2016年3月31日木曜日

「延命祭祀」に関する違和感

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.318 「延命祭祀」に関する違和感

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)の墨書土器記述に関する墨書土器に関する記述(第2編第4章第4節集落遺跡と墨書土器)の中に「延命祭祀」という小項目があります。(397ページ)
参考までにその書き出しと掲載図版の一つを引用します。
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延命祭祀

古代の房総地域のなかでも、下総国印播郡から埴生郡、香取郡および上総国武射郡にかけての地域を中心にして、多文字の墨書土器が出土している。そのほとんどが土師器坏形土器の体部に文章として多文字を墨書したもので、なかには、文字とともに人面を描いたものもある。これらの多文字墨書土器の大半は、古代の人々が死から、冥界から必死に免れようとする"延命"祭祀にかかわったものと考えられている。

八千代市権現後遺跡の竪穴住居から出土した人面墨書土器は、土師器坏形土器の体部外面に、横位に人面が描かれ、その後に「村神郷丈部国依甘魚」と文字が墨書されていた。その文字内容と描かれた人面から、この土器は「(下総国印播郡)村神郷の丈部国依が疫病の本復を祈願」するために、供膳具(坏形土器)に疫病神と思われる人面と自分の本貫地の郷名(村神郷)と名前(丈部国依)を書いたのである。そして、その器の中には疫病神への賄賂である御馳走(甘魚)を入れ、心願の成就を願ったものと理解された。


多文字墨書土器

「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
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この書き出しの後では多文字墨書土器の内容が延命祈願であることが「日本霊異記」の説話にもとづいて詳しく説明されています。

その内容は墨書土器理解の上で大変参考になる学術成果のように感じます。

上記引用図版の中の1、3、4はこれまでこのブログで何回も紹介してきたものです。

さて、ここで常日頃、強い違和感を感じていることがありますので、メモしておきます。

延命祭祀という言葉です。

言葉尻を捉えるような疑問・違和感ですからあまり本質的なものではありませんが、自分が迷わないようにするために必要なので、メモしておきます。

多文字墨書土器の内容が延命祈願であることはよくわかりました。

しかし、その多文字墨書土器出土をもってして延命祭祀の存在を記述することに違和感を覚えます。

祭祀というからにはある程度の社会性の含みを感じてしまいます。

この図書では「竈神と竈祭祀」という言葉も出てきます。竈祭祀は全く違和感を感じません。竈神を封じ込めるという説明があり、土器を竈に伏せておくなどの行為が具体的です。また家族という社会性をもった祭祀です。

しかし延命祈願の多文字土器は、その「祭祀」の具体的行為がまったくわかりません。観念的にはそれを使って個人が延命祈願したことはよくわかりますが、それを「祭祀」と呼んでよいものか大変疑問です。

また社会性の存在も極めて疑問です。社会性がゼロではないだろうかと考えます。

たとえ集落のリーダーであったとしても、その個人の延命の祭祀が社会性を持って行われたかはなはだ疑問です。

親が子供の延命を祈願する祭祀ならありうると思います。

疾病の流行から集団の命を守ろうという祭祀もありうると思います。

しかし、多文字を墨書できるほどの教養(と権力)のある成人の延命を、社会が集まって祈願する祭祀が果たして存在したのか、はなはだ疑問です。

延命祈願多文字墨書土器は社会の上層に位置する個人が自分の教養や権力・富を誇示するために存在しているように思えてなりません。

延命祈願多文字墨書土器は社会性のある祭祀とは対極にある、個人が密かに愛玩する宝物だったような気がします。

延命祈願多文字墨書土器の出土を持って、延命祭祀の存在を叫ぶのはいかがなものでしょうか。

上記図版の1は鳴神山遺跡出土ですが、鳴神山遺跡発掘調査報告書では1出土地点で延命祭祀が行われていたと書かれていました。

しかし、社会的な延命祭祀が行われた証拠は全くありません。延命祈願文字のある土器が出土しただけです。個人が延命祈願行為を行ったことは否定できませんが、祭祀とよべるような器物の配置なり、行為のスタイルなりの証拠はありません。ましてや社会集団性を示す証拠はありません。

多文字墨書土器に関して延命祭祀という言葉が独り歩きしてしまっているようです。



西根遺跡では流路から沢山の土器が出土しています。その中には多文字延命祈願土器もあります。

その多文字延命祈願土器出土について、もし延命祭祀という概念を反射的に適用すると、西根遺跡の持つ意義を把握できなくなると考えます。
2016.03.10記事「西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2」参照


2016年3月30日水曜日

戸神川で馬形・人形流しを行ったのは女性か

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.317 戸神川で馬形・人形流しを行ったのは女性か

2016.03.27記事「西根遺跡出土馬形・人形はオシラサマか」で西根遺跡出土馬形・人形が繭の豊作を祈願した水辺の祭祀であり、現代に伝わるオシラサマの原型みたいなものであると考察しました。

人形は女性、馬形は雄馬で中国から伝わった馬と娘の婚姻譚を背景とするオシラサマ流しであると考えました。

参考 西根遺跡出土馬形・人形

恐らく繭の豊作を願う集団のイベントであり、個人や1家族の行為ではないと思います。社会性のある活動だったに違いありません。

さて、このオシラサマ流しを行ったのは女性ではないかと空想します。

万葉集に次の歌があるように、養蚕は主に女性の仕事であったと考えます。

「たらつねの、母が養(かふ)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(ごも)り、隠(こも)れる妹(いも)を、見むよしもがも」(柿本人麻呂)

「たらちねの、母が飼(か)ふ蚕(こ)の、繭(まよ)隠(ごも)り、いぶせくもあるか、妹(いも)に逢(あ)はずして」(読み人知らず)

オシラサマ流しを行ったのが女性であると考えると、木の形に草や紙で編んだ着物を着せて飾り、それを草で編んだ舟に乗せて流すという行為がとても自然な行為として理解できます。

男ならばそのような繊細な行為はしないと思います。

なお、戸神川には投げ込まれた土器が沢山残っていますが、その土器投げ込みはおそらく男性だと思います。(戸神川水利や治水のための祭祀だったと考えています。)

また墨書土器「子」「小」の文字を書いたのも女性であったと空想します。

参考 船尾白幡遺跡 墨書文字「子」「小」出土状況

私は残念ながら、一般論として墨書土器を書いたり利用した人の男女比のイメージを持っていません。

やはり労働力や兵力としての意義の大きい成人男性が墨書土器と関わりが深いとは思いますが、深く考察したことはありません。

しかし、墨書土器「子」「小」の文字を書いて、それを利用したのは女性であった確率が高いのではないかと想像します。

そのように考えると、小の文字が「ハネ」をほとんど書かないで、まるで3頭の蚕のように見えてきて、女性の筆致であるように確信してしまいます。





2016年3月29日火曜日

墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.316 墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味

鳴神山遺跡 Ⅰ地点044竪穴住居から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」と釈文された墨書土器(土師器坏)が出土しています。

墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」出土位置

馬や牛が出てきて、皮の字も出てくるので、馬や牛の屠殺にかかわると想定されていたようですが、意味が不明瞭だったようです。

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参考
以上,西根遺跡は鳴神山遺跡及び船尾白幡遺跡の両遺跡と密接な関係にあったことが墨書土器からもわかる。墨書からは,集落内と流路とでは祭祀の内容はほぼ同一であった可能性が認められる。

なお,鳴神山遺跡では「大國玉罪」と墨書されたものもあり,あるいは西根遺跡出土「丈部春女罪代立奉大神」の「大神」はこの「大國玉」神のことであった可能性も考えられる。

鳴神山遺跡の「大國玉罪」の墨書土器は井戸状遺構とされている土坑から大量の土器,馬と考えられる獣骨の歯,貝と一括して出土している。この井戸状遺構は,水が湧かない擬制的な井戸であり,水に関連した祭祀を行ったという解釈がなされ,出土状況から最初に大型獣の頭部を投げ込んだ後に墨書土器を含めた祭祀に使用した土器を投棄し,最後に貝殻を廃棄していると考えられている。

西根遺跡の「丈部春女罪代立奉大神」の墨書土器が出土した地点(第197図)でも8m前後離れた地点(第196図)から馬の歯がまとまって出土しており,祭祀の内容物についても類似性がある可能性が認められる。

ただし,西根遺跡の場合は流路内からの出土であるので,馬の歯をすぐに祭祀行為と結び付けるのは危険である。奈良・平安時代には流路や溝跡内及び周辺から牛馬の遺体が検出される例が多く存在する。

平城京右京八条一坊十一坪(5)では,西一坊々間大路西側溝から700点あまりの獣骨が出土し,そのうち150点あまりが同定されている。奈良時代末~平安時代初頭のウマ約140点,イヌ3点,ウシ10点等が含まれており,この付近に鋳造とともに斃牛馬処理に関わる官営工房が存在したとみられる(6)。また,大阪府城山遺跡8(7)の奈良時代中頃の溝跡からウマの骨が8部位,15点出土しているが,四肢骨,肋骨に鋭利な刃物による解体の痕跡と,斧状鈍器で,頭蓋骨の上面を外して,脳を取り出した痕跡があるものが出土しており,付近に牛馬を屠殺する場所があったことが考えられている。

このように流路・溝の中に,牛や馬を解体した骨が多くみられることは,皮を洗い,それを干し広げたりする空間や,廃棄物を流し去る豊かな水の流れが必要であったからであると捉えられている。
本遺跡の場合は流路からの出土であり,屠殺した馬を解体したものが捨てられている可能性も残るので,祭祀遺物若しくは馬の解体の両論を並記するに留めたい。

なお,鳴神山遺跡からは9世紀中葉の土師器杯に「馬牛子皮ヵ身ヵ」と墨書がなされたものがあり,意味が不明瞭ながら牛馬の皮?等のことが書かれており,注目される。また,西根遺跡では8世紀後半の土師器椀に漆を塗る際のパレット等として使用されたものがあり,漆工芸を生業とする集団が存在している可能性が指摘できる。漆は木製品・金属製品のみならず,革製品にも利用されており,そうした技術集団が周辺に存在した可能性も残る。

西根遺跡発掘調査報告書から引用
太字は引用者
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意味が不明瞭な理由は明白です。

子の文字の意味が分からないため、人の子供と考えても、馬や牛の子供と考えても屠殺と結びつかないからです。

しかし、子の意味が蚕であることが判りましたから墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味は氷解しました。

西根遺跡発掘担当者が推察したように斃牛馬の処理業務を担当する集団の墨書土器であると考えます。

斃牛馬の処理集団が繭を採ったあとの蛹の処理も一緒に行っていたと考えます。

繭を採った後の蛹は貴重な蛋白源として食物として(あるいはサナギコ等として)利用されたのです。

(子供の頃、釣りでサナギコを使った憶えがあります。)

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参考 

カイコ
餌用・食用

絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、日本の養蚕農家の多くは、鯉、鶏、豚などの飼料として利用した。現在でもそのままの形、もしくはさなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の餌や釣り餌にすることが多い。

また、貴重なタンパク源として人の食用にされる例は多い。90年余り前の調査によると、日本の長野県や群馬県の一部では「どきょ」などと呼び、佃煮にして食用にしていたと報告されている[4][要出典]。現在でも、長野県ではスーパー等で佃煮として売られている。伊那地方では産卵後のメス成虫を「まゆこ」と呼び、これも佃煮にする。朝鮮半島では蚕の蛹の佃煮を「ポンテギ」と呼び、露天商が売るほか、缶詰でも売られている。中国では山東省、広東省、東北地方などで「蚕蛹」(ツァンヨン、cānyǒng)と呼んで素揚げ、煮付け、炒め物などにして食べる。ベトナムでは「nhộng tằm」(ニョンタム)と呼んで、煮付けにすることが多い。タイ王国でも、北部や北東部では素揚げにして食べる。

ヒトに有用な栄養素を多く含み、飼育しやすく、蛹の段階では内臓に糞が詰まっていないことから、長期滞在する宇宙ステーションでの食料としての利用も研究されており、粉末状にした上でクッキーに混ぜて焼き上げる、一度冷凍したものを半解凍する、などの方法が提案されている。今では言われなければわからないほど自然な形に加工できるようになっている。

また、蛹の脂肪分を絞り出したものを蛹油と呼ぶ。かつては食用油や、石鹸の原料として利用された。現在では主に養殖魚の餌として利用される。

ウィキペディアから引用
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墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味は、斃牛馬処理集団が、斃馬・斃牛から有用な皮革、肉、骨を、繭を採り終わった蚕の蛹から有用な食べ物を豊かに生産して、自分たちの使命を全うしたいと考え、自分たちの業務発展の祈願をしたものと考えます。

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参考 軆

軆は体の俗字

体の解字
形声。篆文は、骨+豊(音)。音符の豊(レイ=テイ)は、㐱(シン)に通じ、多くのものが密度高く集まるの意味。多くの骨からなる、からだの意味を表す。常用漢字の体は、もと人+本(音)の形声文字で、あらい・おとるの意味を表したが、中国でも古くから體の俗字として用いられたもの。

『新漢語林』 大修館書店から引用
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斃牛馬処理集団が養蚕で不用となった死んだ蛹を処理していたということから、鳴神山遺跡でも養蚕が大規模に行われていたことが判ります。

現代風に言えば、養蚕農家を専門業者が廻って死んだ蛹を買い集め、佃煮にして販売しているということです。

鳴神山遺跡の紡錘車の主な使われ方が絹生産であることが判ってきました。鳴神山遺跡の生業を考える上で、貴重な情報を得ました。




2016年3月28日月曜日

参考 千葉県における墨書文字「子」「小」(=蚕)出土遺跡

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.315 参考 千葉県における墨書文字「子」「小」(=蚕)出土遺跡

2016.03.26記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」で墨書文字「子」「小」が蚕を意味していて、養蚕発展の祈願語であることを考察しました。

そこで、参考に千葉県墨書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から「子」「小」を検索抽出して、その出土遺跡をピックアップしてみました。

「子」「小」が他の文字と結びついて熟語になると蚕の意味でなくなる可能性がありますから、この記事では、他の語と結びついていないものだけを抽出しました。

(他の語と結びついているものでも蚕の意味と考えられるものもありますが、その詳しい考察は今回省きました。 例 小堤(養蚕発展のための神への飲食物提供)、子山本(養蚕胴元の発展)、子万(養蚕政所の発展)など)

33遺跡から全部で94事例をピックアップすることができました。

墨書文字「子」「小」出土遺跡

これらの遺跡では養蚕が行われていた可能性が濃厚です。そして養蚕発展祈願が墨書土器活動として行われたのですから、養蚕活動が組織活動として展開していた可能性があります。

おそらく古墳時代からの既存集落ではなく、奈良時代に律令国家によって新規開発された遺跡(集落)が多いと考えます。

これまでこのブログで検討してきた鳴神山遺跡、白幡前遺跡なども含まれます。

この33遺跡を地図にプロットすると次のようになります。

墨書文字「子」「小」出土遺跡分布図

千葉県北部に偏在して分布していることが特徴です。

この分布図を出土数グラフにして、同時に下総国領域を書き込むと次のようになります。

墨書文字「子」「小」合計出土数と下総国領域

大きな赤丸となったところは養蚕活動がより活発であった可能性のある遺跡です。

このブログで興味を持っている萱田遺跡群から鳴神山遺跡付近までの奥印旛浦に特に大きな赤丸が集中します。

また、上総国についてみると、太平洋岸には墨書文字「子」「小」出土遺跡がありますが、東京湾岸には全く存在しないことが特徴になっています。

なお、参考までに千葉県で出土した全墨書土器の分布を次に示します。

参考 千葉県墨書土器出土分布図

墨書土器の分布は8世紀9世紀頃の組織活動(律令国家がそのきっかけを作ったプロジェクト活動)の強さを示していると考えます。

上総国の東京湾岸では墨書土器出土が少なく、もともと組織活動が弱かったため、養蚕の組織活動が無かったのかもしれません。

また養蚕ではなく麻布生産(望陀布)が優先していたのかもれません。

安房国は墨書土器の出土が少なく、新規開発がほとんどなかったようです。

参考 小字白幡の分布

地名「白幡」が古代養蚕の場所を示していると考えています。

詳細な検討を今後始める予定です。

墨書文字「子」「小」出土遺跡は、かなりの割合でその近くに地名「白幡」が存在します。

恐らく、地名「白幡」は、そこが当時の既存集落か新規開発地かその区別とは無関係に、古代養蚕が行われた場所を示しているのではないかと想像します。










2016年3月27日日曜日

西根遺跡出土馬形・人形はオシラサマか

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.314 西根遺跡出土馬形・人形はオシラサマか

2016.03.26記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」で船尾白幡遺跡のメイン生業が養蚕である可能性を論じました。

そのように考えると、西根遺跡出土馬形・人形の意義を再考する必要が直ちに生まれます。

2016.03.05記事「西根遺跡出土馬形・人形の意義」で馬形・人形は疾病送り(疾病祓い)習俗であると考えました。

参考 西根遺跡出土馬形・人形
馬形と人形は直接重なって出土しました。

参考 馬形・人形出土ポイントと船尾白幡遺跡との位置関係

疾病送り(疾病祓い)習俗と考えた根拠(背景)は形代を河川で流すという一般習俗から想定したものです。

しかし、馬形・人形を(おそらく着物を着せて、草の舟に乗せて)流すという祭祀を行った人々(船尾白幡遺跡の住民)のメイン生業が養蚕であると気が付くと、その意義をオシラサマと結びつけて考えることが順当であると再考しました。

逆に、オシラサマと関連付けることができないという証拠を見つけることが困難になると考えます。

オシラサマの一般的意味は次のように説明されています。

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おしら‐さま【御白様】
〖名〗 (「さま」は接尾語) 東北地方で広く信仰されている家の神。神体は一尺(約三〇・三センチメートル)内外の木か竹の棒で、これに布を着せかさねる。「いたこ」と称する巫女が、両手に持って祭文(さいもん)を語り、この神を遊ばせるという。関東や中部地方では蚕神と考えられており、東京近県では馬に乗った女人像などを描いた掛け軸を、神体にする例が多い。おこないさま。おしらがみ。おしらぼとけ。
御白様〈国文学研究資料館蔵〉

『精選版 日本語国語大辞典』 小学館
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おしら‐さま【おしら様】
東北地方の民間で信仰する養蚕の神。男女一対の桑の木の偶像で、馬頭のもの、烏帽子を被ったものなどがある。いたこ(巫女)が祭る。おしらかみ。おしらぼとけ。

『広辞苑 第六版』 岩波書店
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オシラサマに馬が出てくる理由は養蚕が中国から伝わったとき、一緒に伝わった馬娘婚姻譚によるもとの考えられています。

養蚕とオシラサマ原型は切っても切れない関係にあり、現代の民俗学者が観察するオシラサマ信仰の源流は養蚕に行き着くと考えます。

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蚕【カイコ】

[中国]
カイコの原種は山野に自生する檞〘かい〙(カシ),櫟〘れき〙,柞〘さく〙(クヌギ)などの樹葉を食って繭をつくるもので,これを野蚕・山蚕・天蚕という。

山東省東部の山地ではこれを採取して繭綢〘けんちゆう〙をつくることが行われていた。古来,カイコの飼育と繭の採取とは女性の仕事とされ,《山海経〘せんがいきよう〙》海外北経に〈欧糸の野……一女子が跪〘ひざまず〙きて樹に拠って糸を欧〘は〙く〉とあり,カイコを女子に見たてている。

これを原形として《捜神記》に見える太古蚕馬の神話となる。

家に残された娘が,他郷に住む父を連れ帰れば妻になると家に飼う雄の馬に頼む。
馬は父を連れ戻ったが,娘と父は約束を守らず,馬を殺してその皮をはぐ。
馬の皮は娘を巻きこんで飛び去る。
数日して馬の皮と娘はクワの大木にとまってカイコに化し,巨大な繭が採れたという。

クワと女性のほかに馬が出るのは,カイコは胴が女体に,頭部が馬に似ているからだという。

それでカイコの神を女神として〈馬頭娘〉とも〈馬明菩薩〉とも称するようになった。

沢田 瑞穂

[日本]
《魏志倭人伝》に養蚕の記載があって,日本における養蚕の古さを示す。

古代の絹は貴族の独占物で,▶調の貢進のため農民は養蚕を強制され,《万葉集》にも〈たらちねの母が養う蚕の繭隠り〉の慣用句があるほどであったが,農村で広く行われるのは近世以後である。

この生産には多くの儀礼や民間信仰が伴い,雄略天皇の命令を聞き違えて〈蚕〘こ〙〉でなく〈児〘こ〙〉を集めた少子部蜾蠃〘ちいさこべのすがる〙の伝説もその一端である。

民間でこれを〈おこさま〉〈お姫様〉などと尊称するのは,養蚕起源譚〘たん〙のカイコの前身が女性であったことに基づく。

これには金色姫の話と馬娘婚姻譚との2系統がある。

前者は《御伽草子》その他にみえ,クワの木の空〘うつ〙ろ舟で日本に漂着した姫のしかばねがカイコとなった話で,まま母の奸計で遭遇した4度の危難により4回眠ると説明し,それぞれシシ(第1眠),タカ(2眠),フナ(3眠),ニワ(4眠)と呼ぶ。これは土地によって差異があるが,茨城県つくば市の蚕影山〘こかげさん〙神社はこの金色姫伝説を縁起とし全国の蚕影信仰のもととなっている。

後者は,中国の《捜神記》に由来するとされる馬と娘との婚姻譚で,夫婦となった娘がカイコとなって天から下り,またはカイコの神にまつられたとするもので,東北日本のオシラサマがその蚕神と伝え,クワの木で男女あるいは馬の顔をつけた棒をつくる。

正月にこの神をあそばせながら▶いたこはこの由来を説いた〈オシラ祭文〉を唱える。現在でも蚕種の包装紙や蚕種紙に馬の印を用いるのはこの説話に基づく。

繭の豊作を祈願する行事として農民の習俗のいちじるしいものに小正月の▶繭玉,蚕神の祭りである蚕日待などさまざまの習俗があり,屋根裏に蚕室を造るために民家の構造にも変化が現れ,二階造りが多くなった。

これらの点でカイコの飼養とその信仰とが農民生活に与えた変動はいちじるしいものがあった。

▶▶▶養蚕
佐々木 清光

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ

太字は引用者
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西根遺跡から出土した馬形・人形は養蚕の発展を祈願して、船尾白幡遺跡住民が戸神川で流した現代でいうオシラサマの原型であったと考えます。

オシラサマを川に流して養蚕発展を祈願するという祭祀(習俗)が8世紀9世紀頃船尾白幡遺跡(西根遺跡)にあったと考えます。

ここまでに見つけた船尾白幡遺跡の養蚕関連情報は次の通りです。

1 紡錘車・鎌・墨書文字「小」の集中出土域の存在(Dゾーン)(「小」=蚕)

2 Dゾーン近くの小字名が「白幡」(「白幡」=古代養蚕地名)

3 鎌・掘立柱建物・墨書文字「小」「子」の集中出土域の存在(Fゾーン)(「小」「子」=蚕)

4 Fゾーン出土「子」は掘立柱建物から出土(掘立柱建物=養蚕施設)

5 船尾白幡遺跡住民利用水域でオシラサマ出土(水辺における養蚕発展祈願祭祀)

2016年3月26日土曜日

船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.313 船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」

2016.03.21記事「船尾白幡遺跡 紡錘車」で紡錘車出土と小字「白幡」を結びつけ、船尾白幡遺跡で養蚕が行われていた可能性について遠慮がちに考察しました。

2016.03.25記事「船尾白幡遺跡 鉄の道具」で鎌出土と紡錘車出土の考察から、船尾白幡遺跡で養蚕が行われていた可能性が濃厚であることを考察しました。

この記事では、出土した墨書文字から、船尾白幡遺跡で養蚕が行われていたことがほぼ確実であるとの考察を行います。

次の表は船尾白幡遺跡出土墨書土器文字の上位40位までを示したものです。

船尾白幡遺跡 墨書土器文字(釈文)の数(上位40まで)
千葉県墨書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から作成

この中の16位「小」、23位「小小」、25位「子」が養蚕関連祈願文字であると考えます。

子(コ)には蚕の意味があります。
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こ【子・児・仔】
 〖名〗
(「小(こ)」と同源か)

⑦蚕。万葉集(12)「たらちねの母が養(か)ふ—の繭(まよ)ごもり」

『広辞苑 第六版』 岩波書店
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子(コ)には蚕の意味があるとともに、小(コ)と同源である可能性を上記情報は伝えています。

蚕(コ)の次の説明を読むと、蚕(カイコ)は同音異義語との混同をさけるためにカイコとよばれるようになったのであり、元来は「コ」であったことがわかります。
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こ【蚕】
〖名〗 かいこ。<季・春>
*万葉(8C後)一二・二九九一「たらちねの母が養ふ蚕(こ)の繭(まよ)隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして」

[語誌]蚕は、古く一音節語「こ」であった。「万葉」には「かふこ(飼ふ蚕)」が三例見られ、これが中古の「かひこ」を経て現代の「かいこ」となる。また、「万葉」には「くはこ(桑蚕)」が一例見られる。このように、「かふ」や「くは」を伴って表現されるのは、籠・子・粉・海鼠などの同音異義語との混同を回避しようとしたためといわれる。

『精選版 日本国語大辞典』 小学館
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これらの情報から、船尾白幡遺跡出土墨書土器文字「子」、「小」は直接に蚕を指し、養蚕の発展を祈願した文字であると考えます。

船尾白幡遺跡から墨書文字「子」、「小」の出土は次の通りです。

船尾白幡遺跡 墨書文字「子」、「小」
千葉県墨書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から作成

その分布を示すと次のようになります。

船尾白幡遺跡 墨書文字「子」「小」出土状況
墨書土器画像は千葉県墨書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用

鎌と紡錘車の出土状況から養蚕の重要拠点であるDゾーンから「小」3点が出土しています。

また繭生産基地であると考えたFゾーンから「子」が2点、「小」が2点出土してます。

ここで特筆すべきこととして「子」2点は掘立柱建物柱穴から出土しているのです。「子」が掘立柱建物から出土しているのです。

繭つくりが掘立柱建物で行われていたことがほぼ確実であると考えます。

住居である竪穴住居の中で繭つくりをするのは空間的余裕からしても、温度や湿度の管理などからしても効率性の上で困難極まりないと考えますが、掘立柱建物で行えばその点の困難を大幅に排除できます。

「子」(コ)が掘立柱建物から出土したことから、船尾白幡遺跡で養蚕が行われていたことはほぼ確実であると考えます。

「小」はその他、Cゾーン、Bゾーンからも出土しますので、船尾白幡遺跡は養蚕が集落全体で行われていて、集落の主要生業であった可能性が濃厚です。

現代まで「白幡」という小字名が伝わってきていることは、伊達ではなかったことがわかりました。

養蚕を掘立柱建物で行っていたと考えると、船尾白幡遺跡の掘立柱建物の多くの用途が養蚕であった可能性が生まれます。

次の図に掘立柱建物の分布を示しました。

船尾白幡遺跡 墨書文字「子」「小」出土状況と掘立柱建物分布

「子」「小」出土遺構近くにはいづれも多くの掘立柱建物があります。

それらの多くの掘立柱建物が養蚕施設であった可能性が濃厚になりました。

次の記事で養蚕関連民間信仰であるオシラサマ、馬娘婚姻譚と西根遺跡出土人形、馬形の関係を考察します。

公表されている発掘調査報告書から、予期しない発見をしているかもしれないと考えると、ワクワクしてきます。








2016年3月25日金曜日

船尾白幡遺跡 鉄の道具

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.312 船尾白幡遺跡 鉄の道具

鉄鏃と刀子を除く鉄製の道具類について考察します。

船尾白幡遺跡の鉄製品(鉄鏃と刀子を除く)の出土数は次の通りです。

船尾白幡遺跡 鉄製品(鉄鏃と刀子を除く)の出土数

製品別にみると鎌の出土数が最も多くなっています。

これを年代別に見ると次のようになります。

船尾白幡遺跡 鉄製品(鉄鏃と刀子を除く)の年代別出土数

鎌は各年代から継続して出土し、同時に各年代ともに出土数が多くなっています。

このことから、鎌の用途がもし特定の用途(特定の作物に関わるような用途)であれば、船尾白幡遺跡の生業の一つを手繰り寄せることができると思います。

出土した鎌の形状等から、その用途が特定できるのか、できないのか、専門的知識がないので残念ながらわかりません。

一方、紡錘車の出土状況と小字地名(白幡)から、船尾白幡遺跡の主要生業の一つが絹生産ではないかと疑っています。

もし絹生産が主要生業の一つであるとすると、鎌は桑切鎌であることになります。


次に鉄製品の分布状況を見てみます。

鉄鏃と刀子を除く鉄製品の出土数の分布は次のようになります。

船尾白幡遺跡 鉄製品出土状況(鉄鏃と刀子を除く)

全鉄製品(鉄鏃と刀子を除く)の分布状況はほぼ竪穴住居の分布と一致するように観察できます。

次に、鎌の出土状況を示します。

船尾白幡遺跡 鎌出土状況

参考に紡錘車の分布図を再掲します。

参考 白幡前遺跡 紡錘車出土状況

紡錘車出土はDゾーン中心で隣接するC、Eゾーンにも分布し、Fゾーンは少なくなっています。Dゾーンに偏在していると言っていいと思います。その偏在性と小字「白幡」をリンクさせて考えています。

ところが、鎌はFゾーンからも集中出土していて、紡錘車のようにDゾーン付近に偏在している状況にはなっていません。

紡錘車と鎌は出土数が多いので、同じ生業に関わる道具と考えてよいと思います。

紡錘車と鎌は桑-繭(絹)生産、麻-麻布生産、あるいはその両方に関わる道具だと考えます。

このブログでは小字白幡の存在から桑-繭(絹)生産が白幡前遺跡の主要生業ではないだろうかと疑っています。

もし、その推定が正しいとすると、紡錘車と鎌出土分布の相違は次のように解釈します。

・紡錘車分布が絹糸生産と絹織物生産の場所を示す。

・鎌分布が繭生産の場所を示す。

つまり、桑の木を植えて蚕を育て繭を生産する場所は集落全体に広がっていて、その繭から絹糸を取り出し、絹織物をつくる場所は特定の場所に限られていたと考えます。

絹生産という当時の最先端バイオテクノロジーを活用した生業では集落内で一種の分業が行われていたと考えることになります。

次に鉄製品種別出土状況を掲載します。

船尾白幡遺跡 穂摘具出土状況

船尾白幡遺跡 斧出土状況

船尾白幡遺跡 錐出土状況

船尾白幡遺跡 槍鉋出土状況

船尾白幡遺跡 くるる鍵出土状況

船尾白幡遺跡 釘出土状況

船尾白幡遺跡 不明鉄製品出土状況

これらの分布図から、DゾーンとFゾーンはともに各種鉄製品を出土し、拠点性をもっていたと考えることができます。

しかし、Fゾーンは鎌出土が多いにも関わらず紡錘車出土が少ないので、Dゾーンの配下(指導下)にあるより現場性のより強い拠点であったと考えます。原材料生産拠点であったと考えます。


Dゾーンは原材料が製品化される産業集約拠点であったと考えます。

Dゾーンは原材料(繭)を製品(絹織物)にする付加価値の高い生産現場であり、その場所がすなわり集落の政治的統治拠点であることから、この場所から銙帯が出土しているのだと思います。


2016年3月23日水曜日

船尾白幡遺跡 鉄鏃と刀子

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.311 船尾白幡遺跡 鉄鏃と刀子

船尾白幡遺跡の鉄鏃と刀子の出土状況を見てみました。

鉄鏃と刀子は武器です。

鉄鏃は攻撃的な武器です。

刀子は防御も兼ねた武器であると考えます。

刀子は万能道具として用いられたと説明される場合が多いですが、鳴神山遺跡の出土状況から古代下総では武器としての意義が大変強いような感触を持っています。

1 鉄鏃の出土状況

鉄鏃の時期別出土状況を竪穴住居軒数と対比しながらみると次のようになります。

竪穴住居軒数と鉄鏃出土数

9世紀第1四半期の出土がなく、9世紀第2四半期と第3四半期の出土が多いのが特徴です。

蝦夷戦争が終了して動員解除・徴発解除直後の9世紀第1四半期には鉄鏃の必要性、つまり武器を必要とする治安悪化に対する対応が少なかったけれでも、9世紀第2四半期、第3四半期には武器を必要とした様子を読み取ることができます。

参考に鳴神山遺跡の同様のグラフを示すと次のようになります。

参考 鳴神山遺跡の竪穴住居軒数と鉄鏃出土数(サンプル調査)

船尾白幡遺跡の鉄鏃増加時期・パターンは鳴神山遺跡と類似していると考えます。

次に鉄鏃の出土状況を分布図で示します。

船尾白幡遺跡 鉄鏃出土状況

鉄鏃出土が集中するのは、DゾーンとFゾーンです。

Dゾーンは銙帯が出土していて政治的中枢部と考えられます。
また紡錘車出土も集中するので集落資産が集積していると考えられます。
したがって、Dゾーン付近に鉄鏃が集まることは政治的・経済的な直接防衛措置として理解できます。

Fゾーンはこれまでの検討ではまだその性格がつかめていませんが、北側からこの船尾白幡遺跡に侵略圧があり、それに対する防衛の可能性があることをメモしておきます。

参考 船尾白幡遺跡紡錘車出土状況

2 刀子の出土状況

刀子の時期別出土状況を竪穴住居軒数と対比しながらみると次のようになります。

竪穴住居軒数と刀子出土数

鉄鏃と同様に、竪穴住居軒数の消長パターンと比べて、9世紀第2四半期と第3四半期の刀子出土数が多いことが読み取れます。

船尾白幡遺跡でも、9世紀第2四半期と第3四半期の集落隆盛期には刀子を必要とした治安悪化状況が存在したものと考えます。

参考 鳴神山遺跡の竪穴住居軒数と刀子出土数(サンプル調査)

刀子出土パターンは船尾白幡遺跡と鳴神山遺跡と大変類似しています。

次に刀子の出土状況を分布図で示します。

船尾白幡遺跡 刀子出土状況

鉄鏃よりもより広範な遺構から出土していますから、攻撃的な鉄鏃はそれなりの訓練を受けた人間が使い、刀子はそれよりも多くの人が使っていたと考えます。

Dゾーン、Fゾーンに出土が集中するだけでなく、Cゾーンにも出土が集中します。

Cゾーン付近の発掘区域が偏在的であるため円満なイメージを持つことができませんが、非発掘域に竪穴住居や掘立柱建物の集中域(資産の集中域)が存在していて、その防衛の意味があるかもしれません。

また既存集落に地続きとなるIゾーンやHゾーンに奴婢や俘囚などが逃亡しないようにするための監視施設があったのかもしれません。(萱田遺跡群の白幡前遺跡でも類似の検討を行ったことがあります。)



2016年3月22日火曜日

宗像神社参拝

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.310 宗像神社参拝

船尾と戸神の宗像神社に参拝してきました。

船尾の宗像神社

次のような詳しい由緒が書かれた看板がありました。

船尾の宗像神社由緒書

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宗像神社

御社名
御社名は、宗像神社(むなかたじんじゃ)と申し上げます。大社は福岡県宗像市に鎮座する「宗像大社」であります。大社においては三神がそれぞれ辺津宮(へつみや・本島)、中津宮(なかつみや・大島)、沖津宮(おきつみや・沖ノ島)へそれぞれ祀られております。

胸肩・胸形・宗形神社と称する神社もあるが、宗像神社は全国においても数は少数である。しかし宗像系の神社となると全国有数(5位)の神社数となる。厳島神社も同じ祭神であります。

御祭神
宗像神社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています。三女神のお名前は田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、この三女神を総して「宗像三女神」と申します。

古事記においては、誓約において、天照御大神が須佐之男命(すさのを)の十拳剣を譲り受けて生んだとされており、須佐之男命の物実(ものざね…天の真名井ですすぎ、ロで噛みくだいてキリとして吐き出した)から化生したので須佐之男命の子としている。

また、日本書紀には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々からいかに篤い崇敬を受けられていたかがうかがえます。'

御神徳
船尾宗像神社の創建年代は不詳です。三女神で、航海治水・交通安全の神です。また、天照大神より皇室のご繁栄を祈ることが、国民の繁栄に通ずる道であることを明示された、国の平安、家内安全の神であります。

宗像三女神の一柱、市杵島姫神は美女の代名詞・弁天様ともいわれ、美容・開運・金運・芸能・知恵などの信仰も深い。

船尾の宗像神社は印西八ヶ村の総社といわれました。元文2年7月21日に、旧京都の吉田殿より正一位宗像大明神の宣旨を給わりました。

【宗像大社・神勅】
天照大神が宗像三女神を高天原(たかまがはら)から筑紫の国にお降しになりましたが、その時に授けられたのが左記の神勅です。

神勅とは『古事記』『日本書紀』に記述されている天照大神の勅命(神様の出されたご命令)のことです。「筑紫の国に降り、沖津宮・中津宮・辺津宮に鎮まりなさい。そして歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」と示され、皇室のご繁栄を祈ることが、国民の繁栄に通ずる道であることを明示されたのです。


宗像大社・神勅
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説明文の中に「日本書紀には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみです」という記述がありますが、このブログで考えていること「墨書土器「大」「天(則天文字)」の意味」と何か通じるところがあるような気がして、うれしくなります。

参考 墨書文字「大」「天(則天文字)」の意味(2016.03.13検討)

戸神の宗像神社は交通の便から、土地の人以外はあまり訪れない場所にあります。

戸神の宗像神社

由緒書の看板がありました。

戸神宗像神社由緒書

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宗像神社

鎮座地
千葉県印西市戸神九二十番地

御祭神
田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命の宗像三女神を祀る。

御由緒
鎮座年歴不詳。創設以来、幾度か改修されたものと思われますが、大正十一年三月不慮の火災により諸記録が焼失してしまいました。

約一千年程前、印旛沼、手賀沼、利根川、牛久沼、霞ヶ浦等この一帯が未だ内海であった頃、印旛沼、手賀沼沿岸に、宗像神社十三社、鳥見神社二十社、麻賀多神社十七社が、全国的に類を見ない特異な形態で配祀されました。こうした状況から「三神社」共ほぼ同一年代に鎮座されたものと考えられ、当地宗像神社も九世紀後半期に創設されたものと推定されます。

更には、この地に集落が出来た上代に遡るとも考えられます。以来、戸神武西両区産土神社として尊崇され、代々に亘り氏子崇敬者の生活の安全と繁栄とを見守って来られました。

平成十六年鞘屋殿、幣殿、拝殿が再建され合わせて境内整備が行われました。
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私がこの神社に抱いているイメージと異ならない由緒が書かれています。

鳴神山遺跡の開発が行われる前(古墳時代)からこの神社は存在したと考えます。

鳴神山遺跡の開発が行われた奈良時代・平安時代には、この神社を祀る宗像海洋族の末裔住民と全員外来者である開発地新住民の共存関係があったと考えます。

戸神の宗像神社からの眺望は圧巻です。

戸神の宗像神社からの眺望

戸神川が印旛沼(現在の神崎川)に注ぐ空間をパノラマで見ることができます。

古墳時代の初期に、この印旛沼にはるばる九州からやってきた宗像海洋族が、この眺望のよい場所に信仰の拠点を設けたと考えます。

宗像神社参拝の後、近くの西根遺跡(跡)を見学しました。

西根遺跡(跡)

そばの水田あぜ道で土器破片を拾いました。

拾った土器破片

西根遺跡と鳴神山遺跡・船尾白幡遺跡の位置関係や距離を体感することができました。



2016年3月21日月曜日

船尾白幡遺跡 紡錘車

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.309 船尾白幡遺跡 紡錘車

1 遺物記述のためのゾーン設定

船尾白幡遺跡付近の状況を次に示します。

船尾白幡遺跡付近の状況

船尾白幡遺跡の学習では、古代印旛沼との関係、古墳時代から継続している居住地域(その象徴が宗像神社)、近隣遺跡(鳴神山遺跡、西根遺跡等)との関連がどのようなものであったのか、その把握を絶えず行いたいと思います。

同時に、船尾白幡遺跡の出土物等の検討を行う場合、空間的記述を行うために手がかりとなる適当なものがないので、このブログでは次のようなゾーン設定をしました。

船尾白幡遺跡記述のためのゾーン設定

このゾーンはあくまでも記述する際の大ざっぱな位置関係を明らかにするものであり、考古における意味を持たせたものではありません。

2 紡錘車出土状況

紡錘車出土情報を整理してみました。

船尾白幡遺跡から紡錘車は全部で13出土しています。全て石製か土製です。鉄製紡錘車は出土していません。

紡錘車の出土遺構は次の通りです。

船尾白幡遺跡紡錘車出土状況

C、D、E、Fゾーンから出土していますが、Fゾーンでは竪穴住居軒数の多さに比べて出土数が1であり低調です。

紡錘車は遺跡から満遍なく出土しているというより、Dゾーンを中心にその周辺を含めて、偏って出土しているように観察できます。

紡錘車の出土遺構の年代は次の通りです。

船尾白幡遺跡 紡錘車出土数

紡錘車出土遺構の内、掘立柱建物分(紡錘車出土数1)は年代が不明であるので、このグラフには含まれていません。

紡錘車出土年代は9世紀(蝦夷戦争後の経済発展期)に強く偏っていて、8世紀後葉~9世紀初頭分は1つだけです。

蝦夷戦争の準備や蝦夷戦争時代には船尾白幡遺跡では紡錘車を使った活動、つまり麻か絹の製糸活動は大変低調だったと考えます。

麻とか絹ではない別の生産活動(あるいはサービス)が生業のメインだったと想定します。おそらく今後他の遺物を検討していけばそれが何であるか判明すると思います。

次に船尾白幡遺跡の紡錘車出土数がどのような意味を持つか、近隣遺跡と比較して考察してみました。

遺跡別紡錘車出土数

遺跡別竪穴住居100軒当たり紡錘車出土数

近隣遺跡と比べて、紡錘車出土数は多いものではありませんが、竪穴住居100軒当たり紡錘車出土数という指数の比較をすると、船尾白幡遺跡は数値が最も高くなります。

船尾白幡遺跡は近隣遺跡と比較すると、紡錘車を使った活動が大変濃かった(活発であった)ということができます。

船尾白幡遺跡の生業のメインが紡錘車を使った製糸活動である可能性も考慮する必要があるようです。

そして、その活動が活発であった時期は9世紀第1四半期~第3四半期頃ということです。

蝦夷戦争後の経済が大発展した時期に、船尾白幡遺跡の紡錘車活動は近隣遺跡の中で相対的に秀でていた可能性があります。

3 参考 紡錘車活動と小字名白幡
このブログでは地名に興味を持ち、これまで白幡という地名について何度も検討してきました。
2015.06.27記事「古代遺跡名称に多く現れる「白幡」」など多数

船尾白幡遺跡域にも小字名白幡が存在し、「どうも紡錘車出土と小字名白幡が関係しそうだ」という感触を持ちましたので、メモしておきます。

白幡の詳細検討は千葉県小字データベースが完成しましたので、今後本格検討する予定です。

次に船尾白幡遺跡付近の小字名分布と白幡の位置を示します。

船尾白幡遺跡付近の小字名 白幡
出典:印西町字界図(昭和63年9月)平成13年4月印西市総務部資産税課復刻

今後小字名白幡について次のような観点から検討する予定です。

・白幡は古代地名であるか?
(地名白幡に、その後の時代に別の意味(例 源氏の白旗)が付与されたものもあります。このブログでは、後世に付与された意味ではなく、その地名が発生した時代を突き止めます。)

・白幡の意味は次のどれであるか?
ア 白(シラ)・・・新羅、幡(ハタ)・・・秦氏、つまり渡来系住民の居住地を示す。
イ 白(シラ)・・・「オシラサマ」のシラと同じであり原義は繭の白さ、幡(ハタ)は機(ハタ)であり織物機械、つまり絹製品生産地を示す。
ウ アに関連してハイテク技術(製鉄など)の存在を示す。
エ 上記以外

これまで、このブログでは上記アに興味を持っていたのです、千葉県小字データベースが完成して、情報が増えると、どうもイが正解らしいということになってきました。

イが正解とすると、船尾白幡遺跡は小字名白幡の意味解明のための1つの根拠になると思います。

次の図は船尾白幡遺跡の紡錘車出土状況と小字名白幡の情報を示したものです。

船尾白幡遺跡の紡錘車出土と小字名白幡

発掘区域と小字名白幡があまり対応していないという制約はありますが、紡錘車出土状況と小字名白幡の関係を暗示するだけの情報になります。

紡錘車で紡いでいた糸が絹糸であった可能性を今後検討します。

ただ、鉄製紡錘車が1つも出土しない点が気になります。
このような関係は白幡前遺跡(八千代市)ではもっと明確に把握できそうですが、白幡前遺跡では多数の鉄製紡錘車が出土します。

地名の由来検討に考古発掘資料を活用するということも有りうることになるかもしれません。