花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.25 古代花見川船越付近の地物想定
古代「東海道水運支路」(仮説)の現場検討に入ります。
この記事では古代花見川-平戸川(※)船越付近の地物想定を説明します。
通称「新川」(河川行政名称は「印旛放水路(上流部)」)の近世以前の名称は平戸川であるので、古代記述では古称である「平戸川」名称を使います。
次の図はWEBサイト「ふさの国ナビゲーション」(千葉県)から取得した埋蔵文化財分布図に、古代「花見川-平戸川船越」付近地物想定を描きこんだものです。
古代「花見川-平戸川船越」付近の地物(想定)
Google earthを利用して斜めに地表を俯瞰した様子。
古代「花見川-平戸川船越」の地物として次の4つをこれからの記事で順次説明したいと思っています。
図に示した位置(円の位置)は埋蔵文化財データとのある程度整合をとったもので、概略位置を示しています。
ア 船越陸路(直線道路)
イ 高津(直轄港湾)
ウ 船着場(杵隈[かしわい])
参考 エ 高津馬牧
また古代「花見川-平戸川船越」に関連する浮島駅付近の地物について次の3つを別記事で説明します。
ア 花見川河口津
イ 浮島駅家
参考 ウ 浮島牛牧
参考図 古代「花見川-平戸川船越」の地物(想定)と標準地図
参考図 古代「花見川-平戸川船越」の地物(想定)と旧版1万分の1
参考図 古代「花見川-平戸川船越」の地物(想定)と8mより低い低地分布
参考図 Google earth画面
なお、浮島駅-船越(高津)-印旛浦河口津をセットで説明するのが筋だと思いますが、印旛浦の知識が不足し、また山方駅家の場所など再考する必要が出てきたので、船越から印旛浦下流(北側)域の検討は別に行います。
2014年12月20日土曜日
埋蔵文化財分布図のGIS貼付け結果
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.24 埋蔵文化財分布図のGIS貼付け結果
WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)から得た画像をそのままGISに貼り付けてみました。
埋蔵文化財分布図のGIS貼付け結果
いつもWEBの小窓でしか見ていない分布図を集成してみると際立った特徴が見て取れます。
埋蔵文化財分布が東京湾水系、分水界台地、印旛浦の水系で異なる様相を示しています。
今後、この分布のなかから古墳時代・奈良時代・平安時代の遺跡を抽出して古代「東海道水運支路」(仮説)との関連を検討していきます。
参考までに上記貼付け結果をGoogle earthに貼り付けて眺めてみました。
「埋蔵文化財分布図のGIS貼付け結果」のGoogle earth貼付け
この絵を見て、古代「東海道水運支路」(仮説)に関する思考がいろいろと湧いてきました。
WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)から得た画像をそのままGISに貼り付けてみました。
埋蔵文化財分布図のGIS貼付け結果
いつもWEBの小窓でしか見ていない分布図を集成してみると際立った特徴が見て取れます。
埋蔵文化財分布が東京湾水系、分水界台地、印旛浦の水系で異なる様相を示しています。
今後、この分布のなかから古墳時代・奈良時代・平安時代の遺跡を抽出して古代「東海道水運支路」(仮説)との関連を検討していきます。
参考までに上記貼付け結果をGoogle earthに貼り付けて眺めてみました。
「埋蔵文化財分布図のGIS貼付け結果」のGoogle earth貼付け
この絵を見て、古代「東海道水運支路」(仮説)に関する思考がいろいろと湧いてきました。
2014年12月18日木曜日
埋蔵文化財分布図のGIS貼付け
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.23 埋蔵文化財分布図のGIS貼付け
2014.12.17記事「下敷き作業用の埋蔵文化財分布図作成」で古代「東海道水運支路」(仮説)に関連する埋蔵文化財分布図の作成について報告しました。
この分布図を使って、早速古代「東海道水運支路」(仮説)の見立てに関する記事を書くつもりでした。
しかし、Illustrator上の首尾よくできた埋蔵文化財地図を見て、その上で(Illustrator上で)いろいろな作業をしてもそれをGISやGoogle earthにそのまま展開することはおそらく多少の誤差もでるし、いくつかの不都合があることに気がつきました。
古代「東海道水運支路」(仮説)の検討データは直接GISやGoogle earthで使えるデータにしたいという欲が生れます。
ふと、WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)から得た画像をそのままGISに貼り付けるという方法があることに気がつきました。
早速、画像を地図太郎PLUSに読み込んでみました。(背景地図→背景地図を開く→位置情報のない地図・航空写真画像【要:画像位置合わせ】)
地図太郎PLUSの縮尺は1/15000にしてあります。WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)で1/15000という縮尺で得た画像だったからです。
地図太郎PLUSに画像を貼りつけた様子 1
縮尺が合っていません。
ここで画像を拡大・縮小して縮尺を合わせることも可能ですが、その手間は是非とも避けたいです。
そこで、この画面のなかで同じ地物間の距離を地図太郎PLUSに表示された電子国土(刊行地図)と貼付け画像の双方で計測し、地図太郎PLUSの縮尺を調整して貼付け画像と同じ縮尺にしました。
次は地図太郎PLUSの縮尺を1/8095に設定して、画像を貼り付けた様子です。
地図太郎PLUSに画像を貼りつけた様子 2
貼付け画像は通常モード
地図太郎PLUSに画像を貼りつけた様子 3
貼付け画像は乗算モード
ピタリとあっています。
貼付け画像を「乗算」モードにして位置合わせするのですから真にピタリとあいます。
これで、WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)から得た画像を、画像の拡大・縮小の手間をかけることなく、乗算モードを活用して効率的にかつ正確に張り付けることが可能であると判りました。
Illustrator上の埋蔵文化財分布図を作成して、古代「東海道水運支路」(仮説)の検討基盤ができたと一瞬よろこんだのですが、1日でそれよりはるかに汎用性の高い歴史考古空間の作業基盤づくりに突入できました。
Illustrator上の埋蔵文化財分布図を使って検討作業をするのではなく、地図太郎PLUS上の埋蔵文化財分布図で検討作業をしたいと思います。
検討結果を表現する時にIllustratorを使うことにします。
なお、これまで埋蔵文化財の緯度経度情報は持ち合わせていませんでしたが、GIS上に埋蔵文化財分布図を張付けたことにより、自動的に緯度経度情報を得たことになります。
その情報(地図太郎PLUSの情報)を使ってQGIS上で各種分析をすることも可能になります。
また、話は大いに飛びますが、長年の夢であったGIS上の小字分布図作成もこの方法を応用すれば可能であるような気がしてきました。
2014.12.17記事「下敷き作業用の埋蔵文化財分布図作成」で古代「東海道水運支路」(仮説)に関連する埋蔵文化財分布図の作成について報告しました。
この分布図を使って、早速古代「東海道水運支路」(仮説)の見立てに関する記事を書くつもりでした。
しかし、Illustrator上の首尾よくできた埋蔵文化財地図を見て、その上で(Illustrator上で)いろいろな作業をしてもそれをGISやGoogle earthにそのまま展開することはおそらく多少の誤差もでるし、いくつかの不都合があることに気がつきました。
古代「東海道水運支路」(仮説)の検討データは直接GISやGoogle earthで使えるデータにしたいという欲が生れます。
ふと、WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)から得た画像をそのままGISに貼り付けるという方法があることに気がつきました。
早速、画像を地図太郎PLUSに読み込んでみました。(背景地図→背景地図を開く→位置情報のない地図・航空写真画像【要:画像位置合わせ】)
地図太郎PLUSの縮尺は1/15000にしてあります。WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)で1/15000という縮尺で得た画像だったからです。
地図太郎PLUSに画像を貼りつけた様子 1
縮尺が合っていません。
ここで画像を拡大・縮小して縮尺を合わせることも可能ですが、その手間は是非とも避けたいです。
そこで、この画面のなかで同じ地物間の距離を地図太郎PLUSに表示された電子国土(刊行地図)と貼付け画像の双方で計測し、地図太郎PLUSの縮尺を調整して貼付け画像と同じ縮尺にしました。
次は地図太郎PLUSの縮尺を1/8095に設定して、画像を貼り付けた様子です。
地図太郎PLUSに画像を貼りつけた様子 2
貼付け画像は通常モード
地図太郎PLUSに画像を貼りつけた様子 3
貼付け画像は乗算モード
ピタリとあっています。
貼付け画像を「乗算」モードにして位置合わせするのですから真にピタリとあいます。
これで、WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)から得た画像を、画像の拡大・縮小の手間をかけることなく、乗算モードを活用して効率的にかつ正確に張り付けることが可能であると判りました。
Illustrator上の埋蔵文化財分布図を作成して、古代「東海道水運支路」(仮説)の検討基盤ができたと一瞬よろこんだのですが、1日でそれよりはるかに汎用性の高い歴史考古空間の作業基盤づくりに突入できました。
Illustrator上の埋蔵文化財分布図を使って検討作業をするのではなく、地図太郎PLUS上の埋蔵文化財分布図で検討作業をしたいと思います。
検討結果を表現する時にIllustratorを使うことにします。
なお、これまで埋蔵文化財の緯度経度情報は持ち合わせていませんでしたが、GIS上に埋蔵文化財分布図を張付けたことにより、自動的に緯度経度情報を得たことになります。
その情報(地図太郎PLUSの情報)を使ってQGIS上で各種分析をすることも可能になります。
また、話は大いに飛びますが、長年の夢であったGIS上の小字分布図作成もこの方法を応用すれば可能であるような気がしてきました。
2014.12.18 今朝の花見川
今朝の花見川は一段と寒く、空は一段と青く、身が引き締まるような散歩でした。
花見川風景
柏井付近 東岸から西岸を見る
花見川風景
横戸緑地下
枯れ松の伐採が進んでいます。
花見川風景
弁天橋より下流
弁天橋の路面に凍結防止剤がまかれていましたが、道路端の一部は凍結していました。
花見川風景
弁天橋より上流
朝日のビル反射がまぶしかったです。
身が引き締まるような散歩中に、思考が活発化し、埋蔵文化財分布図のGIS貼付けアイディアが生れました。
花見川風景
柏井付近 東岸から西岸を見る
花見川風景
横戸緑地下
枯れ松の伐採が進んでいます。
花見川風景
弁天橋より下流
弁天橋の路面に凍結防止剤がまかれていましたが、道路端の一部は凍結していました。
花見川風景
弁天橋より上流
朝日のビル反射がまぶしかったです。
身が引き締まるような散歩中に、思考が活発化し、埋蔵文化財分布図のGIS貼付けアイディアが生れました。
2014年12月17日水曜日
下敷き作業用の埋蔵文化財分布図作成
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.22 下敷き作業用の埋蔵文化財分布図作成
花見川-平戸川船越に関する古代「東海道水運支路」(仮説)の検討を進めていますが、これまでの検討で房総全体の古代交通の中での花見川-平戸川船越の意義について検討を深めてきました。
いよいよ、現場の検討に入りたいと思います。
まず手始めに、下敷き作業用の埋蔵文化財分布図を作ってみました。
WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)には埋蔵文化財分布図が掲載されています。この分布図を縮尺1/15000で必要な範囲を表示し、その画像をコピーしてPhotoshopに貼り付けてjpgファイルとしてパソコンに保存しました。
そのファイルをIllustratorに順次ベタベタと貼りつけました。
最近覚えた画像の「乗算」モードを使うと重ねる画像の位置を極めて正確に、かつ瞬時に移動できますから作業が快適で効率的です。
次の図が、このようにして作成した下敷き作業用の埋蔵文化財分布図です。
下敷き作業用の埋蔵文化財分布図
作業し出すと、あの事象も関連付けて考えたい、この事象も関連付けたいと欲が膨らみ、貼り付け範囲がどんどん広がってしまいますが、とりあえず区切りました。おそらくこの作業図はもっと範囲が広がると思います。
この下敷き作業用の埋蔵文化財分布図を活用して、これからしばらく、古代「東海道水運支路」(仮説)を現場レベルで検討します。
花見川-平戸川船越に関する古代「東海道水運支路」(仮説)の検討を進めていますが、これまでの検討で房総全体の古代交通の中での花見川-平戸川船越の意義について検討を深めてきました。
いよいよ、現場の検討に入りたいと思います。
まず手始めに、下敷き作業用の埋蔵文化財分布図を作ってみました。
WEBサイト「ふさの国埋蔵文化財ナビゲーション」(千葉県)には埋蔵文化財分布図が掲載されています。この分布図を縮尺1/15000で必要な範囲を表示し、その画像をコピーしてPhotoshopに貼り付けてjpgファイルとしてパソコンに保存しました。
そのファイルをIllustratorに順次ベタベタと貼りつけました。
最近覚えた画像の「乗算」モードを使うと重ねる画像の位置を極めて正確に、かつ瞬時に移動できますから作業が快適で効率的です。
次の図が、このようにして作成した下敷き作業用の埋蔵文化財分布図です。
下敷き作業用の埋蔵文化財分布図
作業し出すと、あの事象も関連付けて考えたい、この事象も関連付けたいと欲が膨らみ、貼り付け範囲がどんどん広がってしまいますが、とりあえず区切りました。おそらくこの作業図はもっと範囲が広がると思います。
この下敷き作業用の埋蔵文化財分布図を活用して、これからしばらく、古代「東海道水運支路」(仮説)を現場レベルで検討します。
2014年12月16日火曜日
戦略思考にもとづく下総国府の計画的配置
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.21 下戦略思考にもとづく下総国府の計画的配置
房総の古代交通を考える際にその検討を避けることができないポイントとして下総国府設置の計画性があると考えています。そのテーマについて予察的に検討してみました。
1 下総国領域と古墳時代遺跡密度図
下総国領域と古墳時代遺跡密度図
下総国領域について古墳時代遺跡密度を見てみると香取の海沿岸に赤色地域(遺跡高密度地域=当時の開発地域)が分布しています。
古墳時代の下総国領域の拠点的地域が香取の海沿岸にあったことは確実です。
この場所の近くに下総国領域の重心(※)がありますから、領域支配を効率的に行ううえで合理的な場所であるといえます。
※ QGISの機能を利用して重心をもとめました。
一方下総国府の場所は遺跡密度がもっとも低い場所となっています。古墳時代には拠点的施設は存在していなかったと考えます。
律令国家になると、下総国では古墳時代にあった伝統的地域支配拠点から離れて、いわば更地の場所に国府を開いたのですから、その計画性は顕著なものがあります。
なぜそうしたのか、検討してみます。
2 下総国領域と常総地域・総武地域
下総国領域と常総地域・総武地域
下総国の地勢的特性として、常総地域(香取の海沿岸地域)と総武地域(東京湾沿岸)の双方にまたがって領域が存在しているということがあります。
この地勢的特性が下総国府の計画的配置に関わっていると考えます。
もし、常総地域に国府を配置すると、常陸国との関わりは強めることができますが、総武地域の武蔵国や上総国などとの関わりを深めることに支障がでます。
さらにその場所は国家中央との窓口になりません。
国府を総武地域に設置すれば、東京湾の水運に関わることができ、相模国、武蔵国、上総国との結びつきはもとより、内陸水運で上野国、下野国との結びつきも強めることが出来ます。
同時に総武地域(東京湾沿岸地域)と常総地域(香取の海沿岸地域)の交通を完全に独占できます。下総国を通過しなければ常陸国へ行けなくなります。
相模湾-東京湾を通じて、下総国が国家中央と陸奥国との間の窓口になることができます。
このような地勢上の戦略性に気がついて、在地の指導者および律令国家中央の政策担当官僚の双方の利害が一致して、国府を既存拠点から市川に移したのだと思います。
下総国府は戦略思考にもとづいて計画的に配置されたのです。
3 奈良・平安時代の交通網
奈良・平安時代の交通網
下総国府をそれまで更地の市川に計画配置して、その結果下総国の国力は大幅に増大しました。それは奈良・平安時代遺跡密度図の赤色地域が増えたことに示されています。
そうした地域開発の進展は3つの船越というインフラ整備が行われ、東京湾と香取の海の水運連絡を独占したことによると考えます。
また、下総国の発展は同時に常陸国の発展につながったと考えます。
房総の古代交通を考える際にその検討を避けることができないポイントとして下総国府設置の計画性があると考えています。そのテーマについて予察的に検討してみました。
1 下総国領域と古墳時代遺跡密度図
下総国領域と古墳時代遺跡密度図
下総国領域について古墳時代遺跡密度を見てみると香取の海沿岸に赤色地域(遺跡高密度地域=当時の開発地域)が分布しています。
古墳時代の下総国領域の拠点的地域が香取の海沿岸にあったことは確実です。
この場所の近くに下総国領域の重心(※)がありますから、領域支配を効率的に行ううえで合理的な場所であるといえます。
※ QGISの機能を利用して重心をもとめました。
一方下総国府の場所は遺跡密度がもっとも低い場所となっています。古墳時代には拠点的施設は存在していなかったと考えます。
律令国家になると、下総国では古墳時代にあった伝統的地域支配拠点から離れて、いわば更地の場所に国府を開いたのですから、その計画性は顕著なものがあります。
なぜそうしたのか、検討してみます。
2 下総国領域と常総地域・総武地域
下総国領域と常総地域・総武地域
下総国の地勢的特性として、常総地域(香取の海沿岸地域)と総武地域(東京湾沿岸)の双方にまたがって領域が存在しているということがあります。
この地勢的特性が下総国府の計画的配置に関わっていると考えます。
もし、常総地域に国府を配置すると、常陸国との関わりは強めることができますが、総武地域の武蔵国や上総国などとの関わりを深めることに支障がでます。
さらにその場所は国家中央との窓口になりません。
国府を総武地域に設置すれば、東京湾の水運に関わることができ、相模国、武蔵国、上総国との結びつきはもとより、内陸水運で上野国、下野国との結びつきも強めることが出来ます。
同時に総武地域(東京湾沿岸地域)と常総地域(香取の海沿岸地域)の交通を完全に独占できます。下総国を通過しなければ常陸国へ行けなくなります。
相模湾-東京湾を通じて、下総国が国家中央と陸奥国との間の窓口になることができます。
このような地勢上の戦略性に気がついて、在地の指導者および律令国家中央の政策担当官僚の双方の利害が一致して、国府を既存拠点から市川に移したのだと思います。
下総国府は戦略思考にもとづいて計画的に配置されたのです。
3 奈良・平安時代の交通網
奈良・平安時代の交通網
下総国府をそれまで更地の市川に計画配置して、その結果下総国の国力は大幅に増大しました。それは奈良・平安時代遺跡密度図の赤色地域が増えたことに示されています。
そうした地域開発の進展は3つの船越というインフラ整備が行われ、東京湾と香取の海の水運連絡を独占したことによると考えます。
また、下総国の発展は同時に常陸国の発展につながったと考えます。
2014年12月15日月曜日
中央と陸奥国を結ぶ古代駅路ルートと水運ルート
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.20 中央と陸奥国を結ぶ古代駅路ルートと水運ルート
2014.12.10記事「陸奥国と中央を結ぶ東海道メインルートの変遷」で紹介した2図書掲載駅路網情報を参考に、奈良時代初め頃から11世紀頃まで使われて駅路網を全て重ねて表現した図を作成して、奈良・平安時代遺跡密度図とオーバーレイしてみました。
変遷した駅路網を重ねて表現した理由は、駅路網のメインルートの変遷がそのまま道路網の改廃新設と考えることができないと考えたためです。
現代でもバイパス道路ができて、交通流の主流がそちらに移っても、旧道は残り生活道路として使われることは一般的なことです。
古代にあっても、駅路網メインルートから外れたルートは道路としてすぐに廃絶するのではなく、長期にわたって重要な交通路として使われたと考えることが適切だと思います。
特に、駅家が河口津を始めほとんど津(直轄港湾、地域の支配拠点)と関わっているという事実から、一度作られた駅路網ルートは、その後駅制から外れても、実際の交通機能は保持して社会的に機能したと考えます。水運網を補完したに違いありません。
1 奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ
奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
東京湾と香取の海の水運をつなぐ3箇所の船越のそれぞれの場所に赤色地域が生れ、それぞれが船越(2つの水域の水運網をつなぐ短区間陸路)として機能していたことを示しています。
赤色地域の分布広がりは東の都川-鹿島川船越で一番大きく、次いで真ん中の花見川-平戸川船越、西の太日川-手賀沼船越は最も小さくなっています。
赤色地域は高遺跡密度を表現しますが、これを開発が進んだ地域=人口高密度地域と読み替えることができると考えます。
そのように読み替える、赤色地域の大小は船越を通過する物流量と相関している可能性があると考えます。
同時に物流量という見方以外の別の視点で、3つの船越の使い方の違いを検討する必要があるように感じています。
花見川河口津に玄蕃所遺跡があります。玄蕃所遺跡は蝦夷捕虜収容所であったと考えると、花見川-平戸川船越は軍用ルートであった可能性が濃厚になります。浮島牛牧や高津馬牧がこの船越の位置にあることも、花見川-平戸川船越が官優先であったというイメージを強めます。
都川-鹿島川船越は花見川-平戸川船越と比べてより民間優先のルートだったのかもしれません。
2 参考 9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート
9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 1
9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 2
9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 3
1の図に9~11世紀の東海道駅路ルートと代表的東海道水運ルートを描きこんでみました。
9~11世紀の東海道駅路ルートは大局的に見ると、相模国府-下総国府-常陸国府を直線状に結んだ形状に収斂しようとしています。
この形状と、相模国府、下総国府、常陸国府はともに既存支配拠点から離れて、計画的に配置され、設置された国府であるという出自との間には深い関係があると考えます。
駅路ルートの計画性と国府配置の計画性の発想の根は同じです。古代人の計画的発想力は現代人に負けていません。
古代国家における計画性については、折に触れ検討を深めたいと思っています。
なお、東海道駅路ルートではこの図の区間だけでも、相模川、多摩川、太日川、香取の海などの渡河地点があり、陸路といっても移動では天候に左右されることが多かったと考えます。
代表的水運ルートは相模湾から太平洋に抜けるまでの間に相模湾-東京湾、東京湾-香取の海、香取の海-涸沼の3箇所の船越が存在します。
船越では荷物を船から一旦全部降ろし、人力運搬で丘越えし、再び船に載せるという手間をかけるのですから、近世や現代の水運と比べると恐ろしく非効率です。しかし造船・航海術や土木技術が未発達の古代では船越という技術により遠方まで水運網の繋がりをつけることができたと考えます。
2014.12.10記事「陸奥国と中央を結ぶ東海道メインルートの変遷」で紹介した2図書掲載駅路網情報を参考に、奈良時代初め頃から11世紀頃まで使われて駅路網を全て重ねて表現した図を作成して、奈良・平安時代遺跡密度図とオーバーレイしてみました。
変遷した駅路網を重ねて表現した理由は、駅路網のメインルートの変遷がそのまま道路網の改廃新設と考えることができないと考えたためです。
現代でもバイパス道路ができて、交通流の主流がそちらに移っても、旧道は残り生活道路として使われることは一般的なことです。
古代にあっても、駅路網メインルートから外れたルートは道路としてすぐに廃絶するのではなく、長期にわたって重要な交通路として使われたと考えることが適切だと思います。
特に、駅家が河口津を始めほとんど津(直轄港湾、地域の支配拠点)と関わっているという事実から、一度作られた駅路網ルートは、その後駅制から外れても、実際の交通機能は保持して社会的に機能したと考えます。水運網を補完したに違いありません。
1 奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ
奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
奈良・平安時代の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
東京湾と香取の海の水運をつなぐ3箇所の船越のそれぞれの場所に赤色地域が生れ、それぞれが船越(2つの水域の水運網をつなぐ短区間陸路)として機能していたことを示しています。
赤色地域の分布広がりは東の都川-鹿島川船越で一番大きく、次いで真ん中の花見川-平戸川船越、西の太日川-手賀沼船越は最も小さくなっています。
赤色地域は高遺跡密度を表現しますが、これを開発が進んだ地域=人口高密度地域と読み替えることができると考えます。
そのように読み替える、赤色地域の大小は船越を通過する物流量と相関している可能性があると考えます。
同時に物流量という見方以外の別の視点で、3つの船越の使い方の違いを検討する必要があるように感じています。
花見川河口津に玄蕃所遺跡があります。玄蕃所遺跡は蝦夷捕虜収容所であったと考えると、花見川-平戸川船越は軍用ルートであった可能性が濃厚になります。浮島牛牧や高津馬牧がこの船越の位置にあることも、花見川-平戸川船越が官優先であったというイメージを強めます。
都川-鹿島川船越は花見川-平戸川船越と比べてより民間優先のルートだったのかもしれません。
2 参考 9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート
9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 1
9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 2
9~11世紀の駅路ルートと代表的水運ルート 3
1の図に9~11世紀の東海道駅路ルートと代表的東海道水運ルートを描きこんでみました。
9~11世紀の東海道駅路ルートは大局的に見ると、相模国府-下総国府-常陸国府を直線状に結んだ形状に収斂しようとしています。
この形状と、相模国府、下総国府、常陸国府はともに既存支配拠点から離れて、計画的に配置され、設置された国府であるという出自との間には深い関係があると考えます。
駅路ルートの計画性と国府配置の計画性の発想の根は同じです。古代人の計画的発想力は現代人に負けていません。
古代国家における計画性については、折に触れ検討を深めたいと思っています。
なお、東海道駅路ルートではこの図の区間だけでも、相模川、多摩川、太日川、香取の海などの渡河地点があり、陸路といっても移動では天候に左右されることが多かったと考えます。
代表的水運ルートは相模湾から太平洋に抜けるまでの間に相模湾-東京湾、東京湾-香取の海、香取の海-涸沼の3箇所の船越が存在します。
船越では荷物を船から一旦全部降ろし、人力運搬で丘越えし、再び船に載せるという手間をかけるのですから、近世や現代の水運と比べると恐ろしく非効率です。しかし造船・航海術や土木技術が未発達の古代では船越という技術により遠方まで水運網の繋がりをつけることができたと考えます。
2014年12月14日日曜日
古代交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.19 古代交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ
1 茨城県域の香取の海沿岸を含めた奈良・平安時代遺跡密度図の作成
古墳時代遺跡密度図と同じ方法(カーネル密度推定、半径パラメータ5000m)で奈良・平安時代遺跡密度図を作成しました。
茨城県の埋蔵文化財時代区分が奈良・平安時代一括であるため、千葉県のデータも同じ区分に調整しました。
次に古墳時代と奈良・平安時代のそれぞれの遺跡密度図の対照図を作成しました。
古墳時代と奈良・平安時代の遺跡密度図対照図
遺跡密度の高い場所が劇的に変化している様子が判ります。
千葉県域という行政区分の枠を超えて茨城県域の一部を同時に検討してとても良かったと思います。香取の海に関する歴史考古の検討の第一歩が踏み出せました。
この記事内容とは直接関わりませんが、この範囲の旧石器時代遺跡密度分布図、縄文時代遺跡密度分布図、弥生時代遺跡密度分布図を早期に作成して、あらためて、常総(香取の海沿岸)と総武(東京湾沿岸)を合わせた地域の歴史考古を検討したくなります。
2 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
ア ヒートマップ
国別に見ると、古墳時代では赤色地域(遺跡密度の高い場所=地域開発が進んでいる場所=人口高密度地域)の拡がりが上総国→下総国→常陸国→安房国の順番が画然としていました。(2014.12.13記事「古代交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ」参照)
ところが、奈良・平安時代の赤色地域の面積は下総国→常陸国→上総国→安房国の順番に劇的に変化しています。
下総国はその領域全体に赤色地域が分散して分布していて領域全体に地域開発が進んでいるよう様子をみることができます。
常陸国(正確にはその一部)では国府の南側に広大な赤色地域が生れています。同時に各所に赤色地域の目玉が生れています。領域全体の開発が急速に進んでいる様子が、一部地域のデータにしかすぎませんが、よくわかります。
一方、上総国は赤色地域が減少し、地域相対的に地盤沈下している様子が手に取る様にわかります。
このような古墳時代→奈良・平安時代の変化と東海道(陸路)メインルートにおける浦賀水道横断の中止が密接に結びついていることは容易に対応づけることができます。
古墳時代にあっては、房総・常陸の植民・開発が主要な地域課題であり、そのためのメインルートは最初から最後まで水運路であり、それは浦賀水道横断しかあり得ませんでした。
ところが奈良時代になり、律令国家の国家戦略して陸奥国における国土拡大が重要課題となり、その手段として蝦夷戦争を始めると、陸奥国と国家中央の高速通信移動網の整備が必要になり、その改革を進めると、相模国府→下総国府→常陸国府を直線状に結ぶ陸路ルートが完成します。上総国は外されます。
また東国諸国の兵員、兵糧を動員して陸奥国に届けるための水運網の強化が課題となりますが、この水運網強化においても、上総国は関係のない地勢に置かれています。
一方、下総国は東京湾と香取の海の水運網をつなぐ船越を3つ持ち、軍事的戦略的要衝地域となります。常陸国は東国諸国から集まった兵員・兵糧を陸奥国に届ける最終出発地としての重責を担います。
3 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
ア オーバーレイ検討
・下総国府付近に赤色地域が生れ、(古墳時代にはほとんど何もなかったこの地域が)行政上の拠点になったことがわかります。
・鳥取駅、山方駅付近に赤色地域が拡がり、河曲駅および大倉駅から香取の海に向かう水運メインルートが都川-鹿島川船越経由であることがわかります。
・花見川-平戸川船越ルートに赤色地域が生れ、都川-鹿島川船越経由の水運路に次ぐ主要水運路であることがわかります。
4 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
・榎浦駅→曾禰駅→常陸国府に向かうルートに赤色地域が生れ、奈良・平安時代のメインルートがこのルートであったことがわかります。
・常陸国府の西南隣に赤色地域が連担し、国府を起点に地域開発が急速に進展したことがしのばれます。
・また、常陸国各所の赤色地域の目玉が生れ、常陸国自体が急速に地域開発されていった様子を感じることが出来ます
1 茨城県域の香取の海沿岸を含めた奈良・平安時代遺跡密度図の作成
古墳時代遺跡密度図と同じ方法(カーネル密度推定、半径パラメータ5000m)で奈良・平安時代遺跡密度図を作成しました。
茨城県の埋蔵文化財時代区分が奈良・平安時代一括であるため、千葉県のデータも同じ区分に調整しました。
次に古墳時代と奈良・平安時代のそれぞれの遺跡密度図の対照図を作成しました。
古墳時代と奈良・平安時代の遺跡密度図対照図
遺跡密度の高い場所が劇的に変化している様子が判ります。
千葉県域という行政区分の枠を超えて茨城県域の一部を同時に検討してとても良かったと思います。香取の海に関する歴史考古の検討の第一歩が踏み出せました。
この記事内容とは直接関わりませんが、この範囲の旧石器時代遺跡密度分布図、縄文時代遺跡密度分布図、弥生時代遺跡密度分布図を早期に作成して、あらためて、常総(香取の海沿岸)と総武(東京湾沿岸)を合わせた地域の歴史考古を検討したくなります。
2 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
ア ヒートマップ
国別に見ると、古墳時代では赤色地域(遺跡密度の高い場所=地域開発が進んでいる場所=人口高密度地域)の拡がりが上総国→下総国→常陸国→安房国の順番が画然としていました。(2014.12.13記事「古代交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ」参照)
ところが、奈良・平安時代の赤色地域の面積は下総国→常陸国→上総国→安房国の順番に劇的に変化しています。
下総国はその領域全体に赤色地域が分散して分布していて領域全体に地域開発が進んでいるよう様子をみることができます。
常陸国(正確にはその一部)では国府の南側に広大な赤色地域が生れています。同時に各所に赤色地域の目玉が生れています。領域全体の開発が急速に進んでいる様子が、一部地域のデータにしかすぎませんが、よくわかります。
一方、上総国は赤色地域が減少し、地域相対的に地盤沈下している様子が手に取る様にわかります。
このような古墳時代→奈良・平安時代の変化と東海道(陸路)メインルートにおける浦賀水道横断の中止が密接に結びついていることは容易に対応づけることができます。
古墳時代にあっては、房総・常陸の植民・開発が主要な地域課題であり、そのためのメインルートは最初から最後まで水運路であり、それは浦賀水道横断しかあり得ませんでした。
ところが奈良時代になり、律令国家の国家戦略して陸奥国における国土拡大が重要課題となり、その手段として蝦夷戦争を始めると、陸奥国と国家中央の高速通信移動網の整備が必要になり、その改革を進めると、相模国府→下総国府→常陸国府を直線状に結ぶ陸路ルートが完成します。上総国は外されます。
また東国諸国の兵員、兵糧を動員して陸奥国に届けるための水運網の強化が課題となりますが、この水運網強化においても、上総国は関係のない地勢に置かれています。
一方、下総国は東京湾と香取の海の水運網をつなぐ船越を3つ持ち、軍事的戦略的要衝地域となります。常陸国は東国諸国から集まった兵員・兵糧を陸奥国に届ける最終出発地としての重責を担います。
3 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
ア オーバーレイ検討
・下総国府付近に赤色地域が生れ、(古墳時代にはほとんど何もなかったこの地域が)行政上の拠点になったことがわかります。
・鳥取駅、山方駅付近に赤色地域が拡がり、河曲駅および大倉駅から香取の海に向かう水運メインルートが都川-鹿島川船越経由であることがわかります。
・花見川-平戸川船越ルートに赤色地域が生れ、都川-鹿島川船越経由の水運路に次ぐ主要水運路であることがわかります。
4 奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
・榎浦駅→曾禰駅→常陸国府に向かうルートに赤色地域が生れ、奈良・平安時代のメインルートがこのルートであったことがわかります。
・常陸国府の西南隣に赤色地域が連担し、国府を起点に地域開発が急速に進展したことがしのばれます。
・また、常陸国各所の赤色地域の目玉が生れ、常陸国自体が急速に地域開発されていった様子を感じることが出来ます
2014年12月13日土曜日
古代交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.18 古代交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ
茨城県域の香取の海沿岸を含めた遺跡密度図を作成し、古代交通網とオーバーレイして交通に関する問題を検討してみます。
次のような検討を予定しています。
●奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ(この記事)
●奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ(記事にする予定)
●平安時代交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ(記事にする予定)
1 茨城県域の香取の海沿岸を含めた古墳時代遺跡密度図の作成
茨城県域の香取の海沿岸の古墳時代遺跡と千葉県域全体の古墳時代遺跡の情報に基づいてカーネル密度推定(半径パラメータ=5000m)を行い、古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)を作成しました。
茨城県域の香取の海沿岸地域および千葉県全域の古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)
このヒートマップの赤色地域は古墳時代に地域開発されていて人口が多かった地域であると読み替えることができると考えます。
同様に、白色地域はある程度地域開発されていて人口が中程度だった地域、青色地域は地域開発がほとんどされていない場所で人口が少なかった地域と読み替えて使うこととします。
2 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
ア ヒートマップ
古墳時代遺跡密度図から顕著な特徴と読み取ることができます。
・上総国に赤色地域が東京湾岸から内陸に向かって広く分布している。
・下総国には香取の海沿岸に赤色地域が狭い範囲で分布している。
・常陸国には赤色地域は分布していない。白色地域のみ分布している。
・安房国には狭い範囲のみ白色地域が分布している。
国別に地域開発の程度が極端に違うことが読み取れます。
イ 交通網図
駅路網は奈良時代前~中期(「千葉県の歴史」(千葉県)の第Ⅰ期)を、水運網はその駅路網から推定できるものを記入してあります。
ウ オーバーレイ検討
・国家意思としての蝦夷戦争をしていない古墳時代では、総武・常総地域と西方との交通を考えると、総武・常総地域のターミナルは上総国であると考えて間違いないと思います。
・古墳時代にあっては、総武・常総地域の中で上総国が特段に地域開発が進んでいるのですから、当初(奈良時代前~中期)の駅路網のメインルートが三浦半島から浦賀水道を渡るルートであったことは地理空間的にみて直感できます。西方と上総国を、武蔵国府を回るルートでつなぐことはあまりにも遠回りになり、考えつくことすらできなかったと思います。
・古墳時代には上総国から下総国、常陸国の方向に人々の植民活動が進行していったと考えられます。その時代に使われた道路は奈良時代の駅家名称を使うと、大前→藤瀦→島穴→大倉→河曲→鳥取→山方→真敷→板来→さらに北へ、或いは山方で分岐し、山方→荒海→榎浦→さらに北へというルートだったと考えます。河曲→浮島→井上というルートは使われることがほとんどないルートであったと考えます。
・水運網は古墳時代も奈良平安時代もあまり大きな変化がなかったと考えます。
3 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
ア ヒートマップ
・上総国の赤色地域が東京湾岸から河川上流に向かって延びています。このことから、地域開発が村田川、養老川、小櫃川、小糸川の谷津に沿って進んでいったことがわかります。同時に赤色地域の部分が内陸水運可能地域であったことを示している可能性があります。
・下総国府の場所が青色地域であり、地域開発がほとんどされていません。この事実から古墳時代の下総国領域の支配拠点はこの場所には存在していなかったことがわかります。(この場所が総武・常総地域支配の戦略的要衝であったことから、律令国家がその成立時頃に下総国府をこの場所に計画的に設置したと考えます。)
イ オーバーレイ検討
・古墳時代の河曲-浮島-井上を結ぶ湾岸地域は地域開発とはかかわりが少なく、河曲-浮島-井上ルートの交通は少なかったと考えます。
4 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
ア ヒートマップ
・下総国の赤色地域は奈良時代以降の赤色地域とは異なっているようです。二つの赤色地域は香取の海および印旛浦のそれぞれを「押さえる」ような要衝の地であり、軍事的要衝の地域開発が古墳時代には先行したことがわかります。
・常陸国府の場所より白色が濃い場所が近くにあり、常陸国府の設置も下総国府と同じように計画性を感じます。既存の拠点との結びやすさと鹿島神宮への連絡性を考慮して新たに設置したと考えます。
茨城県域の香取の海沿岸を含めた遺跡密度図を作成し、古代交通網とオーバーレイして交通に関する問題を検討してみます。
次のような検討を予定しています。
●奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ(この記事)
●奈良時代前~中期の交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ(記事にする予定)
●平安時代交通網と奈良・平安時代遺跡密度図のオーバーレイ(記事にする予定)
1 茨城県域の香取の海沿岸を含めた古墳時代遺跡密度図の作成
茨城県域の香取の海沿岸の古墳時代遺跡と千葉県域全体の古墳時代遺跡の情報に基づいてカーネル密度推定(半径パラメータ=5000m)を行い、古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)を作成しました。
茨城県域の香取の海沿岸地域および千葉県全域の古墳時代遺跡密度図(ヒートマップ)
このヒートマップの赤色地域は古墳時代に地域開発されていて人口が多かった地域であると読み替えることができると考えます。
同様に、白色地域はある程度地域開発されていて人口が中程度だった地域、青色地域は地域開発がほとんどされていない場所で人口が少なかった地域と読み替えて使うこととします。
2 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 1
ア ヒートマップ
古墳時代遺跡密度図から顕著な特徴と読み取ることができます。
・上総国に赤色地域が東京湾岸から内陸に向かって広く分布している。
・下総国には香取の海沿岸に赤色地域が狭い範囲で分布している。
・常陸国には赤色地域は分布していない。白色地域のみ分布している。
・安房国には狭い範囲のみ白色地域が分布している。
国別に地域開発の程度が極端に違うことが読み取れます。
イ 交通網図
駅路網は奈良時代前~中期(「千葉県の歴史」(千葉県)の第Ⅰ期)を、水運網はその駅路網から推定できるものを記入してあります。
ウ オーバーレイ検討
・国家意思としての蝦夷戦争をしていない古墳時代では、総武・常総地域と西方との交通を考えると、総武・常総地域のターミナルは上総国であると考えて間違いないと思います。
・古墳時代にあっては、総武・常総地域の中で上総国が特段に地域開発が進んでいるのですから、当初(奈良時代前~中期)の駅路網のメインルートが三浦半島から浦賀水道を渡るルートであったことは地理空間的にみて直感できます。西方と上総国を、武蔵国府を回るルートでつなぐことはあまりにも遠回りになり、考えつくことすらできなかったと思います。
・古墳時代には上総国から下総国、常陸国の方向に人々の植民活動が進行していったと考えられます。その時代に使われた道路は奈良時代の駅家名称を使うと、大前→藤瀦→島穴→大倉→河曲→鳥取→山方→真敷→板来→さらに北へ、或いは山方で分岐し、山方→荒海→榎浦→さらに北へというルートだったと考えます。河曲→浮島→井上というルートは使われることがほとんどないルートであったと考えます。
・水運網は古墳時代も奈良平安時代もあまり大きな変化がなかったと考えます。
3 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 2
ア ヒートマップ
・上総国の赤色地域が東京湾岸から河川上流に向かって延びています。このことから、地域開発が村田川、養老川、小櫃川、小糸川の谷津に沿って進んでいったことがわかります。同時に赤色地域の部分が内陸水運可能地域であったことを示している可能性があります。
・下総国府の場所が青色地域であり、地域開発がほとんどされていません。この事実から古墳時代の下総国領域の支配拠点はこの場所には存在していなかったことがわかります。(この場所が総武・常総地域支配の戦略的要衝であったことから、律令国家がその成立時頃に下総国府をこの場所に計画的に設置したと考えます。)
イ オーバーレイ検討
・古墳時代の河曲-浮島-井上を結ぶ湾岸地域は地域開発とはかかわりが少なく、河曲-浮島-井上ルートの交通は少なかったと考えます。
4 奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
奈良時代前~中期の交通網と古墳時代遺跡密度図のオーバーレイ 3
ア ヒートマップ
・下総国の赤色地域は奈良時代以降の赤色地域とは異なっているようです。二つの赤色地域は香取の海および印旛浦のそれぞれを「押さえる」ような要衝の地であり、軍事的要衝の地域開発が古墳時代には先行したことがわかります。
・常陸国府の場所より白色が濃い場所が近くにあり、常陸国府の設置も下総国府と同じように計画性を感じます。既存の拠点との結びやすさと鹿島神宮への連絡性を考慮して新たに設置したと考えます。
2014年12月12日金曜日
50㎝刻み地形段彩図で古代駅名称を考える
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.17 50㎝刻み地形段彩図で古代駅名称を考える
1 井上(いかみ)駅
井上という名称は、通常の砂州形状と異なり、まるで水流を堰き止めるような珍しい砂州が存在していて、それを井(=井堰)にたとえ、その井(=井堰)つまり砂州の上の土地を井上(いかみ)と呼んだ地名に由来すると考えます。
現代では井上を「いかみ」と読んでいますが、古代の発音は「いうえ」あるいは「いのうえ」であった可能性が強いと思います。
井上駅家は砂州上にあったと考えます。
井上駅家の場所推定
井上駅家付近の風景
5mメッシュを活用して、地図太郎PLUS、Kashmir3Dを使って描画。
井上駅家付近の風景(説明)
参考 井上駅家付近の風景(説明)
参考 国府台遺跡出土 墨書土器
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)より引用
この井上が書かれた墨書土器の出土により、この地が井上駅であることが決定づけられたようです。
2 浮島(うきしま)駅
浮島という名称は、幕張の砂丘が周辺台地と一体に見えないで、島状の形状になっているので、それを水面に浮かぶ葦などがつくる浮島にたとえた地名に由来すると考えます。
浮島駅家は砂丘上にあったと考えます 。
なお、延喜式には浮島牛牧という施設名称がでてきます。この浮島牛牧は、この古代地名「浮島」の場所、つまり幕張の砂丘上にあったと考えます。
浮島牛牧と浮島駅家が隣接して同時に存在していたと考えます。
浮島駅家の場所推定
浮島駅家付近の風景
5mメッシュを活用して、地図太郎PLUS、Kashmir3Dを使って描画。
浮島駅家付近の風景(説明)
3 河曲(かわわ)駅家
河曲という名称は、古代都川の流路が大きくメアンダーしていて、その有様が地名となり、その地名に由来すると考えます。
河曲駅家は都川が大曲する要因となっている砂州の上にあったと考えます。
河曲駅家の場所推定
河曲駅家付近の風景
5mメッシュを活用して、地図太郎PLUS、Kashmir3Dを使って描画。
河曲駅家付近の風景(説明)
……………………………………………………………………
他の古代駅名称の検討も今後行い、折に触れて記事にしたいと考えています。
1 井上(いかみ)駅
井上という名称は、通常の砂州形状と異なり、まるで水流を堰き止めるような珍しい砂州が存在していて、それを井(=井堰)にたとえ、その井(=井堰)つまり砂州の上の土地を井上(いかみ)と呼んだ地名に由来すると考えます。
現代では井上を「いかみ」と読んでいますが、古代の発音は「いうえ」あるいは「いのうえ」であった可能性が強いと思います。
井上駅家は砂州上にあったと考えます。
井上駅家の場所推定
井上駅家付近の風景
5mメッシュを活用して、地図太郎PLUS、Kashmir3Dを使って描画。
井上駅家付近の風景(説明)
参考 国府台遺跡出土 墨書土器
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)より引用
この井上が書かれた墨書土器の出土により、この地が井上駅であることが決定づけられたようです。
2 浮島(うきしま)駅
浮島という名称は、幕張の砂丘が周辺台地と一体に見えないで、島状の形状になっているので、それを水面に浮かぶ葦などがつくる浮島にたとえた地名に由来すると考えます。
浮島駅家は砂丘上にあったと考えます 。
なお、延喜式には浮島牛牧という施設名称がでてきます。この浮島牛牧は、この古代地名「浮島」の場所、つまり幕張の砂丘上にあったと考えます。
浮島牛牧と浮島駅家が隣接して同時に存在していたと考えます。
浮島駅家の場所推定
浮島駅家付近の風景
5mメッシュを活用して、地図太郎PLUS、Kashmir3Dを使って描画。
浮島駅家付近の風景(説明)
3 河曲(かわわ)駅家
河曲という名称は、古代都川の流路が大きくメアンダーしていて、その有様が地名となり、その地名に由来すると考えます。
河曲駅家は都川が大曲する要因となっている砂州の上にあったと考えます。
河曲駅家の場所推定
河曲駅家付近の風景
5mメッシュを活用して、地図太郎PLUS、Kashmir3Dを使って描画。
河曲駅家付近の風景(説明)
……………………………………………………………………
他の古代駅名称の検討も今後行い、折に触れて記事にしたいと考えています。
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