2014年10月1日水曜日

縄文交通路パターン作業仮説 追補

花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.35縄文交通路パターン作業仮説 追補

2014.09.30記事「遺跡密度図による縄文交通路パターン作業仮説の作成」に次の情報を追補します。

1 千葉県北部の縄文時代交通路パターン仮説(ar2014093002)の作成方法
この仮説は単純に遺跡密度図だけから作成したのではなく、当時の海陸分布図(地形段彩図)と遺跡密度図(ヒートマップ)を重ね合せて作成しました。

次の図は標高9m以下を黒で塗った地形段彩図です。

標高9m以下を黒に塗った地形段彩図

この黒の部分が縄文海進クライマックス期の海面分布をほぼ表現しています。

この黒の部分(縄文海進時の海面)の谷津内終端部にミナトが存在したと仮定してミナト位置を仮説しました。

千葉県北部の縄文時代交通路パターン仮説(ar2014093002)を地形段彩図を基図に表現すると次のようになります。

千葉県北部の縄文時代交通路パターン仮説(ar2014093002)
基図は地形段彩図

2 縄文時代交通路パターンに関する空想
作成した作業仮説を観察すると、水運路を基本とし、その水運路を結ぶ台地越部(陸路)を加えて構成されていることがわかります。

一つの海内の水運路の終端にミナト(交易機能)が存在して、そこから陸路で次の海につながっていくパターンの連続になっています。

このパターンで関東から東北まで交易ルートがつながっていたと想像します。

台地越えの部分に関して次の想像をしました。

縄文時代交通路の台地越部に関する空想

海と陸の境にミナトがつくられ、そこが交易の場となり、また荷造りを水運仕様から陸運仕様に変更したのだと思います。

台地を挟んで2箇所のミナトがあるのですが、恐らく並立して存在していたのではなく、主要な交易場と補助的な交易場に機能分化していたに違いありません。

また水運で荷を運んできた人にとって台地陸運はサポートが必要になるので、おそらく台地陸運に専業的にかかわった集団が存在したと想像します。

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