2014年10月6日月曜日

先住縄文人と入植弥生人

花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.39先住縄文人と入植弥生人

1 先住縄文人と入植弥生人の関係
2014.10.05記事「弥生時代遺跡密度図(ヒートマップ)の作成」で検討したように、縄文時代遺跡高密度域と弥生時代遺跡高密度域がほとんど重ならないことから、縄文時代最後期の縄文人と弥生時代の活動の中心を担った人々の出自が異なると考えました。
これをもう少し検討を深めてみます。

次の図は縄文時代と弥生時代の遺跡高密度地域を模式的にくくり、同じ地図(地形段彩図)にプロットしたものです。

縄文時代遺跡密集地と弥生時代遺跡密集地の分布

縄文時代遺跡密集地と弥生時代遺跡密集地は印旛沼南岸の1部と東京湾岸都川河口付近の極1部で重なるだけで、他は全く重複しません。
この事実から次のような思考をしました。

ア 弥生遺跡密集地を作った人びと(弥生人)は外部(西方)から移動して千葉に入植した。

イ 弥生人は入植する場所として縄文時代遺跡密集地を意図的に避けた。
・縄文時代最後期には縄文遺跡でアクティブなものは極少数だったようです。ですから、弥生人が千葉に入植してきたころの縄文遺跡は無人ではないが、廃墟のような環境(廃墟が点在する環境)が拡がっていたと想像します。
・弥生人は縄文廃墟地域(廃墟が点在する地域)を利用することなく、自分達にとって好都合な更地を生活の場として確保していったものと考えます。
・弥生人が縄文廃墟地域を利用しなかった理由は①弥生人が必要とする生活空間(生業地、居住地等)が縄文人がまばらな地域にいくらでもあったこと、②縄文廃墟地域に利用できるような人的資源や生産力が無かったこと、③縄文人との争いを避けたこと、④廃墟地域には墓など忌(不浄)に関する地物があり利用を意識的に忌避したこと、などが考えられます。

ウ 先住縄文人と入植弥生人の直接関係の場があったかもしれない。
・縄文時代遺跡密集地と弥生時代遺跡密集地は印旛沼南岸の1部と東京湾岸都川河口付近の極1部で重なりますが、この位置にある遺跡の情報から先住縄文人と入植弥生人の関係がわかるかもしれないと考えます。(追って集中的に調べてみたいと思います。)
・入植弥生人にとって利用できる縄文人の人的資源(社会組織)や生産力がそこにあったかもしれないと想定します。
・この場所が縄文人と弥生人の共生の場であり、あるいは緩衝地帯であったと考えます。

2 弥生人の千葉入植ルート
次の弥生時代遺跡密度図(ヒートマップ)に弥生人の2つの入植中心地とその入植ルートを描きこんでみました。

弥生時代遺跡密集地から想定される入植利用航路と2つの入植中心地域

kと書いた上総入植中心地域は西方からきた弥生人が東京湾を渡り、舟であるいは陸路東京湾岸を北上して入植したことは確実だと思います。
この入植地は都川付近が北端になっています。これ以上北上して入植地を拡げるだけの勢いがなかった(入植者がそこまではいなかった)と考えます。

sと書いた下総入植中心地域は、東京湾を北上して丘越えした集団が印旛浦に入ったのではなく、房総半島をぐるりと廻り栄町付近から印旛浦に入り上流へむかった集団が入植したものと考えます。
その理由として次の項目をあげることができます。
①ヒートマップで特徴的なことの1つは房総南端、勝浦夷隅付近、銚子付近、東庄に弥生遺跡の中程度の密集地が分布することです。
この事実から、弥生時代に房総半島をぐるりと回り香取の海に入り、東庄を中継地として印旛浦への航路が開発されていたことは確実です。
印旛浦に入植した弥生人はこの航路を利用して来訪したと考えることが交通面から自然な発想です。
②k地域とS地域の対面する部分がともに縄文遺跡密集地と重なるところです。つまり弥生人と縄文人が共生した場所です。これは入植弥生人と先住縄文人がぶつかりできた緩衝地帯であるともいえます。この共生地帯、緩衝地帯と見える場所を、弥生人が東京湾側から突っ切って印旛沼側に入り、入植範囲を広げたとは考えられません。
③k地域とS地域の弥生文化(土器形式など)が異なり、両地域の弥生人は別出自と考えられます。

次の記事で弥生時代の域内交通について考えて見ます。

0 件のコメント:

コメントを投稿