2014年10月13日月曜日

奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)の作成

花見川地峡史-メモ・仮説集>3花見川地峡の利用・開発史> 3.1埋蔵文化財データに基づく地域特性基礎検討>3.1.45奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)の作成

1 奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)の作成
旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と同じ方法で奈良時代遺跡密度図(ヒートマップ)を作成しました。

なお、基となる奈良時代遺跡リストはこのブログで調整(追補)しています。2014.08.27記事「奈良時代遺跡密度データを補正する」参照

途中経過で作った擬似プロット図と最終成果のヒートマップを並べて示します。

奈良時代 擬似プロット図とヒートマップ

2 市区町村別遺跡密度図とヒートマップの比較
市区町村別遺跡密度図とヒートマップを対照して示すと次のようになります。

奈良時代 市区町村別遺跡密度図とヒートマップの対照
市区町村別遺跡密度図で得ることができる情報を、ヒートマップはさらに詳しく展開してより具体地理的に示しています。
二つの地図に比較から、市区町村別遺跡密度図から得られる情報が、使っている市区町村界が非整形、大小ばらばらにもかかわらず、思いのほか価値のある情報であると直感できます。

3 古墳時代と奈良時代のヒートマップ比較
古墳時代と奈良時代のヒートマップを対照できるように示すと次のようになります。

古墳時代と奈良時代のヒートマップ比較

赤い目玉(遺跡高密度地域)の密度分布が根本的に変化していることが最大の特徴です。

上総に赤い目玉が集中していた分布から下総に赤い目玉が多出する分布に変化しました。

弥生時代→古墳時代の比較ではヒートマップ分布に根本的な変化が見られませんでした。

古墳時代→奈良時代でヒートマップ分布が根本的に変化する理由は、一言でいうと東海道の幹線交通路が変更になったためです。

古墳時代までは畿内(ヤマト王権)と上総が東海道の幹線交通路で直結していましたが、奈良時代になると畿内(律令国家)と下総が直結し、上総は東海道の幹線交通路から支線に分かれた場所に位置付けられたためであると考えられます。

幹線交通路に関わる地勢の根本変化で社会開発される場所が上総から下総に移動したのです。

幹線交通路の変更はその背景に律令国家の急迫する陸奥政策(蝦夷戦争)がありました。

この時代の上総と下総のニュアンスを次の図に表現してみました。

古墳時代遺跡密度図から感じる上総、下総のニュアンス

古墳時代にはヤマト王権と上総は直結していて、わが世を謳歌できて社会発展しました。しかしそれは一時の出来事で、風雲急を告げる蝦夷戦争の出撃拠点が香取の海、涸沼になり、交通上律令国家と下総・常陸(常総地域)が直結しました。その結果上総は交通上は脇道に位置付けられしまいました。

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