2016年1月29日金曜日

鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.275 鳴神山遺跡 紡錘車出土と共伴墨書・刻書文字

2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で強引に自分の見立てを勢いだけで記事にしたところ、文字にした途端にその不都合が判明してしまいました。

早速記事を訂正して、紡錘車と墨書土器文字との関係について詳しい検討の必要性を痛感して、これまで先延ばしにしてきたしっかりとした基礎データを作成しました。

鳴神山遺跡の竪穴住居(発掘調査報告書における年代検討サンプル調査183軒対象)別に出土遺物及び墨書土器データを整理し、分析結果をGIS上にプロットできるようにしました。

この記事では紡錘車出土竪穴住居遺構から共伴出土した墨書・刻書文字について検討します。

年代別紡錘車出土イメージ図に共伴出土した墨書・刻書文字(釈文結果)を全部書き込んでみました。(釈文不明墨書・刻書土器は無視しました。)

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第1四半期

発掘調査報告書(あるいは墨書土器データベース)では「廾」(キョウ)が共伴します。

これは正確に対応する活字がないために生まれた苦肉の策としての情報です。

活字が無いので、このテキストで表現できませんが、文字は十を二つ横に並べた漢字です。(廾は十を二つ横に並べた漢字とは全く別物の漢字です。)

この漢字は現在の活字にすると「廿」です。(十の会意文字)

「廿」は「つづら」と読んで、衣服を入れるつるで編んだかごを意味すると考えます。

紡錘車で製糸した人が衣服を入れるかご(つづら)の意味の文字「廿」を書いたということは道理に合っています。

紡錘活動をする家族が近くの掘立柱建物の被服の入ったつづらを管理していたのかもしれません。

参考
2015.05.22記事「墨書土器文字「廿」(ツヅラ)の読解
2015.08.13記事「白幡前遺跡出土墨書土器の閲覧 その5(釈文「廿」


紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第2四半期

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第3四半期

紡錘車出土の分布広がりに対応して多様な文字が共伴出土しましが、「山本」に注目しました。

「山本」は「山」(耕地など農業利用の土地)を管理している集団の祈願語であると考えます。

焦点を絞れば、「山」とは麻畑かもしれません。

美しい言葉だからいろいろな集団の人が使ったという言葉ではなく、この言葉は特定の利権に対応する特定集団に対応していると考えます。

2遺構から「山本」が4土器分出土します。

この時代に「山本」集団が紡錘活動に深く関与していたのだと思います。

文字「卅」はミソと読んで味噌づくりの祈願語である可能性を感じています。紡錘活動と味噌づくりが同じ竪穴住居(家族)で行われていたのかもしれません。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 8世紀第4四半期

「山本」の状況は同じです。

一方、「久弥」が出土します。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第1四半期

「山本」が1土器分出土します。

「久」、「久弥」、「久弥良」(クビラ)が2遺構3土器分出土します。

「久弥良」(クビラ)は金毘羅であり、金毘羅信仰の祈願語であると考えてきています。

参考
2015.10.14記事「鳴神山遺跡の墨書文字「久弥良」はクビラ(金毘羅)と推定する
2015.10.25記事「墨書文字「久弥良」と金毘羅信仰

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第2四半期

文字「山本」は一つ残りますが、「久」、「久弥」、「久弥良」が4遺構から10土器分出土します。

「久」、「久弥」、「久弥良」は全てクビラ(金毘羅)の意味であり、金毘羅信仰を持った特定集団の祈願語であると考えます。

鳴神山遺跡の最盛期にクビラ(金毘羅)集団が紡錘活動に深くかかわった可能性を感じます。

文字「酒有」が出土します。紡錘活動と酒造りが同じ竪穴住居(家族)で行われていたのかもしれません。

文字「田」は谷津近くの場所からの出土であり、稲作を意味している可能性を感じます。

紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第3四半期

「山本」は消え、9世紀第2四半期に引き続き文字「久」、「久弥」、「久弥良」の出土が目立ちます。


紡錘車と共伴出土する墨書・刻書文字 9世紀第4四半期

紡錘車の出土は減少しますが、文字「久」、「久弥」、「久弥良」の出土が目立ちます。


出土紡錘車のうち鉄製のものがあります。

鉄製紡錘車と共伴する墨書・刻書文字

鉄製紡錘車は絹糸を石・土製紡錘車は麻糸を紡いでいた可能性があります。

もしそうだとすると、鉄製紡錘車には文字「久」、「久弥」、「久弥良」が深く関与していて、絹生産にクビラ(金毘羅)集団が関与したという想定も有りうると思います。

クビラ(金毘羅)集団が関西から鳴神山遺跡に移住してきたとき、絹生産の技術を持参してきたのかもしれません。

紡錘活動には蝦夷戦争準備時代、蝦夷戦争時代の8世紀頃は「山本」集団が、動員解除・戦後時代の9世紀頃は「久弥良」(クビラ)集団が深くかかわったといえそうです。

「山本」集団は直線道路を北に超えて分布することはなく、「久弥良」(クビラ)集団は直線道路を超えてその分布が北上します。

「久弥良」(クビラ)集団はこの集落の権力者(「大」集団)の配下にあり、勢力を拡大したと考えます。

「久弥良」(クビラ)集団は金毘羅信仰を携えて関西から移住してきた水運技術集団と考えてきていますが(その信仰は現代まで伝わっている)、その集団が絹生産技術ももたらしたと、現段階で仮説していおきます。

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追記 2016.01.30

同じ竪穴住居から紡錘車も墨書土器も出土していること(共伴出土)に着目して上記検討を行いました。

竪穴住居から遺物が出土する意味として次のような事例を念頭に置いています。

1 その竪穴住居で人が居住していたときに使われたものの出土。

2 竪穴住居が遺棄されごみ溜めとなり近隣竪穴住居から捨てられた廃棄物(流れ込んだ廃棄物)が出土する。

3 竪穴住居が遺棄され、その場が土器打ち欠きの場となって(祭祀の場となって)土器や遺物が出土する。

従って、同じ竪穴住居から共伴して出土した遺物と言っても、遺物間の関係には様々なものがあると考えます。

しかし、同じ竪穴住居から共伴出土した遺物・土器は、その竪穴住居とごく近くの近隣竪穴住居に関わるものが圧倒的に多いと考えます。遺物の背景にある人間関係にも近いものがあると想定します。

従って、共伴することに大きな意味があると考えています。

そのような考えから共伴することに着目して検討し、情報を引き出しています。

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