2014.08.29記事「駅路ルートと遺跡密度」をヒートマップに基づいて改訂します。
市区町村別遺跡密度図では大局的なことしかわかりませんでしたが、ヒートマップではより具体的な遺跡密度がわかるようになりました。従って、ヒートマップと駅路ルート図をオーバーレイすると駅路ルートの意義に関する豊かな仮説を構築することができます。
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「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)に「古代の交通路」という章があり、興味深い情報が掲載されていますので、その情報と遺跡密度図(ヒートマップ)との関係を考察してみました。
1 駅路の変遷
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)には駅路(えきろ)図が時代別に3枚掲載されていますのでその紹介と感想を述べます。
なお、駅路網については、類似の情報を題材に2013.06.29記事「紹介 東国駅路網の変遷過程」等の検討を過去に行っています。
Ⅰ期(8世紀初め~771年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅰ期は古墳時代末期(飛鳥時代)から奈良時代の後期までの時期の駅路網です。
東海道の本路線は三浦半島から海路浦賀水道を渡り、東京湾岸を陸路ですすみ、千葉市付近から成田市付近を通り当時の香取の海にでて対岸に渡り常陸国に入ります。
このルートは律令国家が駅路を整備するはるか以前から使われてきたものです。
支路がネットワーク状につながっています。
Ⅱ期(771年~805年)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅱ期は奈良時代末期から平安時代始期のころの駅路網です。
浦賀水道を通るルートが廃止され、本路線は西から陸路井上駅(下総国府近く、市川市)に到達し、そこから東京湾岸を東に進み、河曲駅(千葉市)からⅠ期と同じルートを北に進みます。
Ⅲ期(805年~10・11世紀代)の駅路
「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)掲載駅路網図
駅路ルートを塗色しました。幹線(東海道本路)は太く塗色しました。
Ⅲ期は平安時代以降の駅路網です。
本路線は井上駅から手賀沼付近を通りそこから香取の海を渡っています。印旛浦付近を避けるルートとなっています。
Ⅰ期、Ⅱ期において東海道本路線が香取の海の中央付近に出るルートであり、Ⅲ期になるとルートがより合理的になり東国と都を結ぶようになります。(ルートが短縮されます。)
この理由について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では征夷(蝦夷征夷)と弓削道鏡のかかわりの2点から説明しています。大変興味深い説明です。
この中で、Ⅰ、Ⅱ期の時代では香取の海沿岸が征夷の出撃拠点、兵站基地として重要な時期であったということと、Ⅱ期では道鏡政権が人脈上武蔵国と上総国を重視していたということを詳しく説明してます。
駅路ルートの変遷理由はとても詳しく、かつわかりやすく書いてあります。
2 浮島駅の場所
さて、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では駅家(えきか)の推定位置一覧表があるのですが、浮島駅が習志野市津田沼・鷺沼付近となっています。
吉田東伍は幕張町付近(花見川河口)と推定して、このブログでも吉田東伍の推定が合理的であると判断して、思考を組み立てきています。(2014.04.04記事「花見川地峡が古代交通の要衝であったことに気がつく」など多数)
浮島駅の推定が吉田東伍の推定と異なることを明示しているのですが、その理由については説明されていません。この書における浮島駅の場所推定根拠を詳しく知りたいと思いました。
縄文時代以来使われてきた花見川地峡(花見川-平戸川[印旛浦])の交通を考えた時、浮島駅が花見川河口を外して、わざわざ別の場所である津田沼付近につくられた合理的理由を考えることは困難です。
また、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)では浮島牛牧の位置を幕張町付近に比定していますが、同時期同名称の「浮島」駅を別の場所である津田沼付近に推定することは歴史地理認識の一貫性という点で、同書中で矛盾しています。
浮島駅の推定場所は私が考える東海道水運支路仮説の根幹をなすポイントの一つですから、花見川河口ではない別の場所に推定する説については、その根拠を知ることが出来れば、その確からしさを詳しく検討したいと思います。
3 河曲駅から荒海駅までのルート
河曲駅から荒海駅までの陸路ルートの地図上での概略位置を知りたくなりました。またそのルートと都川-鹿島川水運ルートとの関係も知りたくなりました。
今後調べたいと思います。
河曲駅から荒海駅までの区間が弥生時代から平安時代までの間、房総の植民・開発の最重要軸であり、西方から常陸国・陸奥国へ入る最重要交通路であったといえます。
4 駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)のオーバーレイ
駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)をオーバーレイして並べてみました。
Ⅰ期駅路網図は古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)と奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)の2つにオーバーレイしています。
Ⅱ期駅路網図は奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)とオーバーレイしています。
Ⅲ期駅路網図は平安時代遺跡密度図(ヒートマップ)とオーバーレイしています。
駅路網図と遺跡密度図(ヒートマップ)のオーバーレイ図
「古墳時代・Ⅰ期ルート」図はⅠ期ルートが公式に制定される前から、その道が古墳時代の幹線道路であったと考えて作成したものです。
東海道本路線が上総と下総の高密度地域をつないでいるように見えます。
しかし、「平安時代・Ⅲ期ルート」図をみると、下総の高密度地域の分布と東海道本路線ルートの位置とは関係が無くなっています。それにもかかわらず、Ⅱ期まで通っていた東海道本路線の位置にそれまで以上に遺跡が密集します。つまり地域開発が進んでいます。
このように上記オーバーレイ図から様々な考察ができますので、それを次のまとめてみました。
●古墳時代・Ⅰ期ルート図
弥生時代、古墳時代にあっては、東京湾岸沿いに北上する植民ルートと印旛沼-鹿島川沿いに北上する植民ルートが千葉付近で邂逅します。
この二つのぶつかりあう植民ルートが後の東海道本路線の原型となったと考えます。
●奈良時代・Ⅰ期ルート図
東京湾岸→鹿島川-印旛沼ルートが房総を貫く最大交通軸となり、常陸国・陸奥国への幹線ルートとして東海道本路線になったと考えます。
●奈良時代・Ⅱ期ルート図
市川→千葉や鹿島川-印旛沼ルートが常陸国・陸奥国への幹線ルートに変更になりました。
変更になった最大の理由は海路(東京湾横断)を止め、陸路にした点にあります。律令国家としては支配力の源泉として馬を利用した高速通行・通信を重視したのだと思います。海路(東京湾横断)があっては通行・通信が天候に左右されてしまいます。
私が考える東海道水運支路仮説(花見川-平戸川・印旛沼・香取の海ルート)はこの時期(Ⅱ期)以降の物資兵員輸送ルートとして位置付けることができます。
●平安時代・Ⅲ期ルート図
遺跡密度の高い場所と駅路ルートが乖離しますから、東海道本路線は高速移動・通信網として機能し、それまでの本路線であった市川-千葉-鹿島川・印旛沼ルートは物資兵員輸送幹線ルートとして機能したのだと考えます。
Ⅲ期には、駅路ルートの性格が中央集権国家の情報伝達という機能に特化し、物資兵員輸送路とは分化した時代であったと考えます。それだけ蝦夷戦争が激烈になり、馬を利用した高速情報伝達が迅速な国家意思決定のために必須になっていたのだと思います。
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この記事を持ちまして、 「3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討」を完結とします。
次の記事から、途中まで進んだ「3.2縄文弥生時代の交通」を再開します。
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