2014年4月4日金曜日

花見川地峡が古代交通の要衝であったことに気がつく

シリーズ 花見川地峡とは その4

散歩しはじめた頃は、印旛沼堀割普請より以前の古代に、ここに船着場や港湾、それを結ぶ古代直線道路があることなど想像すらできませんでした。

しかし、地形的に花見川地峡の存在を知ることにより、それを手がかりにして次のような事実を認識することができました。

●散歩と史料やGIS検討により気がついた事実と構築仮説
1 時間的・空間的視野を拡げると、縄文海進時代に北総地域において香取の海と東京湾の入り江が接近してできた地峡箇所は限定されること。

2 その内の1箇所は花見川地峡であり、別の1箇所は大堀川地峡であり、大堀川地峡(流山市加付近と大堀川谷底の間に出来た地峡)は古代東海道が通っていたこと。

3 1、2を踏まえてさらに観察と史料検討を深める中で、花見川地峡に古代の船着場と港湾及びそれを結ぶ直線道路の存在仮説を構築できたこと。

これらの事実・仮説の詳しい説明と検討はあらためて別シリーズで行いますが、要点を次に図で示します。

縄文海進時代における北総地域の主な地峡

縄文海進時代における、香取の海と東京湾との間の主な地峡は3つあります。
三ヶ尾沼地峡は明治期に利根運河開削に利用されました。
大堀川地峡は古代東海道として利用されました。
花見川地峡は古代東海道水運支路として利用されたと仮説しています。

古代東海道ルート

古代東海道は井上→浮嶋→河曲→香取社方面のルートが最初に在り、後に井上→茜津→於賦→常陸国府方面のルートに変更になったと考えられています。茜津と於賦の間は大堀川地峡を通ります。


花見川地峡における古代船着場、港湾、直線道路の存在仮説

地名柏井は杵隈(船着場)の意味、高津は延喜式の出てくる高津馬牧の高津であると考えます。高津には軍事的土塁跡が残存しています(仮説)。
双子塚古墳と高台南古墳を結ぶ直線道路は近世には馬除土手として利用され戦後まで残り、町丁目境として現在でその跡が伝わっています。


古代東海道水運支路仮説

古代東海道水運支路は花見川と平戸川を利用し、杵隈(柏井)と高津の間は陸路(直線道路)で結び、東京湾と香取の海をつないでいたと考えます。
高津、志津、公津は古代の津(軍事港湾)であると考えます。

花見川地峡に古代船着場、古代港湾、古代直線道路が存在し、古代東海道水運支路が開かれていたという仮説が実証されるならば、千葉県の歴史を塗り替える画期的なことです。

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