2014年4月14日月曜日

花見川地峡縄文海進に関する既存文献(平戸川(新川)筋)

シリーズ 花見川地峡成立の自然史 -仮説的検討-
第1部 現代から縄文海進まで遡る その8

イ 平戸川(新川筋)
「八千代市の歴史 通史編 上」(平成20年、八千代市発行)に古鬼怒湾(=香取の海)の記述があります。
次の地質断面図と記述が掲載されています。

新川低地の地質断面図
「八千代市の歴史 通史編 上」p18

記述「古鬼怒湾がどこまで入りこんでいるかは、十分に明らかになっていない。図15は古鬼怒湾の範囲である。新川低地では宮内付近、桑納川低地では吉橋付近まで海成のb層が分布するが、その分布限界はあきらかでなく、当時の海岸線を描くことはできない。またこれらの低地の支谷や神崎川低地では調査も行われておらず、この問題の解答は今後に残されている。」(「八千代市の歴史 通史編 上」p17~18)

ここまでの記述はこのブログにおける検討(2014.04.11記事「平戸川(新川)筋の縄文海進時海陸分布」)と整合しています。

八千代市の歴史で用いた地質資料よりボーリング資料が増えたので、このブログでは縄文海進の海の広がりを宮内付近から3kmほど上流(南側)の大和田付近まで含めて考えることができました。

平戸川(新川)筋の縄文海進における海陸分布イメージ図


なお、「八千代市の歴史 通史編 上」p18には次の誤解を招く図が掲載されています。

誤解を招く図版
「八千代市の歴史 通史編 上」p18

この図版だけを見ると誰でも縄文海進の範囲は宮内橋までであると理解してしまいます。

恐らくそのためであると考えられますが、八千代市立郷土博物館の展示や図録では縄文海進が最も進行した約6000年前の海岸線は宮内橋付近にあったと断定し、その位置を特定的に表示しています。

八千代市関係の方とお話すると、異口同音に「新川の縄文海進は宮内橋まで」という断定の言葉をいただきます。

「古鬼怒湾がどこまで入りこんでいるかは、十分に明らかになっていない。」という認識が忘れられてしまい、誤解を招く図版が誤って一人歩きしてしまっています。

今後、八千代市立郷土博物館によって平戸川(新川)筋縄文海進の海分布について見直が行われ、情報が新しいものに更改されることがあれば、うれしいことです。

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