷遺跡 墨書文字「得」の事前検討

上谷遺跡の墨書文字の検討をGIS空間上で分布や遺物との関連から検討することを予定しています。

そのデータが出来るまでの時間を利用して主な墨書土器文字の事前検討を行います。

この記事では上谷遺跡で最も多く出土する文字「得」について検討します。

全国墨書土器データベース(平成10年、明治大学)を検索すると文字「得」を含む墨書土器・刻書土器が185遺跡から704点出土しています。

そのうち、千葉県は63遺跡、369点出土になります。

文字「得」についてはその半分が千葉県から出土していることになります。

次に「得」が10点以上出土する全国遺跡の表とその分布をまとめてみました。

墨書・刻書土器「得」10点以上出土遺跡 表

墨書・刻書土器「得」10点以上出土遺跡 分布図 全国

墨書・刻書土器「得」10点以上出土遺跡 分布図 千葉県

この情報から次の特徴を捉えることができます。

1 「得」出土数は、上谷遺跡が全国でダントツのトップであること。

2 房総に「得」が多数出土数する遺跡が集中すること。

3 房総の上谷遺跡と庄作遺跡及び福島県・群馬県・静岡県の遺跡では「得」1文字の出土がほとんどであるのに対して、房総の上谷遺跡・庄作遺跡以外の遺跡では「得」+別1文字=2文字の出土がほとんどであること

考察

以上の事前検討結果を踏まえて、今後「得」について次の諸点について検討することとします。

1 上谷遺跡で墨書文字「得」を共有した集団の生業や特性を明らかにする。

2 上谷遺跡の文字「得」は読み「トク」で意味は「福徳の祈願」という一般的な把握でよいのか、検討する。

3 房総の遺跡相互で「得」を祈願文字に使う場合、全く同じ使い方にならないように遺跡(集落)毎に、別の文字を加えるなどして遺跡(集落)のオリジナル性を浮き彫りにしようとする力学が働いていたという仮説を立てることができるかどうか、検討する

上谷遺跡で「得」が大いに使われていることが知られていたので、福徳の祈願に「得」を使いたい別遺跡(別集落)の集団はそれぞれ「私得」、「得万」、「万得」、「得合・甲得」を意識して使い、上谷遺跡とだぶらないようにしたという仮説です。

上谷遺跡の「得」使用は遠方まで伝わらないので、静岡県、群馬県、福島県の遺跡(集落)では単純で使いやすい「得」がそれぞれ独立して使われたという仮説です。

逆に考えると、上谷遺跡と庄作遺跡は同じ「得」を使っているので、人的つながりの存在を推察できるかもしれないとする仮説です。

なお、「得」に限らず、これまでこのブログでは遺跡毎の代表的墨書土器文字はあまりダブっていないように観察してきています。(白幡前遺跡…生、鳴神山遺跡…大、船尾白幡遺跡…帀(天の則天文字)など)

その観察から、遺跡を代表するような墨書文字は近隣遺跡では重複を避けていたと考えます。

もしそれが事実なら、どの遺跡ではどのような墨書文字が使われているか、相互に情報を交換していたことになります。

墨書文字に関する遺跡間(集落間)コミュニケーションが存在していたことになります。

官人が配置されて、その指導下で行われる各地地域開発において、その一環として墨書土器活動があるのですから、国家あるいは地方行政による墨書土器文字の調整があったのかもしれません。



2016年8月6日土曜日

上谷遺跡 墨書土器文字の鳴神山遺跡との比較

上谷遺跡墨書土器の主要文字について、白幡前遺跡に続き鳴神山遺跡との比較を行います。

上谷遺跡の墨書土器出土数は千葉県第2位1043、鳴神山遺跡は第1位1158です。


上谷遺跡と鳴神山遺跡の位置

墨書土器主要文字別出土数グラフを上谷遺跡と鳴神山遺跡について掲示します。


上谷遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成


鳴神山遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成

鳴神山遺跡と比較すると、上谷遺跡に次のような特色をみることができます。

●上谷遺跡の特色

ア 出土数が少ない文字の絶対量が少ない

釈文された墨書土器のうち上位4位までのものを除いた出土数は上谷遺跡では113ですが、鳴神山遺跡では346であり、3倍の違いとなります。

この特色は白幡前遺跡と比較したときにも検出されたものです。

特定の文字の出土が多く、多様な文字の出土が見られないということになります。

文字種類貧弱性があるということて、次の特性で逆から説明できます。


イ 主要文字の出土数が多い

釈文文字の第1位から第4位までの合計は上谷遺跡では364(全体の35%)ですが、鳴神山遺跡では296(全体の26%)です。

上谷遺跡では主要文字の出土数が多いという特性が、白幡前遺跡との比較とも共通してみてとれます。


ウ 漢字の使い方の難易度が低い

白幡前遺跡との比較では、上谷遺跡は難易度の低い漢字を使っているという特色を考察しました。

鳴神山遺跡との比較では、上谷遺跡は出土数上位4位までが全て単漢字の墨書となっていますが、鳴神山遺跡では2漢字(大加)と3漢字(久弥良)が含まれます。

単漢字より2漢字、3漢字の利用の方が文字操作としては難易度が高いと考えれますから、上谷遺跡は漢字の使い方の難易度が低いといえます。

なお、このブログではこれまで鳴神山遺跡の文字と次のように考えてきています。

大(大国主神)、大加(大国主神を信奉する集団に加勢する)、依(キヌ…絹生産)、久弥良(クビラ…金毘羅)

この解釈については今後再検討する予定です。

上谷遺跡文字の発掘調査報告書による解釈(得と万は福徳の祈願、西は方位、竹は地名に関連すると推定)と比較すると、鳴神山遺跡では神が出てくるので、鳴神山遺跡の方がより強い文化的刺激を受けているような印象を持ちます。

エ 人面・多文字墨書土器が多出する

白幡前遺跡との比較と同様に、鳴神山遺跡と比較しても上谷遺跡では人面・多文字墨書土器の多出が特徴となっています。



以上、鳴神山遺跡と比較して上谷遺跡の特徴から次のような集落特性を推察します。

・人面・多文字墨書土器は集落の支配層が書いたと考えられますから、上谷遺跡の方が鳴神山遺跡より支配層の人数が多かった可能性が考えられます。

・単文字や少数文字墨書土器は集落構成員(一般民衆)が組織活動において書いたと考えられ、それに多様性がないことから、集落構成組織は上谷遺跡の方が鳴神山遺跡より単純であった、あるいは集落存続期間が短期間であったと考えられます。

・文字種が貧弱である分だけ上谷遺跡は鳴神山遺跡と比べて集落ミッションが虚弱であったような印象を受けます。

・恐らく上谷遺跡のほうが鳴神山遺跡より生業職種が貧弱であったと考えます。

次に記事で、上谷遺跡墨書文字特性が白幡前遺跡や鳴神山遺跡と何故異なるのか、その一つの可能性を検討します。



2016年8月4日木曜日

上谷遺跡 墨書土器文字の白幡前遺跡との比較

上谷遺跡の墨書土器文字について近隣遺跡との比較検討を行い、上谷遺跡の特色をあぶり出すことにします。

この記事では白幡前遺跡との比較を行います。

上谷遺跡の墨書土器出土数は千葉県第2位1043、白幡前遺跡は第3位832です。

上谷遺跡と白幡前遺跡の位置

墨書土器文字別出土数グラフを上谷遺跡と白幡前遺跡について次に掲示します。


上谷遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成

白幡前遺跡 墨書土器 文字別出土数
千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)(明治大学)から作成

●上谷遺跡の特色

ア 釈文不明墨書土器の多さ

上谷遺跡では釈文不明数が462、白幡前遺跡では117と大きく異なります。この差異が出土状況そのものに起因するものか、調査手法に起因するものであるのか不明です。

釈文不明墨書土器割合が出土状況そのものに起因するとすれば、上谷遺跡では土器が最後に捨てられるときの破壊細分化が著しかったなどが考えられると思います。

調査手法が起因するとすれば、調査年代が新しくなるに従ってわずかの墨書跡も見逃さないという調査技術の精度向上があり、上谷遺跡では土器片墨書痕跡の見逃しが少なくなったということが考えられます。

あるいは墨書形状は明瞭であるが、上谷遺跡では釈文が追い付かなったということかもしれません。

今後釈文不明土器の画像を見て、上谷遺跡釈文不明土器の多さについてその理由を検討したいと思います。

イ 出土数が少ない文字の絶対量が少ない

釈文不明と記号を除いた釈文された墨書土器数のうち、出土数上位4位までの文字、人面長文、地形、記号を除いた出土少文字は上谷遺跡では113です。

ところが白幡前遺跡では出土少文字が399になります。上谷遺跡の4倍になります。

上谷遺跡では白幡前遺跡とくらべて文字の多様性が大変貧弱であるといえます。

この文字種類貧弱性は次の特性で逆からも説明されます。

ウ 主要文字の出土数が多い

上谷遺跡では上位出土数文字は1位118、2位87、3位86、4位73ですが、白幡前遺跡では1位112、2位46、3位44、4位43となっています。

上谷遺跡では白幡前遺跡とくらべて少ない文字種類が沢山出土しているという傾向を読み取ることができます。

エ 難易度の低い漢字を使っている

上谷遺跡では得、西、竹、万が出土数上位の漢字です。発掘調査報告書では得と万は福徳の祈願に、西は方位、竹は地名に関連すると推定します。

この推定が当を得ているかどうか今後検討を深めますが、もしその通りの意味であるとすると、現代人の感覚でいえば概念が具体的であり、文字の画数も少なく、そのセットは白幡前遺跡と比べて難易度が低いように感じます。

一方、白幡前遺跡では生、夫(*大と一の組み合わせ文字、大一(タイイツ))、廓、継が出土数上位の漢字です。

このブログではこれまでこれらの文字の意味を次のように考えてきました。

生(戦勝祈願 生き残る)、夫*(陰陽師による戦勝祈願)、廓(基地警備隊の戦勝祈願)、継(都と戦地をつなぐ)

この解釈については今後再検討する必要予定ですが、いずれの文字も概念の度合いが高く、組織が関わるような言葉であると想定されす。

同時に組文字や多画数文字であり、難易度が高い文字であると考えて間違いないと思います。

オ 人面・多文字墨書土器が多出する

上谷遺跡では人面・多文字墨書土器が多出していて大きな特徴となっています。



以上の特徴を次のようにまとめることができます。

・上谷遺跡では墨書土器出土数が特段に多く千葉県第2位である。

・上谷遺跡では白幡前遺跡と比べると人面・多文字墨書土器が多出する一方、単文字や少数文字墨書土器の文字種類が貧弱であり、その文字難易度も低い。



人面・多文字墨書土器は集落の支配層が書いたと考えられますから、上谷遺跡の方が白幡前遺跡より支配層の人数が多かった可能性が考えられます。

単文字や少数文字墨書土器は集落構成員(一般民衆)が組織活動において書いたと考えられます。

従って、集落構成組織は上谷遺跡の方が白幡前遺跡より単純であった、あるいは集落存続期間が短期間であったと考えられます。

文字種が貧弱である分だけ上谷遺跡は白幡前遺跡と比べて集落ミッションが虚弱であったような印象を受けます。

恐らく上谷遺跡のほうが白幡前遺跡より生業職種が貧弱であったと考えます。

同じ開発集落でも上谷遺跡と白幡前遺跡とはその性格が大いに異なるようです。